カミューの手を引いて雄々しくヴィトーの部屋から出たマイクロトフだったが、数歩進んだところでぐらぐらと壁にもたれかかった。腹部を押さえてうめいている彼にカミューが不安そうに寄り添う。
「ど、どうしたんだい?」
「さっきヴィトー様の鉄槌を食らった……」
「何だって?」
束の間顔をしかめたものの、支えようとするカミューを見詰めて何とか微笑む。
「前に殴ってしまった借りがあったしな。これでおまえを取り返せるなら安いものだ」
「マイクロトフ……」
俯いたカミューは苦しげに眉を寄せる。
「……怒らないのか?」
「何をだ?」
「───馬鹿な真似をした、と」
珍しく立場が逆転したかのようだ。叱られた子供のように項垂れるカミューの髪をくしゃりと乱し、マイクロトフはにっこりした。
「最初に馬鹿をやったのはおれだ。これで相子だろう?」
でも、と今度は真剣な表情で続ける。
「自分を傷つけるようなことはしないでくれ、……もう二度と」
カミューは乱れた髪の中から心細げな琥珀を瞬かせた。
「おれももう、決して愚かな過ちは犯さない。剣に懸けて誓う。だから、カミュー……」
───やり直してくれないか。
先ほどまでの勢いは何処へやら、蚊の鳴くような声で紡がれた言葉にカミューは薄く微笑んだ。
「……凄かったな、あのヴィトー様を迫力で負かすとは」
「あ、ああ……そうか?」
「でも……、少しばかり途方に暮れそうだったよ」
くすくすと笑う美貌にはこれまで通りの親愛が溢れている。マイクロトフはほっとしながら腹を擦った。
「ヴィトー様が承諾したら、と?」
いや、とカミューは首を振った。
「……三人で楽しもうということになったらどうしよう、とね」
そこでマイクロトフは青ざめる。言われてみれば、その可能性は十分にあったのだ。
あのとき、どうやってカミューを救い出そうか悩みはした。が、結局解決策が見出せぬまま衝撃的な場面を目撃してしまったのだ。
同じ男として、欲望の成り立ちは痛いほど分かる。諦めてもらうには誠意をもって身代わりに殉ずるしかあるまい、そう思った───もっとも、すでに彼がカミューに鞍替えしているという情報が、無意識にではあるが、かなりマイクロトフを励ましていたのだが。
「流石にヴィトー様もおまえの反応は予測外だったようだ。勢いというのも捨てたものじゃないな」
「…………それは褒めているのか……?」
「勿論さ。わたしも見習ってみるよ。すまなかった……やり直そう、マイクロトフ」
艶やかに笑みながら照れたように言うカミューを、ここが廊下のど真ん中であることも忘れて抱き締めようとするマイクロトフだ。慌てて周囲を窺いながら距離を取り、カミューは小声で囁いた。
「───それは部屋に戻ってから」
途端にキリキリと痛む腹も忘れてしまえるのだから、やはり恋とは偉大なものだった。
寄り添うように部屋に戻った二人は、さて改めて、と互いを見詰め合ってから久々の抱擁をかわした。
こんなにも愛しい人を、よくも長いこと抱き締めずにいられたものだと妙なところで自分に感心してから、マイクロトフはカミューの繊細な顎を指で上向ける。
「い、いいんだな? 止まらないぞ?」
「……そういうことを逐一確認しないでくれ」
恥ずかしいじゃないかと小さく洩らす姿に感動を煽られて一気に体温が上昇した。もはやあれこれ悩む必要はないのだ、共に頑張れば解決なのだと思いつつ、密かに脳裏にて手順を展開してしまうマイクロトフだ。
───成ろうことなら痛みよりも快楽を。
幾ら許容されたとは言え、やはり思わずにはいられないのである。
「……待ってくれ」
不意にカミューが腕から零れ出た。やや出鼻を挫かれた感のマイクロトフが見守る中、彼は足早にベッドへと向かう。そんなに急かなくとも、とマイクロトフは頬を染めたが、身を屈めたカミューが取り上げた包みに小首を傾げた。
「何だ?」
「おまえのものではないのかい?」
