執務室に戻ったカミューは、崩れるように椅子に座った。
────まだ心臓が速い。
あんな形で奪われたくちづけに酔った自分を嫌悪してみようとしたが、駄目だった。確かにマイクロトフと離れる寂しさを感じたのは事実だし、その抱擁に陶酔したのも事実だった。
カミューはもともとさほど性欲が強い方ではない。多くの女性と浮き名を流したが、恋愛のプロセスを楽しむ質であり、身体を重ねる行為にはどちらかといえば淡白だったと言ってもいい。
唯一の例外がマイクロトフだ。
行為の始まりは主導権を握っていても、何時の間にか男の勢いに押されてしまう。受動的な立場も禍して、マイクロトフの情熱に散々翻弄される夜を過ごしてきた。
マイクロトフだけには己のすべてを曝け出せるのだと認めているが、相変わらず行為そのものには慣れることができない。
抱き締められ、触れられることは好きだ。
手荒な愛撫に侵略されても、マイクロトフの必死の想いを感じるだけでカミューは高ぶる。
ただ、男の欲望に身体をこじ開けられるひとときには言葉に出来ないものがある。自分が征服されているのを実感する瞬間だ。
相手に縋り付きながら痛みが鈍い快楽に変わるのを待つ────カミューにとっては苦しい時間である。
それでも、拒絶しようと思ったことは一度もない。
疲労しているときは我慢してくれるくらいの優しさは持っている男だし、何よりそうして求められることに幸福を覚えるのは確かなことなのだ。
マイクロトフの不在が、そうした時間の喪失となるということは即座に結びついた。あの苦痛を割り引いても、暖かな抱擁の中で眠りにつく夜を失うのはつらかった。
それを指摘され、狼狽えたのはまずかったかもしれないと彼は思う。戻ってきたマイクロトフは、更に執拗にカミューを求めてくるに違いなかった。
一息ついてカミューは頭を冷やした。
────そろそろ戻らないと、ランドが四苦八苦しているはずだ。
何しろアレク・ワイズメルは、マチルダ騎士の代表である彼を片時も側から離そうとしない。彼の持つ気品と機知に飛んだ会話に心底惚れ込んでいるようなのだ。
急用だからとランドに後を任せて抜け出したものの、何時までも放置しておくのも気の毒だった。あのゴルドーとワイズメル、二人の相手に耐えられるのはおそらくカミューだけに違いない。
渋々ながら腰を上げかけた彼は、ノックもせずに入ってきたミゲルに眉を上げた。
そういえば、昨日も彼の相手をした。律儀に床磨きにやってきたのかと思ったが、少年は手ぶらだった。
怪訝そうに睨む彼に向けて挑発的に笑うと、ミゲルはどっかとソファに腰を落とし、無作法に足を投げ出す。ここしばらく息を潜めていた反抗心が頭をもたげたのだろうかと考えたカミューは、静かに声を掛けた。
「……掃除用具はどうした?」
「ああ、忘れました」
ミゲルは横柄に答えた。そして半身を捻ってカミューに目を当てる。
「────カミュー団長、取り引きしませんか?」
「取り引き────だと?」
驚くほどの変貌にカミューがますます眉を寄せたとき、ミゲルは陰険な声で忍び笑った。
「おれの除籍願い、返してもらいたいんですがね」
にやにやしながらも、ミゲルはカミューの口元を見ないように必死だった。
ややほの紅く染まっているように感じるのは気のせいだろうか。
あの唇が逞しい青年騎士の唇に塞がれ、思うままに蹂躙されて────そして甘い喘ぎを吐き出していたと思うと、ミゲルは気まずい疼きを覚える。
カミューは部下の突然の豹変に呆気に取られていたが、その内心はおくびにも出さない。挑発に乗る気もないし、同じレベルで応対するつもりもなかった。
「…………それで? 代わりにおまえはわたしに何をしてくれるというんだ?」
ミゲルはここぞとばかりに胸を張り、潜めた声で告げた。
「黙っていてあげますよ、あんたの秘密を」
「わたしの秘密?」
カミューは立ち上がり、机の縁に座った。
興味深そうな眼差しを崩す瞬間をミゲルは心待ちにした。
────やっと、負けっぱなしだった相手を屈伏させられる。
この取り澄ました顔が驚きに歪み、卑屈に懇願するだろう────言わないでくれ、と。
初めて優位に立った少年は有頂天だった。
「おれ、自由時間は三階の中庭で過ごすことにしてるんですよね」ちらりと唇を舐めて続ける。
「…………木の上で」
カミューの眉が微かに寄った。
言うまでもなく、さっきの出来事を指摘しているのはわかった。が、彼は静かに問い返した。
