ロックアックス城の中庭にある大木に登って、少年は寛いでいた。
現在、城内は賓客の到来に騒々しいが、下っ端の彼には無縁の喧騒である。
久しぶりに出来た自由時間だった。どう使おうと勝手なのだが、先日見つけたこの秘密の場所は風通しも良くて居心地がいい。
木に登る────それも見つかったら叱責の対象になるのかもしれないが、このところ真面目にやっているためか、第一部隊の騎士たちの目はさほど厳しくない。咎められたら素直に謝れば大抵のことは見逃してもらえる。以前は片っ端から突っかかっていった自分とは少し違う────ミゲル自身もそう感じていた。
頭を下げることがあまり苦にならなくなっている。雑用係として散々恥をかいた後は、些細なことが気にならなくなっているのかもしれない。
相変わらずカミューには負けっぱなしで、その都度バケツを持って廊下を歩くことになるのだが、彼に向けられる騎士たちの視線は、前とは比べものにならないほど温かかった。
中庭の隅にあるこの大木は、うっそりと葉が茂っている。よほど注意して見上げない限り、太い枝に寝そべるミゲルを見つける者はないだろう。
そのくせ、地上はよく見えるのだ。自分が世界の中心になるような錯覚を覚え、満足して目を閉じようとした。
そのとき、一人の騎士がやってきた。彼は設えてあるベンチの一つに腰を下ろし、長い足を組んだ。
────ミゲルの胸は弾んだ。
マイクロトフ隊長、と口の中で呟いてみる。尊敬する騎士隊長が、物憂げに風に吹かれているのだ。短い黒髪が微かに乱れているが、彼はまったく気にしていないようで、じっと前方を睨んでいる。
何をしているのだろうとミゲルは怪訝に思った。
そう言えば、この中庭にはあまり騎士が来ない。ミゲルが秘密の寛ぎ場所と定めてからもう大分経つが、一度として他の人間がいるのを見たことはなかった。
ひょっとすると、マイクロトフ専用の場所と遠慮されていたのだろうかと不安に思い始めたミゲルは、現れた赤騎士団長にますます戸惑った。
「待たせたかい?」
カミューは優しく問い掛けた。マイクロトフはいや、と笑って首を振る。
誰も入り込めない親密な空気に、ミゲルは気配を消すだけで精一杯だった。
「いいのか、ワイズメル市長の接待の方は…………?」
「ああ、誘い出してくれて助かった。もう、いい加減に任を解かれたい」
カミューの口調は先日のランドとの会話のときよりも更に砕けている。彼は音一つ立てずにマイクロトフの横に座ると、背もたれにもたれて髪を掻き上げた。
「グリンヒルの話を何時間されたか、聞きたいか? わたしはもう、一端の観光案内書並みだ」
「────遠慮しておく」
笑いながら首を振るマイクロトフに、カミューは溜め息を吐いた。
「今夜の晩餐会が山だが…………これで市長をグリンヒルまで送れなどと命じられたら、今度こそ倒れそうだ」
「…………疲れているのか?」
心底案じているような男の声。ミゲルには部下を叱咤しているマイクロトフの勇ましい声しか記憶になかったので、その違いに目を見張った。
「ああ……正直、ふらふらする。わたしはこの三日あまり、まともに眠ってないんだぞ? ワイズメル市長の話の長いこと、おまけに下がろうとするとワインが足りないだの、蝋燭が切れそうだの…………」
彼は大きく息をついた。
「────おかげで不眠になった。いつ呼ばれるかと思うと、仮眠もおちおち取っていられない」
「…………部下に任せればいいのに」
もっともなマイクロトフの指摘は、苦々しい口調に消された。
「わたしだってそうしたいさ。だが、ゴルドー様はワイズメル市長に相対するのはわたしだけ、と決められたようで…………さながら市長の小間使いといったところだな」
「────それだけおまえを信頼している、ということなのだろうが……少々度が過ぎているな」
「……ここだけの話だが────あのお二人が顔を突き合わせて相談しているのを見ているのは、あまりいい気分ではないんだ」
初めてカミューの口調に疲労が混じった。ミゲルは息を殺して姿勢を整え、二人の表情が見えるように首を伸ばした。
