薄暗い廊下に二人の少年は取り残された。
転がった友を見捨てるに躊躇い、膝を折ったまま見守っているヴィンスが小声で切り出す。
「……大丈夫か?」
「……大……丈夫……じゃな……、……」
「加減なさったと仰ってたが、流石に正騎士だな。おまえを一撃でのせるなんて……やはりただ変わった方ではない」
妙な感心をしてから、彼はマイクロトフに手を貸した。半身を壁に凭せ掛け、息が整うのを待つ。
「……ま、これくらいで済んで良かったんじゃないか? 恋の恨みは怖いからな、可愛さ余って憎さ何とかって言葉もあるくらいだし」
「……………………」
「でな、……こんなときに実に言い難いんだが……今度はカミューが危ない」
分かっている、とマイクロトフは心で同意した。何とか立ち上がろうとしているのだが、未だ身体は思うようにならない。
「あのな……どうやらヴィトー様、宗旨変えをなさったようなんだ」
「……?」
脂汗の滲む額の下で見詰める黒い瞳いっぱいに疑問が浮かぶ。
「………………今日からカミューに乗り換える、とさ」
「!!!!!!!」
マイクロトフはぎょっとして勢いで跳ね起きようとし、そのまま崩れてヴィンスに縋った。
「な、んで……ヴィトー様は……おれのような男が好み、……だったんじゃ……」
「……何でもいいみたいでおられるな、その時々で」
身も蓋もない分析を口にし、ヴィンスは眉を寄せた。
「だが、カミューが危ないのは事実だ。おまえが無理なら、おれが救出に向かうが……どうする?」
マイクロトフは支える友人を見上げた。
面白がりで興味本意な友。けれど、こうしてマイクロトフの意志を尊重してくれる誠実も併せ持つヴィンス。
彼は一度だけ首を振り、深い呼吸を繰り返し始めた。一刻も早く身体の自由を取り戻そうと務めているのに気付いた友が、何故か肩を揉んで激励してくれる。
「いいか、相手は先任騎士だからな。そいつを忘れるなよ」
「……ああ」
「間違っても手を出すなよ、殴られてもひたすら耐えろ」
「わかっている」
「言質を取られるようなことは言うな、とにかく頭を下げてカミューを返してもらえ」
「カミュー……」
不思議なことに、愛しいものの名を口にした途端、力が蘇るような気がした。マイクロトフは壁に縋りながらではあるが、ようやく立ち上がり、息をついた。
「いつもすまない、ヴィンス……だが、大丈夫だ……必ずカミューを……」
───取り戻す。
決意を喉に飲み込んだままマイクロトフはよろめきながら廊下を進み出した。手を貸したいのにそう出来ない、見送るヴィンスはすでに親の気持ちである。
「いつもすまない、……か。自覚があるとは思わなかったな」
苦笑混じりにぼやくが、悪い気はしなかった。
不器用で鈍感ではあるが、意志の強さでは他者の追従を許さないマイクロトフ。そして、聡明で思慮深いけれど本当は傷つき易い透明なカミュー。
同期の中でも抜きん出た存在感を持つ二人と、こんなふうに関われる自分を喜ばしく思う。
ヴィンスは二人が自室に戻ったときに備えて歩き出した。もともとは自分に振り当てられた部屋である。勝手に入室しても非にはならないだろうと考えてノブを回した。
ほんの一瞬前まで心から友人を思う真剣さに満ちていた少年は、そこでにやりと含み笑う。
常に複雑に振れている心の天秤。現在、己の欲望と友情のどちらに傾いているのか。
───それは彼自身にも分からなかった。
不意を突かれたとは言え、恐ろしい一撃だった。
十分に重さのある拳は今もなおマイクロトフの四肢から力を奪い続けたままだ。多少マシにはなったものの、壁の助けを借りねば足を進めることも出来ない。
以前、よりによって先任者であるヴィトーを殴ってしまったことがある。これで帳尻が合うなら苦痛にも甘んじよう。
けれど、果たしてすんなりとカミューを返してもらえるだろうか。ヴィンスの言うように、これが『可愛さ余って……云々』という格言なのかとも思うマイクロトフである。
ヴィトーがカミューに好き心を持ち、その上カミューがマイクロトフとの関係を終わらせてもいいと吐露したならば、昨夜のように諭して終了とはいかないだろう。これぞ、渡りに船といった絶妙の機会となってしまうではないか。
常日頃から悩むことには苦手なマイクロトフだったが、今度という今度はつくづく懲りた。だいたい、恋愛沙汰に頭を使うような性分ではないのだ。
カミューが好きだから抱き締める、それ以上に何の理由がいるだろう。自分の手に余ることなら、最初からカミューに分かち持ってもらえばよかったのだ。
それなのに無駄に虚勢を張り、彼に負担を掛けぬためと自らに思い込ませながら勝手に暴走して。結果、カミューを悲しませているのだから救いようのない大馬鹿である。
マイクロトフは一歩ごとに鈍く痛む腹が罪の証であるような気がした。その痛みこそが己がカミューに与えてしまった痛みであると唇を噛む。
傷を癒すためには何としても無事に彼を取り戻さねばならない。体技も経験も勝る相手に何が出来るか分からずとも、とにかく誠意を尽くすしかないのだ。
昨夜も訪ねた選別者に与えられた居住区までの道程はひどく遠かった。ようやく目指す扉の前に辿り着いたときには額から流れる汗で視界が滲んでいた。
