「お手紙、書かれていたんですね」
 医務室で受診の順番を待っていた佳子は、安宅の机の上の診療簿(カルテ)の束の上に無造作に置かれた書きかけの便箋用紙に目を留めた。
 「…ああ」
 聴診器を耳に、血圧計の腕帯(カフ)を悠良の上腕に巻くのに余念が無かった安宅は、振り向かないままに生返事をする。上121、下72、すこぶる問題はないが―。
 「文中に、何箇所か水無月少尉の名前があります…」 
 同じく順番待ちをしていた薫の言葉に、安宅は「あっ」とようやく我に返ったような声を出し、慌てて顔を上げると拡げた片手を脇の便箋の上に覆うように置いた。
 「こ、これは」聴診器を外して、まるで悪戯を見咎められたように耳たぶを赤くする。もはや、軍医としての威厳など見る影もない。
 「…軍医長は、大変筆まめな方なんですよ」しばらくしてさすがに見兼ねたらしく、消毒の準備をしていた看護兵曹が安宅を擁護するような口調で言った。「ええ、自分たちなども、ただ慰問品を受け取るだけでなく故郷に手紙を出せとよく軍医長に勧められております」
 「あ、ああ」と安宅。
 「兵曹は、手紙は書かないの?」佳子が落ち着いた口調で訊く。
 「はっ」思いがけず質問が自分にも及んできたので、今度は看護兵曹が年不相応な含羞んだ笑いを見せた。「自分も、そりゃたまには書きます。実際うちには六つになる坊主もいるもので」
 「…そうなんだ」
 「おっ、書いてある」悠良までもが、身を乗り出して机上の手紙を覗き込んだ。 
 「なんだ、本当にやたら青葉の登場回数が多いみたいだな」笑いながら、一番後ろにいた青葉を振り返る。「いいのか?青葉」
 「いいよ」青葉は答えた。そして胸奥で一種の高揚感がするのを快く感じながら言った。「別に。うん、安宅さんなら」
 「えっ。青葉、お前…」
 「ええ軍医長は、そりゃあ大変な文章家です」ふいに看護兵が口を挟んできたので、悠良の言葉の大半は遮られてしまった。「自分は漢字は不得手なのですが、少尉のことも、きっと凄く奇麗な語で記されている筈です―えっとその、美しい戦乙女、とか」
 「何だ、看護兵まで俺の手紙読んでるのか」
 もう首筋まで赤くした安宅の周りで、どっと愉しげな笑い声が起こる。
 気のせいだろうか、通気孔から流れてくる風は故国に近付くにつれより冷たく爽やかに感じられる。笑い声を載せたままの〈ティル・ナ・ノグ〉は、瑠璃色の波濤を艦首(バウ)で力強く左右に分けながら、一路北を目指して航走し続けていた。