風に乱された髪を撫で付けようともせずにいるカミューの気怠い雰囲気は、少年の目から見てもどこか危うく、儚げだった。それを傍らで見守る男の目は、深い思案を浮かべている。
「どういうことだ?」
「……わからない。何か……あまり良くない話を進めているような……何と言ったらいいか…………」
カミューは幾度か言葉を飲み込みながらそこまで言って、軽く首を振った。
「いや……、いい。言っても仕方ないことだ。多分……気の所為だろう」
「喜んで世話をしたい人間に思えない、ということだな?」
マイクロトフの意見に、カミューは微笑んだ。
「まあ、そんなところだ。それよりどうした? 何か話があったんじゃないか?」
「あ、ああ────」
マイクロトフは口籠り、両手を握り合わせた。
「青騎士団がトゥーリバーへ派遣されるという件なのだが」
「ああ、コボルトの実戦訓練の協力か。詳細が決定したのか?」
トゥーリバーは都市同盟の一都市である。ここには勇猛なコボルトと呼ばれる種族が住んでいた。
彼らは歩兵としての抜群の実力を持つ軍隊を持っていたが、騎馬兵との闘いに慣れていなかった。同盟を結んでいるものの支援として、実戦訓練に力を貸してほしいという要請を入れてきたのである。
当初、赤・青両騎士団合同で兵を送ろうということになっていたのだが、今回のワイズメル市長の接待にカミューが借り出されたことで、この任務は青騎士団のみで請け負うことになっていた。
「ああ。副長以下、第一・第二・第三部隊が任に就く」
これにはカミューも驚いた。
精鋭中の精鋭が、たかが……と言ってはコボルトに失礼だが、依頼演習などに参加するのは異例だ。
怪訝そうな彼に気づいたらしく、マイクロトフは苦笑した。
「────ゴルドー様の命令だ。コボルトたちにマチルダ騎士団の真髄を見せてこい、と」
「…………なるほど」
ゴルドーはどんな場合にも権勢を誇示するのが常だった。例え軍事演習だろうと、相手に僅かでも侮られるのは耐えられないのだろう。
溜め息混じりに納得したカミューに、マイクロトフの窺うような視線が向けられている。
「────それで? 出立はいつだ?」
「……明朝、夜が明ける前に」
「何だって? それはまた……、随分急だな」
驚いてカミューが口を挟むと、マイクロトフは更に苦笑した。
「前にも言わなかったか? コルネ団長の命令は、いつも突然なんだ。今も、家族持ちの連中たちが慌てて帰宅して準備している」
「…………準備って────長いのか?」
「予定では三週間。ことによると、もう少し長引くかもしれない」
三週間、とカミューは口で呟いた。
彼が団長に就任する少し前から、マチルダは平和だった。隣国ハイランドとの国境紛争も起こらず、出兵と呼べる行為は一切なかったのだ。
「すでにゴルドー様に出立の挨拶は済ませたんだ。何しろ早朝だし、晩餐会がいつ終わるかわからんしな」
「そうか…………」
カミューは黙り込んだ。唐突に空虚が広がるような気がしたのだ。
────マイクロトフの不在。
それは二人が一緒に暮らすようになって初めてのものだ。無論、互いに城に泊まり込むことは多い。だが、それほど長く離れる夜を送ったことは未だなかった。
寂しいと思っている自分を気づかれるのが嫌で、カミューは殊更冷静に切り出した。
「久しぶりの対外訓練だからな、あまり気張って無理をしないようにしろよ。コボルトの戦力は馬鹿にしたものではないぞ」
「ああ、わかってる」
「あそこは珍しい食べ物が揃っているらしい。能力を高めるものもあると聞いた────試してみたらいい」
「……ああ、そうだな」
「わたしも何時に解放されるかわからないから、見送りはなしだ」
「────ああ、気にしていない」
「抜道を通るのだろう? ドレミの精を侮るなよ」
「カミュー、カミュー……────」
笑いながらマイクロトフが遮った。
「おれは子供ではないぞ?」
「────どうだかな」
カミューは呟いて立ち上がった。