マイクロトフは自分の寝床に投げ出されていた品にまったく覚えがないことに、そしてカミューは開けた包みから飛び出した品に、それぞれ眉を寄せたのだ。
包みからカミューの掌に移った小さな瓶、傾けると何やらトロリと粘着質な液体がガラスを伝う。
「何だ、それは……?」
マイクロトフは正直に疑問を述べて歩み寄ったが、カミューは白い頬を紅潮させて呆然としていた。
「カミュー?」
「あ、いや……あの」
珍しくも口篭もり、それからカミューはやや上目遣いでマイクロトフを見詰めた。
「おまえが用意した……のではないのか」
「用意? ……というより、それは何なのだ?」
「………………じゃあ、いったい誰が……」
問い掛けには答えぬまま、カミューは真剣に考え込んでいる。己の疑問は取り敢えず置いておくことにして、マイクロトフはポンと手を打った。
「ああ……、おそらくヴィンスだ」
「ヴィンス?」
「おまえもすれ違っていないか? さっき廊下に居たんだが……おれと別れた後、ここへ来たのに違いない」
「ヴィンスが……これを……?」
カミューは小瓶を握り締めて微かに震えた。が、やがて低く呟く。
「そう……そうか、そういえば彼は中途半端に事情を知っているし、こういう冗談をはたらく可能性もある訳だな……」
今度はマイクロトフがぎくりとする。
切羽詰った状況下にあったが故とは言え、第三者に二人の関係を洗いざらい告白してしまった事実を思い出したのだ。
二度と秘密は持つまい───とは誓ったものの、今現在のカミューの表情や何とも陰鬱な声音から、即座に打ち明けることを躊躇ってしまったのは自己防衛本能の為せるわざとも言えよう。一応、詳しく現状を把握するために切り出してみた。
「カミュー……それは何だ? あいつは何を持ってきたんだ?」
ランプの油か、それとも乾燥肌用の塗り薬か。
マイクロトフの想像ではそのあたりが限界だった。だからこそ、もたらされた回答に一瞬反応も出来なかった。
「これは香油……、だから……その、愛の行為に使う潤滑剤だよ」
言いながらカミューはマイクロトフの目前に瓶を突きつける。小さな瓶に貼られた紙片に記された豆粒のような文字、その効用を目で追ううちに脳天まで熱くなるマイクロトフだ。
「つっ、つまり……この品を使用すれば無理なく行為が進められると……?!」
「未だに芝居が続いていると思っているんだろうね。どうせなら本当にしてしまえ、というヴィンスらしい冗談さ。まったく……」
やれやれといった調子で嘆息しているカミューだが、片やマイクロトフはなおも丹念に香油の使用法を熟読していた。
ヴィンスに二人の関係が露見してしまった──否、正確には白状してしまった──ことは後でカミューに詫びることにして、まずは友人のありがたき好意を精一杯に活かす方が先決である。
「カミュー! こ、これは本当に効き目があるのだろうか?」
「さあ……良く分からないけれど、少なくとも多少はあるんじゃないかな。そういう品なのだし……」
「ならば!!!」
マイクロトフは鼻息も荒く、しなやかな手から瓶をもぎ取った。
「つ……使ってもいいか、カミュー?! その……不正には該当しないだろうかっ?!」
カミューは束の間呆けたようにマイクロトフを凝視していたが、そのうちに肩が震え出し、それはやがて愛情を込めた微笑みへと変じた。
「……カミュー?」
「マイクロトフ……本当に、おまえという男は……」
くすくすと笑いながら、彼はしっかりとマイクロトフの背に腕を回した。不意に訪れた密着にうろたえた生真面目な少年は、甘く切なげな吐息を耳朶に受けて息を止める。
「いいよ、おまえの好きにして構わない。不正にも当たらないさ───」
たちまち火照った体躯がゆっくりとカミューをベッドに崩した。
その後、勢い余って瓶の中身を大量に敷布に零すという失態を演じたものの、マイクロトフは実に23日ぶりの歓喜溢れる素晴らしき夜を過ごしたのであった。
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