マイクロトフはそこでもう一度大きく息をつき、それから眦を決して扉を叩く。
「ヴィトー様! 失礼して宜しいでしょうかっ?」
声を張り上げるが室内からは応答がない。そこで躊躇いながらノブに手を掛ける。
「入らせていただきます、ヴィトー様!」
言いながら開いた扉の向こう、彼は凍りつく光景を目撃した。
部屋の隅に設えられた寝台の上、大柄な先任騎士が最愛のひとに圧し掛かっている。押さえ込まれたカミューは苦しげにもがいているが、到底力では敵わぬらしく、はだけられた部屋着から無残にも白い肌が覗いていた。
「カミュー!!」
切羽詰った叫びと、部屋の主が来訪者に振り返るのは同時だった。やや髪を乱したヴィトーはのんびりとカミューから身を起こし、にやりと笑う。
「連夜のご訪問、ようこそ……と言いたいところだが、今夜は邪魔だ。悪いな、また今度にしてくれ」
「…………!!」
絶句したマイクロトフだったが、ヴィトーの強靱な体躯の下で相変わらず必死に身じろいでいるカミューに励まされて足を踏み出した。
「おいおい、さっきのじゃ足りなかったか? もう二、三発ばかり見舞われたいか?」
「殴られようと蹴られようと、このままカミューを残して戻るわけにはいきません!」
「たいした覚悟じゃないか、マイクロトフ……どうだ、カミュー? こいつはこう言っているが」
完全に寝台に座り直したヴィトーは余裕顔で彼を迎える。ようやく半ば解放されたカミューが一瞬だけマイクロトフを見、そして顔を伏せた。そんな彼の肩を引き寄せながらヴィトーは笑う。
「誤解しないで貰おうか。こいつは望んでここへ来たんだ、何も手込めにしようとした訳じゃない。合意の下に……ってヤツだ。そうだろう、カミュー?」
だが、現にカミューは抗いを見せていた。そう思いながらマイクロトフが見詰めると、カミューは僅かに肩を震わせた。
「…………わたしは……」
ますます悄然と項垂れていく想い人に、マイクロトフは決然と口を開いた。
「カミューにそんな過った道を望ませてしまったのはおれです。だから……だから、責は取ります」
するとヴィトーは興味深そうに瞬いた。横目でちらりとカミューを一瞥してから揶揄混じりに言う。
「ほう……、すっかりその気になってしまったおれに対して、どう責任を取ってくれると?」
「……だから」
マイクロトフは幾度も唇を噛み、キッとヴィトーを睨み付けた。
「頼みます、どうかカミューを返してください。代わりに……」
「代わりに?」
そこで逞しき少年は高らかに吠えた。
「………………代わりに、おれを如何様にも好きになさってくださいっ!!!!」
言っていることは前夜と同じ。
だが、心細げに震えていた昨夜とは同一人物と思えぬ威風堂々とした人身御供宣言。
改めて据え膳を設えられたヴィトーも、その横で切なげに俯いていたカミューも、仁王立ちになって息を切らせているマイクロトフを呆然と見詰めるばかりだった。
「……カミューの身代わりになって、おれに好き放題させる、と……?」
「はい! もう……幾らでもお好きなように!!」
「あー……悪いが、おれはもう……」
「そう仰らず!! ……と、その前に」
言いながらマイクロトフはカミューに向けて手を差し伸べた。
「来い、カミュー」
「マイクロトフ……」
「たとえもう遅いとしても……許してもらえないとしても、おれはおまえが大切だから、おまえが自分を傷つけるのを黙って見ていることなど出来ない」
それでも躊躇うカミューの腕を掴むと、強引に寝台から引き上げようとする。そこでヴィトーの制止が入った。
「待て待て、こら」
「ヴィトー様のお相手は後程ゆっくりと致しますっ!!」
「あ……そう」
半ば迫力負けしたかたちでヴィトーは肩を竦めた。改めてちらとカミューを窺った上で、低く問う。
「……だとよ。おまえはどうしたい、カミュー?」
「わたしは……」
マイクロトフが腕を掴んだ手に力を込めると、彼は密やかに答えた。
「……申し訳ありません、ヴィトー様……」
掠れた震え声にヴィトーは苦笑した。やれやれといった調子で首を振り、カミューの背を押し出す。
「行け」
「ヴィトー様……」
「マイクロトフ、おまえもだ」
「え?」
すでにすっかり恋ゆえの崇高なる犠牲の心積もりが出来上がっていたマイクロトフは、きょとんと目を見開いた。
「ヴィトー様……?」
「一応、おれはカミューに鞍替えした身だしな。それに、そんなにふてぶてしい開き直った餌など不味そうで食えるか」
マイクロトフに支えられるように立ったカミューが口を開き掛けるのに薄く微笑み、ひらひらと手を振る。
「……いいから、行け。おれの気が変わらぬうちに」
「ヴィトー様……」
二人は顔を見合わせたが、マイクロトフが代表するように深々と頭を下げた。
「…………ありがとうございます、ヴィトー様」
そうしてカミューの肩を抱いてマイクロトフが部屋の扉を閉めた途端、ヴィトーはくつくつと笑い出した。
「……ったく、来るのが早いんだよ。畜生、計算外だ。もう少し強めに殴っておくんだったな」
彼はごろりと寝台に横たわり、なおも可笑しそうに呟いた。
「それにしても───とことん損な役回りだぜ……」
← BEFORE NEXT →