「それじゃ、気をつけて行ってこい。わたしはそろそろ戻らないと…………」
「カミュー」
マイクロトフの声が変化したのに、カミューも木の上のミゲルも気づいた。笑いが消え、思い詰めたような気配が潜んでいる。
「……────それだけか?」
彼は真っ直ぐにカミューを見たまま問う。カミューは戸惑って、眉を寄せた。
「それだけって…………」
「おれは三週間もロックアックスから消えるんだぞ?」
「ああ、だから…………?」
マイクロトフは立ち上がり、大股にカミューに近寄った。反射的に一歩退いたカミューの腕を掴み、真摯な口調で続ける。
「────寂しい、とは言ってくれないのか?」
カミューは内心を言い当てられ、狼狽えた。動揺の分だけ口調がきつくなる。
「つまらないことを言うな! 子供じゃないと言ったのは……───」
「────おれは寂しい」
マイクロトフの言葉に仰天したのは木上のミゲルだ。彼は必死で首を伸ばし、マイクロトフの手が自団長の腕に食い込んでいるのに更に動揺した。
「…………任務なのだから仕方ないだろう?」
やや口調を静めてカミューが言うと、マイクロトフは微笑んだ。
「ああ、おれもそう思って我慢している」
「手を離せ。つまらないことを言ってる暇があったら、自分の荷物でも纏めたらどうだ」
「もう終わった」
言いながらマイクロトフは手を離した。カミューは一瞬言葉を探して唇を開いたが、そのままくるりと背中を向けた。歩き出した彼を、不意に背後から拘束する腕が伸びる。
抱き締められてカミューは硬直したが、もっと驚いたのはミゲルである。信じられないものを見た驚愕で、思わず木から転げそうになった。必死に体勢を整えた彼は、切なげなマイクロトフの声を聞いた。
「わかっているのか、カミュー? おまえはこのところずっと接待に明け暮れて家にも戻れず……その上、三週間だぞ? 気が狂いそうだ」
「……………………」
「せめてこうして触れるくらいしなければ、とても旅立てない」
「は、離せ! こんなところで────」
「構うものか、ここで普段おれたちが話をしているのはみんな知っている。誰が邪魔をしに来ると言うんだ?」
「そういう問題じゃない」
「では、何が問題だ?」
「我々は騎士で、ここは城だぞ。こういう公私混同は…………」
「おれは騎士である前に人間だ。おまえがこうして目の前にいて、しばらく会えなくなるというのに放っておけるほど冷めてはいない」
「マイクロトフ────!」
男はいっそう腕の力を強めたらしい。苦しげに息を吐くカミューは、悩ましくミゲルの目を焼いた。
そこまでくると、カミューの抗いは潰えた。男の手が頬に掛けられ、顔を捩じ曲げられる。片腕できつく抱かれたまま、カミューはマイクロトフにくちづけられた。
最初は触れるだけ────それから激しいまでに求められ、カミューは切ない吐息を立て続けに零した。
少年が息を殺して見守るのも知らず、二人はしばらく互いの唇を貪り合った。ようやく二つの影が離れたとき、細い影は走って中庭を飛び出していった。
残されたマイクロトフは、恋人の感触の残る唇を手でなぞり、苦しげに彼の人の名を呟いた。
マイクロトフがゆっくりと中庭を出ていってからも、ミゲルは呆然としたまま動けなかった。
しばらくすると、彼は薄い笑みを浮かべた。
これはチャンスだ。自分はあの団長の絶対的な弱みを握った。
────あるいは自分の除籍願いを取り戻せるほどの切り札を。
少年は身軽に木から飛び降りると、転がるように中庭を後にした。
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出番がなくてちょっとキレ気味の青(笑)
普通、城内でこんなことしたら
赤に張り飛ばされそうですが……
この話、そこは乙女モード赤ですから。
往復ビンタ食らっていたら
それはそれでミゲル君、受けたろう……。
次回副題 『ファースト・キスはレモンの香り』(爆)
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