人気の失せた談話室に並んだ影が二つ。
大柄な少年の様子をちらと一瞥しながら片方が低く切り出した。
「……いい天気だな」
「そうだな」
「でも雨が降ってるぜ」
「ああ」
「今夜の飯は野営に使われる非常食らしいぜ」
「ほう」
「……悩みでもあるのか?」
「そんなことはない」
せっせと会話を振っている片割れ、マイクロトフにとって士官学校同期における悪友とも言えるヴィンスは溜め息を洩らした。
「……そういや、今日……カミューとキスした」
「───何だとっ?!」
途端に目を剥いて向き直り、襟元を掴む友にヴィンスはちっと舌打ちする。
「何だ、聞こえてるんじゃないか……」
げんなりとぼやくのをぶんぶんと揺さぶり、なおもマイクロトフは声を荒げた。
「ヴィンス! カミューに何をした? 言え!」
「何もしてない。冗談、冗談。おまえが話を聞いてないのが悪い」
大袈裟に両手を振ってみせたヴィンスに、マイクロトフの肩が落ちた。
この友人は何かと騒動に首を突っ込んでは更に状況を派手にすることで知られている。仲間思いの少年ではあるのは確かなのだろうが、自らの興味を追求する信条との比重では明らかに友情が下回るらしい困った一面も併せ持つ。
一応すまないと詫びた上で、マイクロトフは大きな溜め息をついた。
「……で? 今度は何にお悩みなんだ? この際力になるぜ、話してみろよ」
マイクロトフは長いこと躊躇した。
興味津々といった顔つきの友に、果たして相談して良いものか。思考は制止を命じている。が、追い詰められた心情は別だった。
それにヴィンスは不思議な男だ。本当に内密を望むようなことは、いちいち禁じなくとも決して他言しない。代わりに、そうでないことは四半時もしないうちに仲間うち全員に知れ渡ることとなる。そうした意味合いでは、現在マイクロトフが抱えている問題は彼の胸だけに納まるであろうと信じられたので、ぽつぽつと口を開いた。
「ヴィンス……どうしたら巧くなるだろう……」
顔いっぱいに疑問を浮かべたヴィンスは、不意に眉を寄せた。
「…………ってことは、おまえ、つまり……?」
次にはぱっと笑顔が広がる。
「何だ、おまえ……そうなのかっ? 芝居じゃなく、とうとうカミューとやっちまったのかー!!」
「こ、声が大きい!!」
慌てて口を塞ごうとするマイクロトフの手を掻い潜り、彼はうんうんと頷いた。
「そうか、そうだったのか……大人になったなー、マイクロトフ……。実際、いつかはそうなるんじゃないかと思ってたぜ。カミューはあの通りの美人だし、恋人演じてたら誰だってその気になるだろうからなあ」
「お、おれは別に……」
「照れるな、照れるな。で? 巧くいかないのか? そりゃあなあ……おまえ、不器用だしなー。最初から巧くこなそうってのに無理があるぜ、この贅沢者」
つんつんと肘で小突かれ、だがマイクロトフの顔は暗い。沈黙にただならぬものを感じたのか、ヴィンスはやや表情を引き締めた。どうやら興味よりも友情にほんの少しだけ天秤が傾いたらしい。
「……下手だとカミューに文句でも言われたのか……?」
小声で聞くと、マイクロトフは一気に顔を覆って机に伏した。
「そうであればどれほど楽か……!! ああ、おれは、おれは……おれは……っっ!!!」
ヴィンスの倍ほども大声で叫びながら彼は幾度も額を机に打ち付けた。
「おれは不甲斐ない男だ! カミューほどの素晴らしい男と肌身を重ねながら、傷つけるしか出来なかったなど……最低だっ!!!」
勢いよく吐き出された告白に、ヴィンスは状況を把握した。
芝居から始まった恋の成就。だが、恋愛──まして男同士の──にはまことに免疫も知識もなかったマイクロトフは、初めての行為でどうやらカミューを痛めつけてしまったらしい。
まあ、すんなり状況が納得出来てしまうのも困りものだが、実際に自分が男相手に行為を為した場合を想像してみれば下手に笑うことも出来ない。ヴィンスはポンとマイクロトフの肩を叩いた。
「まあ、最初は色々あるさ。それで……カミューに責められた訳じゃないんだな?」
「カミューが……カミューがそんなことを口にするものか。あいつはいつだって優しくて、笑ってばかりで……おれの仕打ちに傷ついているだろうに、逆におれを思い遣ってくれて。ああ、どうしてあんなに優しい奴なんだろう……、おれは其処までしてもらえるような男ではないのに……」
「ほー、そうかそうか」
嘆きながらも惚気を忘れない男、マイクロトフ。まったく馬鹿馬鹿しいと思いつつ、ヴィンスはなおも追求した。
「だが……毎回なのか? そりゃあカミューも大変だろうな」
「………………」
「……マイクロトフ?」
「……一度きりだ」
「………………は?」
「何度も傷つけてたまるか! おれはまだ一度しかカミューと………………っっ」
ヴィンスは呆けた。
それからおずおずと問うてみる。
「……マイクロトフ、カミューとそうなったのはいつだって?」
「23日前のことだ……」
「………………で、一度きり?」
「当たり前だろう? おれは……おれはカミューに血を……っっ、……そんなことが何度も出来ると思うかっ?」
「思うか、って言われてもなあ……」
ヴィンスは深々と悩んだ。
