6「回折と干渉」


 教壇横の大時計は、試験開始から3分20秒が経過したことを示していた。
 ここまで来ると、もう苦しがっていない生徒の方が少ない。がぼがぼと泡を吐き、それでも八重山に見つかりそうになると、必死に堪えて平静を装う。
 いったんは持ちこたえた早苗も、ようやく限界を迎えようとしていた。喉元を、両手で握るようにして必死で押さえているが、肩が動くたびに「ごっ」と少しずつ水を呑んでいる。首筋と耳たぶが、長い息こらえのせいで真っ赤に紅潮していた。
 再び、八重山が見回りに来る。そして、また終了のサイン。早苗は、口を押さえながら必死で頭を振るが、八重山は早苗がもうただならぬ状態にあると判断したのだろう、咥えたレギュレーターを口から外し、いよいよ「呼吸回復」の体勢を取ろうとした。
 すると、早苗はふいに両手を口から離した。
 「ごっ。ごごごごっ、ぐぐっ」
 まだ口元に微笑を浮かべながら、大量の水を何度も何度も吸っていく。上体がのけぞり、がくがくと揺れる。その時千鳥は、早苗がわざと溺れるつもりなのが分かった。
 (…早苗っ)
 千鳥は、無意識のうちにバックルを外し、席を立とうとした。
 (早苗)(早苗を助けなきゃ)
 しかし、千鳥はその時誰かが後ろから自分の肩を掴むのを感じた。振り向くと、夏草のように水に靡くショートヘアーと、意志の強い一対の瞳があった。
 (…大丈夫だ。俺がやる)
 武緒だった。
 半ば意識を失いつつも、早苗の身体はまだびくびくと動いている。武緒は、背後から早苗を押さえつけ、八重山が早苗のベルトを容易に外せるようにした。そして、早苗の背中から脇の下に両腕を回すと、八重山に右親指で浮上のサインを出し、そのまま一気に水面に駆け上っていった。

 きらきらと光る水面に近付くにつれ、影絵のように黒くなってゆく二人の姿を目で追っているうちに、千鳥はふと水の外の世界がとても懐かしいもののように感じ始めた。
 (…きれい)(…きれいな空気)(空気)(息、したいな)
 その時、「第二波」が奔流のように千鳥の身体を襲った。千鳥は、突然ぶり返してきた苦しさに驚きながらも、肺の空気を全部吐き出しそうになる衝動と戦った。
 (まっ、まだまだっ。ここで負けたら女じゃ…)
 口元までせり上がってくる空気を、頬を膨らまして押しとどめる。
 (ないっ)
 そして、肺の中へと無理やり戻し入れる。それでも、堪えきれずにごぼっと少し息を吐いてしまった。鳩尾がびくびくと震え始めている。
 (んんっ。何とか…セーフ)
 武緒なら、早苗を無事にプール横の仮設救護所まで連れて行ってくれるだろう。千鳥は、答案の応用問題の大きな余白に向き直ると、水中シャーペンを強く握りなおした。

 4分の壁が近付くにつれて、そろそろ限界に達する子が多くなっていった。
 「がぼがぼがぼ」
 「がぼがぼ、ごぼっ、うっ」
 生徒たちが吐いた泡の柱が、うっすらと日光を反射しながら林立する。そして、泡が弾けるようにして肺の空気を吐き尽くすと、バックルを引きちぎるように外して次々と水面を目指して上っていく。運悪く八重山に捕まりそうになる子もいたが、その腕を懸命にふり解いて避け、今までのところ全員無事に自力で脱出できていた。―もっとも、それでは棄権扱いになってしまうのは仕方ないところだったが。
 右前の少し離れたところに、蓮がいる。前後左右の席の子があらかた棄権してしまっているので、その様子をよく見ることができた。あらかた埋まった答案用紙を前に置き、指先をきれいに揃えた両掌で口元を押さえている。胸と両肩が、咳が止まらない時のように、ゆっくりと上下していた。
 蓮が解答を止めたのに気付いた八重山が、一掻きですっと近寄ってくる。そして、両手で今のところ全ての生徒に拒否されているあのサインを作った。
 (…)
 口に手をあてがったまま、蓮は暫くぼんやりと八重山の手振りを見つめている。そして、両手を唇から離すと胸の前できれいに揃え、ぼこぼこと大きな気泡を吐いた。

          

 「お」「ね」「あ」「い」「い」「あ」「んんっ」
 形の良い唇を大振りに動かす。息がもう残っていなかったのだろう、最後の「ます」が少し不明瞭だったが、千鳥は蓮の水中発声をはっきりと聞き分けることができた。
 ―お願い、します。
 (ええっ)
 千鳥は焦った。―蓮、早まっちゃだめ。だが、八重山はもうレギュレーターを外しかけている。蓮の席は遠く、ここから泳いでいったらとても間に合いそうにない。
 蓮は、八重山に肩を掴まれるままになっている。そして、まるでその時の前のように、眼を閉じて下顎をわずかに上に傾けた。息をこらえているせいかもしれないが、頬がほんのりと桜色に上気して見えた。
 (だめっ)
 だがその時、蓮の肢体からすっと力が抜けた。
 やや前のめりの姿勢のまま、柳の枝のようにふわりと八重山の体に凭れかかる。ロングヘアーが水に靡き、さらさらと舞った。
 (…蓮)
 蓮の身体は、八重山が腕で支えてもぴくりとも動かない。表情は、流れる髪のせいでよく分からなかったが、蓮はまるで眠るようにして失神していた。
 (…)
 八重山は、蓮のウェストを締めているベルトを外すと、水を飲まないように蓮の口を掌で塞いだ。そして、首筋から反対側の脇下に腕を回し、背後から抱きかかえるようにして、水底をゆっくりと蹴る。―蓮は、この試験の最初の終了者となった。
  
 八重山と蓮が浮上していく間にも、その脇を新たな棄権組が懸命に泳ぎ上っていく。そして、まだ会場に残っているのが、いつの間にか自分を含めて数人だけになっていることに千鳥は気付いた。