「七月十八日付

相変わらず御元気に御暮らしのことと存じます。さて小生に於きましては益々元気と云いたい所ですが、実のところこの一両日は或ることでいささか懸念と自責心に苛まれて居りました。元来自分は随分楽天的な性質だと思つていたのですが、昨夜は夜半に目が冴えてしまいそのまままんじりとも出来ず、夜が白けて従兵が朝飯に呼びに来るまで旧い教科書や父上の書かれた運動生理学の本などを眺めていたと云えば、我が混乱の度合が分かつて頂けるのではないかと思つて居ります。
 ―昨日、小生は入室療養中の患者(クランケ)を、或る苛烈な軍務に就かしめるために退室(エント)扱に致しました。無論作戦統率上の要請あつての事ですが、職掌上は飽くまで否と云うことも出来たことを考えれば小生の責任は重大と云わざるを得ません。「有難う御座います」と、水無月青葉と云う、僅か一週間前に想像も出来ぬような切所を抜けてきた其の少女は微笑(わら)いました。小生は、ナニ礼を云われる筋合いのあるものかと概ね仏頂面をして居りましたが、嗚呼、徒に不機嫌を内攻させて居るこの自分に引き比べ、患者(クランケ)の筈の彼女は何と明朗で強い意志力を持つているのでしよう。―「学生、患者(クランケ)に過度に感情移入するんぢやない」と、指導医(オーベン)たる或る老練な軍医官が小生に云つたことが有ります。しかし、あの戦列艦の息詰まるように狭い処置室で、切断(アンプタ)された腕や脚やらが辺りにごろ\/している中、手術着を真つ赤にさせ乍ら淡々と手術刀(メス)を握つていた其のヴエテラン医官のように―或るいは、金の飾緒を吊つたあの先任参謀が、図上演習で冷然として隷下の部隊を捨て駒にするように―軍医将校の任にある小生は、もつと冷徹な心を以つて眼前の事象に臨むべきなのでしようか?いいや、否と小生は答えます。どうか、どうか柔弱とお嗤い下さるな。患者(クランケ)の体の循環器系に血潮が流れて居るように、医者の形而上の心臓(ヘルツ)にも、矢張温かい血が流れて居る筈なのですから。小生は、退室許可書に判を捺した者の責務として、此の美しき少女の任務―詳細は一寸ここに書くことは出来ませんが、自身が「託されて居る」と形容した、彼女にとつてのその事が成るまで、出来るだけの方策を尽くしてその行為を援け、見守ることにしたので有ります。
 作業は〇七三〇(マルナナサンマル)に始まりました。海は快く凪いでいて、青緑色の海面が遠く白雲と島の深緑を映し込んで居ります。此処は水深の割りには水は澄んでいるようで、識別浮標(ブイ)から下の海底へと向かつて伸びる長い(ロープ)も、舷越しに覗き込んだ限りでは可成りの深みまで白つぽく透けて見えて居りました。
 浮標(ブイ)を挟むようにして位置した二隻の内火艇には、復た濃紺の水泳着姿になつた水無月少尉の他に、副長、工作科と運用科の下士官兵が六、七名、それに小生と看護兵曹が先ず同乗致しました。(フネ)の舷側では非番の兵たちが大勢見物して居て、艇指揮(チャージ)の若い士官候補生などは上がつて仕舞い随分緊張した面持ちをして居ります。そして例の参謀殿は、途中で余程関心が強まつたのでしようか、周りが諫めるのも聞かずに到頭我々の艇に乗り込んで来ました。「しつかりやり給えよ」などと云うのですが下士官兵たちは自然此れを黙殺し、少尉のために天幕で日陰を作つて遣つたりして居ます。中には、今般の潜水作業に進んで志願してきた者も居ます―娑婆では外海で銛打ち漁をして居たという、主砲分隊の屈強な一等水兵です。一時は停滞して居た筈の引揚作業は、水無月少尉という新たな核を得たことで、弾むが如く進捗するように見えました。
 少尉は、艇尾座に座つて腰に錘と曳索をしつかりと巻くと、愈々潜水の準備を始めました。其の曳索の端を、海底の砂の中に沈んで居る目標物に結索するのが今回の作業の主眼なのです。百合の花弁の如き唇が大きく開かれ、横隔膜と呼気筋の運動によつて作り出された真空は、上気道より取り込んだ吸気を以つて彼女の胸郭をどん\/膨らませて往きます。更に両の肋骨(リッベ)が外方に拡がつて季肋部にうつすらと浮き出て来た頃、彼女は漸く此の膨張運動を止め、今度は極く\/ゆつくりと胸腔を満たした空気を口から吐き始めます。過換気に陥りはせぬかと終始注目して居る小生の眼前で、少女は実に嫋やかな挙動で朝の大気を呼吸し続けて居るのでした。そして、「青葉君、無理はするな」という小生の当然の注意に如何にも強く頷くと、彼女は不意に其の運動を断ち切り、背中を下にして音も無く水面へと滑り落ちて往きました。
