「…馬鹿な」
 年齢は24、5だろうか。日焼けした顔にまだ少年の面影を残している軍医長は、甲板に立ったままやや怒気を含んだ声で言い放った。
 「傷病人を海に入れて引揚作業(サルベージ)をやらせるなんて、そんな法がありますか」
 白い軍装に飾緒を垂らした先任参謀の方は、本来軍医長の所轄物であるはずの丸い診察用椅子に腰掛けたまま、上目づかいに片手で見事な口髭を弄っている。
 昨日今日あたりでようやく体力が戻ってきたのを感じている青葉は、狭い寝台の上で、上体だけ起こしてこの両者のやりとりを眺めていた。安宅慎一という名前の、学卒後間もないというその軍医中尉は、気が昂ぶった時の癖なのか右のこめかみをしきりに拳で押さえている。純白の第二種軍装を着たその背中には、艦内にこもる熱気のせいで薄く汗が滲んでいた。
 いい人なんだ、と青葉は改めて思った。しかし、その後ろ姿にいつの間にか別の残影を重ねている自分に気がつくと、青葉はあわてて心中の印象(イメージ)を打ち消した。
 「…何日になる」
 「は」
 「作業を始めて、何日になるかな」
 参謀は、若い安宅の昂奮などまるで無視するかのように、傍らに立つ当艦―二等巡洋艦〈ティル・ナ・ノグ〉―の副長に体を向けて訊いた。
 「丸、3日です」副長が答える。
 「…3日」参謀が反芻するようにして言う。「ゆうに一個戦隊が、この海域に釘付けになっておる訳だ」
 「…ですが」
 「もちろん、〈あれ〉の戦略的な意義からすれば、取るに足らん時間だ」参謀は、安宅の機先を制するように続ける。「だが、我々にはこのまま同じことを続ける猶予がないのも事実なのだよ」
 「〈グウィネヴィア〉は来ないのですか」安宅が尋ねる。〈グウィネヴィア〉―青葉もその艦名は知っていた。二個の潜水分隊に水中工作艇、それに艦内には減圧室まで備えた海軍屈指の潜水工作艦だ。
 「〈グウィネヴィア〉は来ない」
 「なぜです」
 「発令があったんだ」副長が、やや堪りかねたように口を挿んだ。「近いうちに、わが駆逐隊は環礁を出撃し、南東海域に進出する」
 「…」安宅はしばらく沈黙していたが、やがて口を開くと、一語一語を選ぶようにしながら言った。「…決戦を求めに行くのですね」
 「そうだ」参謀は無造作に言った。「そこまで秘匿する意味もあるまい。恐らく、乾坤一擲の大海戦となるだろうな」 「なら、彼女たちは後送して下さい」安宅は反駁した。「榊少尉と秋水上水の耳は(フネ)の設備では無理ですが、放っておけばいずれ癒着して使い物にならなくなります。僕が海軍病院に紹介状を書きます」
 「軍医長、そこまでの処遇を受けることのできる傷病者が、今どれだけいる」参謀の表情は苦々しげだった。「南東の前線では、将兵が補給も満足な治療も受けられないまま泰然として死んでおるのだぞ」
 「しかし、それは…」
 安宅が口をつぐんでしまうと、参謀はふいに寝台の青葉の方に目を転じてきた。
 「水無月少尉」
 「はっ、はい」ぴんと姿勢を正した青葉に参謀は「楽にしたまえ」と声を掛けると、脱いだ薄手の白手袋を弄びながら言った。
 「君は、酒匂少佐が戦死した後、〈ウンディーネ〉号の指揮を執ったそうだね」
 「…はい」
 「戦闘記録は読ませて貰った。あの条件下としては、君の決断は実に的確だった」
 「…」
 「さらに特筆すべきは、そのすぐれた胆力だろうな」参謀は、青葉の白い入院着の、掻き合わせた胸元あたりに目を向けてきた。「最近の海技では、海女の稽古もするのか」
 「えっ」
 「…参謀」
 安宅がじろりと睨むと、参謀は「失敬。これは余談だ」と片手をひらひらと振って言葉を次いだ。「少尉、君も知っている通り、作業を始めてからまだあの物資に辿り着けた者はいない」
 「…」
 「深すぎるのだ」副長の表情も苦い。
 「然り」参謀は身を乗り出した。「身体強健な工作兵でさえ、音を上げて戻る途中で悶絶してしまう始末だ。だが、潜水具も無い上に、なぜ潜るのかも何を回収するのかも知らされないのでは、それも至極もっともな話だと思わないかね」
 「ですが、だからと言って…」
 「少尉」参謀は安宅を無視して続けた。「私は、わが戦隊がここを離れる前に、〈あれ〉を何としても回収したい。そして作業の成否は、わが戦隊の爾後の行動、ひいては戦局全体の帰趨すら制するやも知れん」
 「…」
 「〈あれ〉は引揚げねばならぬ。たとえ異常な手段に訴えてもだ」

 
「…」
 (息が)いつの間にか、青葉はあの薄青色の海中の、万力のごとき水圧と肌を刺すような冷たさを思い出していた。(息が)(もう)懸命に脚を掻いているのに水面は少しも近付かない。やがて肺と全身の細胞が、酸素を求めて声なき悲鳴を上げ始め―。
 青葉は、身体がかたかたと震え始めるのが分かった。あの生理的な苦痛の予感に、肢体が意志の制御を外れて慄いている。だが、震えが分からないように下腹に力を込めた声は、自分でも意外なほど明瞭で落ち着いていた。

「私に、やらせて下さい」
 「だめだ青葉君」安宅は声を荒げた。「君は療養して、内地に還るんだ。君には―君たちには、その資格がある」
 「…ごめんなさい」青葉と安宅の視線が合う。「でも、これは私が最後までやり抜かなくちゃいけないことなんです。悠良も、佳子も薫も、もし身体が私くらい癒っていたら、きっと同じことを言います」
 「…」
 「託されているんです、私たち」
 「…」
 青葉は、やや悄然として立ったままの安宅に向かって、寝台の上で身体を折ると深々と礼した。いつの間にか長く伸びた前髪が、自分の視界を遮ってさらさらと揺れる。
 「お願いします、安宅さん。私、頑張りますから」
 安宅は、また拳で前頭を押さえるしぐさをしていたが、やがて止むを得ないという様子で溜めていた息を吐いた。参謀は、我が意を得たりとばかりに椅子の上で大きく頷いている。

 
海風が出てきたのだろうか。午後の医務室の熱気はいつの間にか和らぎ、青葉はつんと鼻を衝く消毒用オキシフルの匂いの中に、確かに新鮮な潮の香りを嗅いだ。