翌日午後のことである。
新任騎士選別者の居室に出頭を命じられたカミューは、扉を閉めるなり迎えた陰険な含み笑いを睨み付けた。
「おーお、怒った顔も美人だぜ」
途端に投げられる軽口にも、だがカミューはその場を動かない。選別者ヴィトーはにやりと首を傾げ、丁寧に礼を取った。
「どうした? そこまでお迎えに上がろうか? 突っ立ってないで来い、カミュー」
「ヴィトー様……」
張り詰めた全身から漸く力を抜いてカミューは言う。
「何故、計ったようにわたしを呼びつけるのです」
「何故って、そりゃあおまえ」
彼は大仰に溜め息をついて肩を竦める。
「事後の色気を堪能するために決まってるだろうが」
「……………………」
未だ立ち尽くしたままのカミューを舐めるように鑑賞した上で、ヴィトーは椅子を蹴って歩み寄ると、高貴な貴婦人にするように手を差し伸べる。
「意地を張ってないで、座れ。でないと強引にエスコートするぞ?」
カミューはそこでポツリと呟いた。
「…………座るのもつらいのですが」
束の間呆気に取られたように瞬いたヴィトーは大笑いした。
「なるほど。それならベッドに横になるか? おれは大歓迎だが」
「……慎んで辞退させていただきます」
ヴィトーはカミューに分からぬように密かに舌打ちした。
やはり昨夜はやり過ぎたかもしれない。カミューは明らかに警戒を強めている。軽く戯言を交わしながら、これまでのように打ち解けるが故の隙が見えないのだ。
「……まあ、いい。どうだった、23日ぶりの夜は? 前よりも進歩したか?」
カミューは僅かに躊躇したが、殆ど消え入る声で答えた。
「痛みは半減したけれど、数が倍増したところで五分五分、あるいは後退といったところでしょうか……」
「ほーう」
どうやら友人思いの少年の気遣いは確かに二人の役に立ったようである───否、立ち過ぎたというべきか。
カミューに与える苦痛を恐れて禁欲に入ったマイクロトフ。一番の懸念を克服した感激に我を忘れるあたり、やはり突撃猪の名に相応しい振る舞いである。期待を裏切らない行動に、震える肩が止まらないヴィトーであった。
「まあ、……勘弁してやれ。ずっと堪えていた反動だろう、そのうちに加減を弁えるようになるだろうさ」
「その前に死なないよう、祈ってください」
終に堪え切れず、ヴィトーは声を上げて笑った。
端麗にして沈着なる若き騎士。
誰にも典雅な笑みを与えるカミューだけれど、こんな不貞腐れたような表情を見せる相手は限られているに違いない。己がその相手に選ばれているという事実は、彼を得ることが出来なかった無念に勝るのだ。
朗らかなヴィトーの様子を暫し困惑しながら見詰めていたカミューは、張り詰めた警戒を完全に解いた。目の前の男が数少ない『味方』と呼べる存在であることを確かめられたのだ。
「ひとつお聞きしたいのですが……ヴィトー様はわたしたちの関係をヴィンスに洩らされましたか?」
「何でおれが?」
「いえ、……その……」
あのヴィンスのありがたい心遣い──カミューには今ひとつそうとも言い切れなかった──であるが、突然彼がそれを為した理由が分からないままなのだ。満ち足りた夜を送った後、朝の鍛錬、そしてつとめと忙しいマイクロトフは非常に切り出し難い告白を後回しにしているのだから。
彼がすんなり事情を打ち明けられない心情は十分に察せられるヴィトーだ。すでに事情を熟知しているヴィンスが一見してぐったりしているカミューをどう思ったか───は後で感想を聞いてみることにして、逆に問い返す。
「ヴィンスの奴に何か言われたのか?」
「い、いえ……そういう訳では……」
相変わらず言葉を選びかねているのを見ていると、何故か切ない庇護欲が沸いて出る。この感情こそ、己の恋心の最たる敵だったのだとヴィトーは思う。
「悪い奴じゃないと思うぞ。あれで結構友人思いだし、頭の回転も速いし……おまえの同僚になる男だぜ?」
「同僚……? そうなのですか……」
そのまま暫く思案した上で、カミューは吹っ切れたように首を振った。
「思い悩んでいても先には進めませんね。この際、本人に聞いてみることにします」
───おっと、これは気の毒に。
この美貌に間近に寄られて詰問責めに遭うヴィンスを思い、ヴィトーは内心苦笑した。
だがまあ、これも運命だろう。
いずれ騎士団の宝となるであろう稀有な人物の傍近く在るものとして、乗り越えねばならない試練というものだ。
「午前の会議で正式な配置が決定したぞ。おまえは赤騎士団・第一部隊所属。これで目出度く同僚だな、カミュー」
はっと顔を上げたカミューはすぐに小首を傾げた。
新任騎士の配属は第五部隊以下というのがおよそ慣例となっており、各騎士団における精鋭が居並ぶ第一部隊を許される騎士など聞いたことがなかったからである。
「……ついでに教えてやる。あの猪は青騎士団・第三部隊に決まった。内示を受けた第三隊長殿が何やら泣き笑っておられたな」
