「ただいまあ」
 階下のばたばたいう足音で、千早は目を覚ました。どうやら、窓際の机に突っ伏したまま眠ってしまったらしい。窓の外はすっかり暮れていて、海も対岸も、もう影絵のようにくろぐろとしている。肩には、小母さんが持ってきてくれたらしい、薄手の毛布が掛けてあった。
 目をこすりながら階段を下りていくと、小母さんと女の子の声がしていた。
 「今日はずいぶん遅かったじゃないか。もう配膳の時間だよ」
 「うん、すぐやる」
 「って、お前、まだそんな格好してるの」
 御膳を高く積み重ねて運んでいこうとしていた少女は、そこで初めて気が付いたように自分の服装を見下ろした。水着の上に、大きな白いシャツ。Tシャツは濡れて下の水着の紺地が透けて見えていて、華奢な体つきがよく分かった。シャツの裾は邪魔にならないように片方で縛ってある。ショートカットの髪は、今水から上がってきたばかりのように、べったりと濡れていた。
 「ああ、しまった」がっしゃんと、勢い良く御膳を傍らのテーブルに置く。「着替えてくるよ」またばたばたと廊下の方に向かっていこうとした。
  小麦色の肌と、茶色がかった髪。背はすらりと伸びているが、この少女が記憶にある綾に違いなかった。千早が階段の途中からひらひらと小さく手を振ると、気付いた綾はびっくりしたような顔をして立ち止まった。
 綾の目線の先を追っていた小母さんも、千早が2階から下りてきているのに気付いた。
 「ああ、起きたのね…長旅で疲れていたのかしら、千早ちゃんずいぶん良く寝ていたわよ。ああ、それから、これがさっき話した綾。綾、千早お姉ちゃんよ」
 「千早です。よろしくね、綾ちゃん」
  綾は、母親に促されると、あわててぺこりとお辞儀をした。「五十鈴綾、中学1年生です。よ、よく参られました。おかまいないですが、どうぞよろしく」
 しどろもどろにそう言うと、照れて顔を伏せたまま廊下に出て行ってしまった。
 「まったく、何言ってるんだろうね。宿屋の娘だっていうのに、挨拶ひとつ出来なくて…。千早ちゃん、迷惑かも知れないけど、いろいろ教えてやってね」
 「はい、私に出来ることだったら」千早は微笑んだ。よかった。いい子みたいだ。

  宿泊客の食事が済むと、小母さんが夕飯の支度をしてくれた。賄いだからあまり期待しないでね、と小母さんは言っていたが、煮物も魚の切り身の入った味噌汁も、皆すごく美味しかった。小母さんは今度の盆祭りの話などをしてくれ、話が弾んだが、綾の方は時折横の千早の方にちらちらと目をやってくるだけで、黙って食べるばかりだった。
 「ごちそうさま」ぱくぱく食べていた綾は、行儀良く手を合わせると、すぐにお茶の間を出て行った。少しすると、外に出て行くつもりなのか、玄関でからころと木のサンダルの音がした。
 「もう海に行っちゃだめだよ。暗くて危ないから」
 「行かないよ。暑いから、物干し台で涼んでくるだけ」がらがらと玄関の戸が閉まる.
 しばらくして食べ終わった千早に、小母さんはお茶でもどう、と勧めてくれた。
 「ありがとう、でも今はいいです」千早は立ち上がりながら小母さんに訊いた。
 「私も物干し台に行ってみたいんですけど、良いですか」

 物干し台は、母屋の横手の、海がよく見える岩場にあった。
 さっきまでは出ていなかった月が凪いだ海面を照らしていて、真っ暗な海でそこだけが蜜を流したようになめらかに光っていた。綾は、岩の出っ張りの一つに腰掛けて、海からの夜風を顔に受けている。下の砂浜に打ち寄せる漣の音がよく聞こえた。
 「気持ちいいね」
 千早は綾の細いシルエットの後ろに立つと、声を掛けた。
 「母さんが言ってた通り。夜の島の海って本当にいい」
 綾は、うん、と頷いて返事をする。しばらく沈黙が続く。
  千早は、思い切って訊いてみた。
  「綾ちゃん、私のこと憶えてた?」
 「うん」綾が頷く。
  「良かった。それじゃあ、改めてよろしくね。私も一人っ子だから、頼りないお姉さんだけど」
 「うん」
 少しの間、二人はそのままの姿勢で、海風に当たりながら佇んでいた。
 「あたし、楽しみだったの。あの時から、ずっと」
 ふと、綾が呟く。
 「え?」
 千早が聞き返したが、綾はそれには答えず、すっと岩場から立ち上ると後ろに向き直った。そして、ワンピースのポケットから何かを取り出すと、「はい」と千早に両手で差し出す。
 受け取った千早は、それを月の明かりに照らしてみた。
 それは、暗黄色の、みごとに石化したヒトデだった。表面の隆起一つ一つが、ここでは月光を受けてまるで宝石のように光輝いて見える。
 「きれい」千早は思わず息を呑んだ。
 「あげるよ。それ、前に秘密基地で見つけたの」
 「秘密基地?」
  「そうだよ」綾の表情からさっきまでのはにかみは消え、代わりに人なつっこい笑顔が浮かんでいた。唇の間から、白い歯が覗いた。
  「千早お姉ちゃん、明日、あたしと海に行こう」


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