「……入ります」
モップを手に、ミゲルがやってきたのは夜も更けてからだった。
ロックアックス城に設えられたカミューの居室。ここで生活することも可能なほど、すべての設備が整った立派な個室である。
カミューはすでに一日の執務を終え、肩当てを外してベッドで寛いでいるところだった。
つい今し方までローウェルに扱き使われていたのだろう、少年は疲れ切っているようだった。むっつりとしたまま、バケツにモップを突っ込んでいる。
そのままゴシゴシと床を擦り始めた少年をしばらく見つめていたカミューは、やがて柔らかに問い掛けた。
「雑用は楽しいか?」
少年は俯いたままだった。
「ミゲル、雑用は訓練よりも楽しいかと聞いている」
「────……いいえ」
少年は小さく答えた。
除籍願いを取られてからの十日間、ミゲルは心身共に疲れ果てていた。今までのツケが回ってきたように、騎士たちは彼に無言の侮蔑を投げた。だが、ミゲルは手に余るほどの雑用を言いつけられ、疲れて睨み返す気力もないほどだった。
勿論、訓練になど参加させてもらえない。まさしく従者以下の冷遇だった。
一日城にいて、やっていることと言えば掃除・雑巾掛け・使いっ走り。ローウェルとはこれまでまともに顔を合わせたこともなかったのだが、相当憎まれていると感じずにはいられない処遇だった。
いつしか騎士たちが自分に構わなくなったのに気づいたが、ほっとする気分も沸かない。いっそカミューの言う通り、除隊してしまった方が楽だとも思われた。
ただ、ミゲルは負け犬となるのが嫌だった。
カミューを見返してやりたい、思うようにはならないという一念でこの十日を過ごした。剣にも触れさせてもらえないので、みんなが寝静まってからこっそりと素振りなどして賄った。
その結果、寝不足と疲労でミゲルの心は萎えていた。
「……騎士士官学校では訓練をサボる常習犯だったそうだな。それでも雑用よりはマシか」
揶揄するようにカミューが言うと、ミゲルの忍耐の糸はぷっつりと切れた。
彼はモップを投げ捨て、ベッドに寝そべるカミューまでずんずんと歩み寄った。顔は真っ赤に染まり、唇が震えている。
「楽しいわけないだろう! 毎日毎日、掃除だ、雑巾だって……おれはこんなことをするために士官学校に入ったんじゃない!」
「ほう」
カミューはゆっくりとベッドの端に座り直す。
「では、何が望みだった?」
「────おれは!」
ミゲルは両手を戦慄かせた。
「おれは剣が好きだ。誰よりも強くなる自信があった。だから……」
「……────抜け、ミゲル」
「え?」
カミューはサイドテーブルに立て掛けてあった愛剣ユーライアの鞘を掴んだ。
「抜け、と言っている。わたしが憎いのだろう? おまえから剣を奪ったわたしが。ならば、剣で抗議したらどうだ?」
カミューは軽やかに腰を上げ、続いてユーライアを抜き放った。
「な、何…………」
あまりのことに戸惑ったミゲルが、数歩後退った。カミューは抜き身の鋭い切先を少年に突きつける。
「どうした? 向かってこないなら不戦敗だな、ミゲル」
少年は激昂して剣を抜いた。
従騎士の分際で騎士団長に剣を向ける暴挙がどれほどのものか、ミゲルにも漠然とわかっている。それでも挑発されれば引けないのが性分だ。十日間の忍耐における精神的疲労も手伝って、もはや自制することができなかった。
────これで終わりだ。さっきからカミューに礼を欠いている。あの除籍願いを使われるのは決定した。
ならば、この生白い顔に一泡噴かせてやる。
手傷の一つも負わせて、彼の実力が地位に相応しくないものだと皆に見せてやる────。
剣を構えたミゲルを見て、カミューは内心感心していた。
なるほど、噂通りの良い構えだ。どことなくマイクロトフの構えに似ている。
そこでカミューは先日廊下でマイクロトフと共にすれ違った時のミゲルの表情を思い出した。
ミゲルはマイクロトフを目標としているのだろう。あのとき彼がマイクロトフに向けた眼差しには確かに憧れがあった。その男の前に無様な姿をさらしたことで、切なげな顔をしていたようにも思った。
カミューの思考は、切り掛かってきたミゲルの剣に中断させられた。
予想通り、真っ直ぐで力強い剣である。軽く受け止めるとかなりの衝撃があった。
カミューはマイクロトフと初めて剣を交えた時のことを過らせた。
────あのときもそうだった。自分よりもはるかに体格の勝る男の力任せの剣に押され、苦い思いをしたのだ。
だが、あれから幾年も経った。まして、当時のマイクロトフと同じ程度の腕に苦労することはない。彼は優雅な動きで突進する少年をかわし続けた。
ミゲルは思うようにならない攻撃に焦り出した。
カミューの動きは滑らかで流れるようだ。思い切り打ち込む剣を嘲笑うかのように逃れ、試すような反撃が飛んでくる。いつしかミゲルはその剣をかわすのに必死になっていた。
だが、ふとカミューの防御に微かな隙を見つけた。
自分を侮って、手が甘くなったに違いない。ミゲルは勇んだ。
怒りを込めて振り払った剣は、カミューを捉えるはずだった。
しかし、ミゲルの放った剣の先にいるはずの青年は、いつのまにか彼の横に位置を変えていた。
気づいた時には遅い。ミゲルは剣を弾き飛ばされ、白く光るユーライアの切先が喉元に突きつけられていた。
「あ…………」
少年は呆然とした。
今の動きがまったく見えなかったのだ。どこから剣が飛んできて自分の剣を弾いたのかもわからなかった。ただ、喉に当たる冷たい感触に凍りつくような恐怖を覚えた。
「────まだまだだな、ミゲル」
恐るべき剣先とは異なる、柔らかな声が言う。笑いさえ含んでいるような口調だ。
「なるほど、雑用などしている余裕はなさそうだ。おまえには訓練が必要だな」
カミューはユーライアを鞘に納めた。青ざめて震えている少年を一瞥する。
「この程度の攻撃をかわせないとは、防御もなってない。ああ……おまえも防御は苦手なタイプのようだが、攻撃で相手を仕留められないなら、先日の持論には問題があるな」
弾き飛ばされたミゲルの剣は部屋の壁に突き刺さっていた。歩いていって剣を引き抜くと、カミューはミゲルの腰に剣を戻してやった。
「明日から訓練に参加しろ。ローウェルにはわたしから言っておく。いつでも挑戦して構わないぞ、ミゲル。ただし、負けたらこの部屋の床を磨け」
ミゲルは呆然としたままカミューを見た。ほんのわずかに目線の高い騎士団長は、楽しそうな笑みを浮かべていた。
「ああ、取り敢えず明日の訓練が終わったら、その壁の傷を修復してもらおう」
「なっ、何でおれが……!!」
ようやく声の出た少年に、カミューは肩を竦めた。
「おまえが剣を離すからだ。責任を取れ」