 或る気の利いた者が、測的所から借りてきたらしい秒数計をかちりと押しました。少尉はもうずいぶん深くまで潜つていて、真下の水中で銛打ちの一水と前後し乍ら小さく見えていましたが、その姿は段々と紺碧の海水の層に溶け込んで無くなつて仕舞います。後は、我々は船上で固唾を飲みながら秒針がコチ\/進むのを聞いて居ることしか出来ません。唯、巻上機の円筒(ドラム)がゆつくりと曳索を繰り出して往くので、少尉の身体が今も深く沈降し続けているのが知れました。兵の中に、釣られて自分も息を止めていた者が居ましたが、直ぐ堪え切れなくなつたと見えて大きな吐息をつきました。
 どの位時間が経つたでしようか、巻上機は、依然カラ\/と回転し乍ら曳索を吐き続けて居ります。「…上がつてくるぞ」と誰かが声を上げるので、小生も慌てて眼下の海面を凝視しました。すると、()の銛打ちの一水が幾層もの海水を抜けて浮かんで来て、水面に頭を出すや否や鯨のように激しく水を吹きました。「少尉はどうした」と副長が訊くと、「判りません、少尉はもつと深くへ潜つて往かれました」との答えです。数名がかりで一水の大柄な体躯を船上へ引き揚げて遣つている内に、秒数計はもう人の呼吸(いき)を止めている時間としては異常な値を示し始めていました。巻上機は依然回転し続けて居ます―しかし、いつの間にか円筒(ドラム)には五〇米はあつた筈の曳索が殆ど残つて居ません。少尉は、凡そ人間を阻むような深々度で、猶も海底を目指して潜水を続けて居るのです。
 「…もういけない」と秒数計を眺めていた或る兵曹が漏らしました。さつきまで間歇的に上つて来て居た少尉の吐いた気泡ももう無くなり、僅かな細波の他は水面は本当に油を垂らしたように静謐です。参謀は内火艇の舷に両手を衝いて、魅入られたかのようにじつと足下の深淵を覗き込んでいました。此の情景に、小生は遂に堪らなくなつて立ち上がると、参謀に向かつて「作業を中止して下さい」と叫びました。でも参謀はそのまま、額に汗の玉を浮かべ乍ら微動だにしません。巻上機はとう\/全ての曳索を繰り出し終わり、水中へと伸びる鋼索はぴんと張りきつて固定しました。「中止を。作業中止です」小生と傍らに居た看護兵曹はいつの間にか巻上機の作動把手に手を掛けていました。通常ならば大変な権限違反となる処ですが、副長が直ぐ後から本当の中止命令を下して呉れたので助かりました。そして、何人も掛かつて巻上機の把手を逆に回転させます。しかし把手は硬くて中々動作せず、皆で呻吟している内に「これは人の重さぢやない」と云う者がいたので小生はハツと気付きました。透かさず把手を放り出すと、後ろの皆が呻くのも構わず屈んで舷下の海面に目を凝らします。其のままで何十秒経つたでしようか、海の下に魚影の如き白い小さな姿が現れると、次第に巨きくなつてやがて人の形を成し、手足を一杯に掻きながら段々浮上して来るのが判りました。「此方(こっち)だ」と小生が声を上げると、何名も一度に舷側に寄つて来たので艇は激しく揺れ、身体の平衡を失つた小生は不器用にも舟底に尻餅を搗いて仕舞いました。
 その直ぐ後の事は余り能く見ていません。何人もが救助のために海に飛び込み、漸く海面まで戻つて来た少尉の身体を艇に引つ張り上げて来ました。Asphyxiaのために顔と頸部は桜色に鬱血し、美貌は海水と洟水とに濡れてくしや\/になつて居りましたが、其の若鮎の如き健康な肉体は長き無呼吸(アプネア)状況にも能く堪えて、復た力強く呼吸筋を動作させ始めて居りました。胸腔の上を幾度か押圧して水を吐かせて遣ると、少尉は幾分楽になつた風に見えます。唇が、未だ途切れがちな言葉を形成します―「アタカ、サン、ワ、タ、シ」そして小生は、深海の低温のせいでひどく冷たい其の肩を抱え乍ら、「終わつた、ウン、やつと終わつたんだ」と、まるで阿呆のように、同じ台詞を繰り返し繰り返し口に出して居りました。

            

 さつき、巡検前までと思つて上甲板を一廻りして来ました。後檣を抜けてくる夜風が肌に心地よく、機関の振動が遠雷の如く足元に響いて来るのも非道く快く又頼もし気な感じです。後甲板の魚雷発射管の横の急造の架台の上に、其れは幅広の分厚いバンドでしつかりと固縛されて居ます。水無月少尉らの凄烈たる努力により海中より引揚げられるに至つた其れは、己の内に持ちたる性能、またこれまで己のために支払われた犠牲など知らぬ顔で、四角い外板を月明りに鈍く光らせて居ります。
 そして更に其の向こうの舷下では、墨汁を流したような海面が、時折白い波頭を見せながらぐん\/艦尾へと流れ去つていきます。艦は今、二十五ノツトの快速で北へ北へと航走して居ます―其うです、死地に赴く定めだつた我々は、思い掛けずに皆の恋焦がれる故国へと、北方に流れる暖海流の如く今この刹那にも還りつつ有るのです…」