「────それで?」
「………………それで、だって?」
ミゲルは跳ね起きるようにして立ち上がる。目線が殆ど同じ高さになると、途端に自分の力を信じられるのが不思議だ。彼は畳み込むように言い放った。
「キスしてただろう、マイクロトフ隊長と! みんな聞いていたんだからな、あんたとあの方がそういう関係だって……!!」
「それがわたしの秘密、か?」
カミューはやれやれと首を振った。
────やはりマイクロトフのやることは抜けている。
こういう危険性は常に伴うのだ。
確かに騎士団内において恋愛関係にある人間もいるかもしれない。けれど、やはり道徳的に大っぴらにするものはいない。また、それを知ったとしても黙認するのが礼儀というものだ。勝ち誇ったように脅迫してきたミゲルは、カミューが思う以上にすれていないのかもしれなかった。
「……キスしていたから、おまえに対して切り札を与えてしまった。だから交換条件としてわたしの握る切り札を返せ────、そう言うのだな?」
「わ、わかってるなら、さっさと出せよ!!!」
ミゲルはやや戸惑っていた。
動揺するのはカミューのはずだったのに、どうして自分が焦らねばならないのか。ひたと自分に当てられて動かないカミューの視線は、まったくいつもと変わらず静かな水面のようだ。
やがてカミューが一歩足を進めた。彼はこの上もなく優雅に歩み寄ると、ミゲルの首筋を掴んだ。殴られるのかと身構える間もなく押し当てられた柔らかな感触に、ミゲルの思考は吹っ飛んだ。
カミューの唇が少年の固い唇を塞ぎ、巧みな舌先がその間を割る。侵入した舌に絡め取られた舌が、なめらかに吸い上げられて震えた。
ミゲルは払いのけるのも忘れるほど動転していた。ただ、自分の唇から蕩けるような感覚が生じて、それが全身に広がるのを呆然と味わうばかりである。
深く差し込んだ舌が丹念に少年の舌を撫で上げ、それから焦らすように引いていく。ミゲルは思わずその舌を追いかけ、カミューがしたように吸い上げた。半ば陶酔しながら上官の薄い唇を噛み、いっそう深く舌を差し入れるために強く唇を合わせた。
彼の両手はカミューの腕に掛けられ、今にも背に回ろうとしていた。
そこでカミューは少年の首筋を離し、軽く胸を突いた。唐突に中断された行為に少年はよろめき、呆然としたまま彼を見つめる。
「────……下手だな」
カミューは呟いて唇を拭った。
侮蔑されたことよりも、自分の唾液に濡れた唇が拭われる行為に目を奪われて、ミゲルは答えられなかった。
次の瞬間、彼はカミューの冷たい目に気づいた。
唇は微かに笑みを浮かべていたが、その目はまったく無表情で、まるで価値のない石ころを見ているようだった。
愕然としている少年に、カミューは静かに言った。
「……これでおまえも人のことは言えなくなったな。いいことを教えてやろう、ミゲル。切り札というものは持っていてこそ切り札なのだ。使ってしまえばそれで終わり、相手に痛手を負わせられなければ、自らを傷つけかねない諸刃の剣だということを覚えておくがいい」
カミューは押し退けるようにミゲルを突くと、扉に向かって歩き出した。ノブに手を掛けたところで一度振り返る。
「さっさとバケツを取りに行け。わたしは任務に戻るが、怠けるなよ。それから、家捜ししても無駄だ。おまえの除籍願いはここにはない」
そのまま彼は出ていった。
ミゲルは混乱したまま取り残された。
自分がしくじったのはわかった。だが、悔しいと思うこともできないほど、彼は動揺していた。
────初めてのくちづけ。
何の愛情もなく与えられた一瞬の炎。カミューの触れた唇が燃えるように熱かった。
そして、その口付けに酔い痴れた自分にも気づいていた。
いったい何をしようとしていた────あの時、カミューが自分を突き放さなかったら?
恐らくもっと深く相手を貪ろうとその背を抱き寄せていただろう────さっきのマイクロトフのように。
ミゲルは自分が信じられなかった。
カミューの技巧に惑わされたとしても、相手は男で、しかも自分の上官だ。間違ってもそんな感情が起きるなど想像もしていなかった。
「バケツ…………取ってこないと……────」
少年は自らに言い聞かせるように呟くと、よろよろと部屋を出ていった。
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