「……でも、やらなきゃ巧くならないんじゃないか?」
「そうは言うが、もう二度とカミューを苦しめたくはない。だ、だから……」
そこでマイクロトフの語調が著しく落ちた。
「だから……教わろうと思ったんだ……」
「……って、誰に!!」
「……………………ヴィトー様にだ」
ここに来て、ヴィンスの思考は麻痺し始めた。
選別者・赤騎士ヴィトー。
彼は少し前、周囲も憚らずに大胆にマイクロトフを口説いていた。マイクロトフは極度に彼に怯え、傍に寄ることも避けていた筈ではなかったか。
よりにもよって、そんな相手に手解きを乞いに向かうとは。狼の巣に飛び込む可憐なウサギを想像しようとして、ヴィンスはしくじった。狼の巣に飛び込む大型犬。両者共にただではすまない気がする。
「そそそそれで? 教えていただいちゃったのか?! どうだった?」
勢い込んで問い質す友を悲しげに見返し、マイクロトフは弱く首を振った。
「それが……、おれも決死の覚悟で向かったのだが、ヴィトー様は自分を大切にしろと仰って……」
「───…………マイクロトフ」
ヴィンスは背中を駆け上がる寒気に戦きつつ、ようやくのことで疑問を切り出した。
「マイクロトフ……非常に聞き難いんだが……おまえ、何を教えていただきに行ったんだ……?」
「無論、……う、受け身のアレだ……」
「何で!!!!!」
今度こそ仰天して彼はマイクロトフの二の腕を掴み締めた。実に太くて頑丈な腕である。ヴィトーには悪いが、この男に果たして欲情出来るものなのかと真面目に思案してしまう。
「も、もしかしておまえ……カミューとの分担を逆にしようとか考えてるのか?」
するとマイクロトフはきょとんと瞬いて首を振る。
「いや、そのようなことは考えていないが」
「……おまえなあ、話の脈絡が全然掴めないんだが……」
「ああ……だから、つまりだな」
前置きしてからマイクロトフは説明を始めた。
もう二度とカミューを傷つけるような真似はしたくない。だったらいっそ、ヴィンスの言うように役割を交代するべきなのかもしれなかった。
けれど最初の夜、カミューは言ったのだ。『おまえを受け身に据えるのは生理的に無理な気がする』、と。
そうなるとマイクロトフは途方に暮れるばかりである。逆も無理、だがいきなり技巧を極めるのはもっと無理。万策尽きたマイクロトフには──やや躊躇を伴うが──ヴィトーを頼るしかなかったのである。
公衆の面前で照れもなく技巧派であることを明かした男。行為における余裕もたっぷり感じさせるヴィトーは、まさにマイクロトフの目指す男そのものだった。
一応、自分に恋愛感情を抱いてくれている男である。袖にしてしまったことは申し訳ないと思っているが、その後の彼の態度は以前と変わらぬ好意的なものだ。
憚りながら必要を感じ、カミューと結ばれたことを報告に出向いたときも、笑いながら『その気になったら浮気しようぜ』などと口にしていた。
そんなふうに言うということは、愛もなく関係することはヴィトーを傷つけはしないのだろう───そう思い至ったのである。
「……そこまでは分かった。それで、何で受け身の方なんだ?」
「戦では、まず相手方の戦力や布陣を探ってから臨むのが常だろう?」
何故そこで戦の話が出てくるのか。ヴィンスは首を傾げたが、相手はマイクロトフである。辛抱強く頷き返して続きを待った。
「カミューを辛い目に遭わせたくない。ならば、まず受け身という立場がどのようなものであるのかを知る必要がある」
「………………で?」
「己の身で行為そのものを熟知すれば、カミューを傷つけることもなくなるに違いない……そう考えてしまったんだ」
ヴィンスは深々と溜め息を吐き出した。発想自体は何となく理解出来ないでもないが、やはり何処かズレているような気がするのは何故なのか。
「それは……つまり、ヴィトー様相手に受け身体験をしてみて、それをカミューに活かそうとした……そういうことか?」
「ああ。だが……愚かだったと今は思う。やはり、カミュー以外の人間と共寝など出来ない」」
「あのなあ……」
ぽりぽりと頭を掻きながらヴィンスは不承不承指摘した。
「思い直してくれて良かったし、せっかく知恵を絞ったところにこう言っちゃ何だが、それって物凄く回り道だと思うけどな。どうせ教えを受けるなら『抱き方』だったんじゃないのか?」
「馬鹿な」
するとマイクロトフは毅然と顔を上げてヴィンスを睨み付けた。
「カミュー以外の男を腕にするなど……そんなことが出来る筈がないだろう? おれにはそんな趣味はないぞ」
───逆ならいいのか?
胸中呟いたヴィンスは、今度こそ疲れ果てて肩を落とした。
マイクロトフとは騎士士官学校入学以来の付き合いである。真っ直ぐで分かり易い男だと誰もが評価しているが、妙な方向に突き進む思考があることをたった今、思い知らされた。
一応は小康状態のようであるが、単純な男が狂い出すと相当恐ろしいものだという現実を目の当たりにして、彼は緩む口元を抑えるのに必死だった。
この友人の苦悩は実に愉快だ。
所詮ヴィンスはそういう少年であった。
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