状況が過ぎったのか、カミューは小さく吹き出して、それから感慨深く呟いた。
「やはり……所属は分かれてしまったのですね……」
「当然だ。我が赤騎士団に猪はいらんといっただろうが。奴は将来、青騎士団の台風の目になることだろうぜ」
カミューは思い直したふうに頷いて、満足げに微笑んだ。
「所属が分かたれてしまう前に想いを交わすことが出来たこと、ヴィトー様の助力があってこそだと感謝しています」
「おまえはいつだって口ばっかりだからなあ……」
彼はカミューの顎をすくい上げ、琥珀の瞳を見下ろした。
「どうせ、身をもって感謝を示そうなんて殊勝な心根は持ち合わせていないんだろうが」
不意の接近に瞬いたカミューだが、動じることなく言い放つ。
「……今ひとつ素直に感謝を示すには難しいものがありますから」
昨夜の顛末。
マイクロトフと仲違いし、ヴィトーと関係することを匂わせた上で部屋を飛び出す。想う相手が他者を求めるという衝撃を十分にマイクロトフに味合わせる。
当然、マイクロトフは後を追ってくる。勢いのまま、たとえ相手が上官であろうと、力づくでもカミューを取り戻しに飛び込んでくるに違いない。
無事奪回を果たした後には、彼は自らの過ちを認めて、如何なる苦難も共に乗り越えようと思いを改める───めでたし、めでたし。
それが二人の描いた脚本だったのだ。
ところが、途中でカミューの予想しなかったアドリブが混入した。
「ヴィトー様は自室にて待機、という予定だったではありませんか。何故、訪ねていらしたんです」
「そりゃあおまえ……あんまり遅いから心配して迎えに行ってやったんだろうが。『仲違い』の段階でおまえがマイクロトフを叩きのめすか、あるいは事に雪崩れ込む可能性もあったし」
「……詭弁に聞こえます」
彼はやや厳しい目でヴィトーを睨む。
「あれほど手酷くマイクロトフを殴る必要はなかったのではありませんか? 馬に蹴られたような痣になっていました」
「……だが、コトには支障なかったわけか。ちっ、化け物だぜ」
カミューは愛の行為の最中、時折──体位を大きく変えるたびごとに──腹を擦りながら顔をしかめていた恋人を思い出して頬を染めた。
「奴には前に一発借りがあったからな……それに、面白くもない芝居の片棒を担いでやるんだ、そのくらいの返礼は許容してもらわねばな」
「……たいそう面白がっておられた気がしますが」
憮然と返して、最後にカミューは指先で唇を押さえながら口篭もった。
「それに、……何もあそこまでしなくとも…………」
マイクロトフが飛び込む直前に展開されていた行為。
寝台に押し倒され、半ば衣服を毟り取られて抱き竦められた。過剰演技ではないかと訴えたが、ヴィトーは構わず、もがくカミューから密やかなくちづけを奪ったのだ。
マイクロトフとはまるで異なる技巧、けれど絶え入るような熱のこもったくちづけは、ヴィトーが力を駆使した最初の接触だった。
揶揄ばかり口にして、気づけばカミューの中で良き相談相手の立場を確立していた男。息を弾ませながら見上げた瞳に映った先任騎士は、初めて見る本気の色に支配されていた。
再び僅かに身体を硬くしているカミューに、ヴィトーは薄い笑みを浮かべる。
カミューは知らない。彼が小さな賭けをしていたことを。
あのとき、マイクロトフを一撃で沈めた。事に至る前に、気迫で立ち上がって追い掛けて来たら自分の負け、間に合わなければ力づくでもカミューを得る───と。
腹を抱えて飛び込んできた少年に、がっくりきたのと苦笑が込み上げたのが半々。更に素っ頓狂な逆襲に遭っては、もはや諸手を上げて降参する他なかった。
「……まあ、負けは負けだ」
「は?」
だが、これも二人は知るまい。
赤騎士ヴィトーは根っからの楽天家であり、博打好きなのである。
所属が分かれ、共に過ごす時間が激減し、万一にも二人の間に隔たりが生じるときがきたら。
───そのときには今度こそ、遠慮なく口説きの猛攻を開始させてもらうことにしよう。
「鈍い猪には、あれくらいで丁度良いのさ。何なら、今からでも最後までしてやろうか?」
「……………………」
束の間睨みつけていた瞳が、やがて解けて親愛めいたものを漂わせるに至って、ヴィトーは机に歩み寄って引き出しを開けた。
「生憎先んじられたが……おれからの手向けだ。受け取れ、カミュー」
そうして振り向きざまに投げられた品を受け止めたカミューは、即座に全身で不快を叫ぶ。
「ヴィトー様!!」
「何事も訓練第一、それが騎士のつとめってヤツさ」
若き騎士の手に握られたもの、それは昨夜ヴィンスから贈られた品と寸分違わぬ品であった。唯一、大瓶であることが先任騎士らしい豪胆───と言えるのか、否か。
珍しくもうろたえる若者の反応を楽しみながら、新任騎士選別者の午後は暮れていった。