5「ばね定数」


 「水平面上にある重さWの物体に、水平と角θをなす向きの力を加えて引き動かす場合、必要な最小の力の水平成分は(   )、鉛直成分は(   )、垂直抗力Nは(   )であり…」
 (ん…f cosθ)(f sinθ)(ええっと、Nf sinθ=Wだから…)
 千鳥は、なるべく手際よく答案に解答を書き込んでいく。短答形式の問題にてこずっていると、次の応用問題まで息が続かなくなってしまう。スピードを最優先に、5、6秒考えても見当がつかないものは飛ばしていく。
 「…ごぽっ」
 ふいに背後で気泡の弾ける音がした。
 「むむ.。ごぽごぽっ。むむ、もももも」
 春菜だ。後席の春菜が、手を挙げながら水中で何か声を上げている。だが、発声は連の言っていた水中発声法とやらからは程遠く、何を言っているのか全く分からない。
 教壇にいた八重山が、フィンをゆったりと動かすと近くに寄ってきた。
 「ももっ。ももももも」
 春菜はまだ声を出している。おそらく、八重山にも意味が通じていないのだろう。でも試験開始から2分くらいしか経っていないのに、あんなに息を吐いて大丈夫なのだろうか。千鳥が思わずちらりと後ろに目をやると、春菜は、小さい子どものように、下腹部に両手を当てるジェスチャーをして見せていた。
 (えっ)(まさか、あんたの言ってた秘策って…)
 なんて古典的な。千鳥は、少し呆れてしまった。春菜は、試験中にプールサイドのお手洗いに行くと言って息継ぎをするつもりだったのだ。でも、それは。
 やっと理解してもらえたらしく、春菜はがちゃがちゃとベルトのバックルを外していた。椅子の上で両脚を曲げる。そして、そのままばねの要領で椅子を蹴り水面に向おうとしたとたん、八重山が腕を伸ばし、水底の一方向を春菜に示して見せた。
 勢いを殺がれた春菜は、身体が浮いてしまいそうになりあわてて椅子の背に両手で掴まり、半ば逆立ちのような体勢になった。
 春菜は、八重山の指先を目で追う。すると、その表情がとたんにさっと硬くなった。
 ―学園の誇る、大学院工学研究科開発の水中簡易手洗所。八重山の指す先には、それが3棟ほど水底に軒を連ねて建っていたのである。
 (…)
 春菜は、明らかに困惑していた。にわかに息も苦しくなってきたらしく、片手で口を抑えながら八重山と手洗所の方を交互に見ている。
 しかし、今さら引っ込みもつかない。八重山は、どうしたんだと言いたげにもう一度腕を伸ばして見せている。覚悟を決めたのだろう、春菜はもはや泣きそうな顔で手足を掻き、10メートルほど向こうの手洗所に向ってもがくように泳いでいった。手洗所の扉に取り付き、開け、中に進入して扉を内側から閉める。なんでも、ここのトイレットはスペースシャトルのオービターなんかと同じ、衛生的な真空吸入式になっているらしい。学園の校庭にはいくつかある施設だが、春菜はその存在を今まで知らなかったのだろうか。
 しばらくすると、手洗所の換気窓―でなくて換水窓―から大量の気泡が立ち上った。と見るやいなや荒々しく扉が開かれ、その空気の主が中からころがり出てくる。
 「゛あ$#@…〒∞∀凾チ、☆☆☆☆☆っ」
 もはや声にもならない声を上げながら、春菜は、半泣きの形相のまま、鮎のように水面を目指して泳ぎ上っていった。

 (春菜…骨は拾ったげるね)
 出席簿に何かを書きつけている八重山を横目に、千鳥は、再び答案にシャーペンを走らせるペースを速めた。試験が始まっておよそ2分40秒。初めての落伍者が出たことで、他の生徒達にもようやく動揺が広まり始めていた。解答を続けながらも、片手で喉を抑える者。いったん筆を置いて、気を落ち着かせようと試みる者。千鳥も、ふいに胸に絞られるような痛みを覚え、呼気が両肺から喉元にせり上がって来るのを感じた。
 (んんっ、来たっ、第一波)
 こういう時、緊張して身体に力が入ると、筋肉が収縮して空気をよけいに消費することになる。息を吐くまいと集中しすぎるのも良くない。千鳥は、体育実技の授業でいつもやらされるように、水底でなく青々とした草原にいる自分をイメージする。風が渡り、草木が靡く。草原にいる千鳥は、その清冽な空気を思い切り吸い込む。
 (すうううう)
 目を閉じ、胸を張ってかるく両腕を下に伸ばす。
 「ごぽぽぽぽっ」
 そして吐く。もちろん全部ではなく、肺八分目くらいを残して口を閉じ、眼を開ける。さっきまでの苦しさは、だいぶ和らいでいた。
 (…OK
 まだ少しは大丈夫だ。そんなに息を吐かなくて済んだし、頭も物を考える余裕がある。千鳥は、短答問題をひとまず切り上げ、次の応用問題に入ることにした。

 「…ごっ。ごぽぽぽぽっ。ごぽぽ」
 その時、前の席で千鳥と同じくイメージでの呼吸コントロールを行っていたらしい早苗の口から、たくさんの気泡の列が立ち上った。
 「ごぽっ。ごぽごぽごぽっ」呼気が止まらない。そのうちに、早苗はシャーペンを取り落とすと、両手で口を押さえて細い肩をがくがくと上下させ始めた。このままでは水を呑んでしまう。早苗は、入学当初はかなづち同然だった子だ。体育実技でも、確かここまで長く潜っているのを見たことがない。いくら武緒の特訓の成果があったとしても、もう息の限界が近いのだろう。
 早苗の異変に気づいた八重山がさっと近付いて来た。早苗の前で、片手の指先をもう一方の掌に当てるしぐさをする。試験を終了させ、例の気道確保と呼吸回復を望むかどうかを尋ねるサインだ。
 (…げっ)
 見ている千鳥は思った。すると、早苗はたちまち弾かれたように姿勢を正し、今までのことが嘘のような笑顔を作ると、八重山に指でOKのサインを示して見せた。そして、屈み込んでさっき落としたシャーペンを拾うと、また一心に試験に取り組み始めた。
 (早苗…)
 千鳥は、しばし自分の息の苦しさも忘れて、友人の小さな背中を見ていた。
 (あなた…漢だよ)