ぐったりしたカミューを腕に抱いたマイクロトフを迎えたのは、戸口で座り込んでいたミゲルだった。
彼はぎくりとしたように慌てて立ち上がったが、マイクロトフもまた、とっぷりと日が暮れるまで待ち続けていたミゲルに驚いた。
「おまえ…………」
「ど、どうしたんですか? 大丈夫ですか」
おろおろと口を開くミゲルに、マイクロトフは表情を緩めた。
「ドアを開けてくれ」
命じると、弾かれたように彼は動いた。そのまま室内に向かうのを戸口で見守っているのに、軽く声をかけてやる。
「────入ったらどうだ?」
「で、でも────」
ミゲルは項垂れた。
「家が────汚れます」
消え入るばかりの口調に、マイクロトフはしばし考え、苦笑した。
「別におまえを斬ろうなどと思ってはいない。いいから、入れ。話がある」
渋々といった具合にミゲルは続いた。それから寝室に向かう二人を所在なげに棒立ちで見送りながら待っていた。
マイクロトフはカミューをベッドに寝かせると、そっと額の髪を払ってから居間に戻った。
「ミゲル、おまえは────カミューのことを……」
座るように促したが、ミゲルが立ったままなので、仕方なくマイクロトフも立ち尽くしたまま話を切り出した。
「────好きです」
彼ははっきりと答えた。もう覚悟を決めたのか、口調に迷いはなかった。
「おれ、マイクロトフ隊長とカミュー団長のことも知ってます」
「……何?」
「マイクロトフ隊長がトゥーリバーへ向かう前日の午後、おれ……中庭の木の上にいました。それで────全部……」
「────そうか」
マイクロトフは溜め息を吐いた。
「カミュー団長も、おれに見られたことを知っています」
「そうなのか?」
「……言ってました。誰に知られても構わない、と────」
ミゲルは目線を落とした。
「ずっと気づかなかった。あの人を見るたびに胸が痛んだけれど……でも、好きだとわかったのはついさっきです」
マイクロトフはかつてミゲルが自分に似ていると語ったカミューの言葉を思い出していた。なるほど、己の感情に鈍いところも似ていたわけだ。
すでに憤りはない。ただ、これだけは言わずにいられなかった。
「おれは────カミューを誰にも渡すつもりはない。おまえがあくまで争うと言うなら────」
「いいえ」
ミゲルは寂しげに首を振った。
「……わかっていました。カミュー団長の心にはいつだってあなたしかなかった。こうして記憶が混乱してさえ、彼はあなたを求めている。あなたにキスされたことで、彼は十三才の自分が消えるような恐怖感に襲われていたんです」
「恐怖感…………だと?」
「大人のカミュー団長が戻りたがっている、そう言ってました。人格を揺るがされたのだと思います。おれが、不安に駆られる彼につけ込んだだけです……彼は悪くありません」
マイクロトフは疲れ果ててソファに座り込んだ。カミューを庇って馬から落ちたときに打ったあちこちが痛み出すような気がした。
「おれの────所為か、カミューが不安になっていたのは……なのにおれは……」
誰でも誘うのか、などという言葉はさぞショックだったことだろう。相変わらず後先考えずに飛び出してしまう自分の感情に、頭を抱えたい気分だった。
「マイクロトフ隊長────おれ……おれはカミュー団長にキスしたことを後悔してません。たとえ隊長に斬り殺されてもよかった」
「馬鹿なことを言うな」
「いいえ……だって、おれは────おれは」
ミゲルの声が詰まった。見遣るマイクロトフの目に、頬に流れる涙が映った。
「…………本気だったし…………初めての────」
────恋だった。
最初から諦めることを運命づけられた、空しくも切ない、悲しくも美しい初恋。
言葉にはならなかったが、マイクロトフにも察することができた。カミューならば慰めの一つも口にするのかもしれないが、マイクロトフにはそんな器用な芸当はできない。無言で見守るしかなかった。
ひとしきり泣いて、ようやくミゲルが落ち着いた頃を見計らうと、彼は静かに切り出した。
「ミゲル……おれたちは決して離れられない一つの魂を持っている。おまえがどれほどカミューを想っても、譲ることはできない。だが……それほど想ってくれて有り難いと、多分カミューは……そう思うだろう」
はい、と小さく呟いてミゲルは涙を拭った。
「────馬鹿みたいですね、おれ……好きな人の気を引くために反抗していたみたいだ。あの人が気に止めてくれるのが嬉しくて、でも素直になれなくて……、最初からどうにもならなかったのに」
「ミゲル────」
「おれ、立派な騎士になります。いつかカミュー団長が誇らしく思ってくれるような……そんな男になります」
彼は顔を上げた。そこに輝くばかりの決意を見て、マイクロトフは言葉を失った。
「戦いのときには、マイクロトフ隊長が安心して待っていられるように……あの人に剣を捧げ、あの人のために戦い抜きます。それが……おれが見せられる唯一の誠意だと思うから」
少年は、生きる目的を選択した。
決して手に入らないただ一人の人間。
だが、忠誠を捧げるということは己の全てを相手に与えることに等しい。
今日限りで殺さねばならない恋心も、触れたばかりの唇の温もりも、すべて纏めて剣と共にカミューに預ける────そう誓っているのだ。
マイクロトフは目を細めた。
同じ騎士団に所属していない彼には、赤騎士団が戦地に赴いている間、無事を祈りながら待つことしかできない。だが、傍らにこの男がいるならば、カミューは必ず自分のもとに戻るだろう────
「……ミゲル────立派な騎士になれ」
それは無器用な男の精一杯の激励だった。ミゲルもしっかりと頷いてぎごちなく笑った。
「マイクロトフ隊長……ひとつ教えて差し上げます。カミュー団長は風邪気味でしたよね?」
唐突に変えられた話題にマイクロトフが眉を寄せると、ミゲルは泣き笑いの表情で続けた。
「あれ────あなたを見送ったからです」
「何だと?」
「トゥーリバーに出立なさった未明……カミュー団長は風呂から飛び出してきたみたいな格好であなたを見送ってました。濡れた髪で……────きっと、あれで体調を崩したんだと思います」
マイクロトフはますます怪訝そうに首を傾げた。
「何故、そんなことを知っている?」
「見ましたから」
「……………………………………」
何かに引き寄せられていたのかもしれない。
そういう場面にばかり出くわした。
ミゲルは今更のように苦笑して、深く一礼した。
「────後で、カミュー団長に謝っておいてください。おれ、本気でキスしました。考えてみたら、あの人は十三才なんですよね。脅かしてしまったと思います」
「こいつ」
マイクロトフも笑いながらミゲルを戸口に送り出した。ミゲルはもう一度マイクロトフを見上げた。
「────本当に、いいんですか? おれを殺さなくて」
「……くどくど言うな」
マイクロトフは苦々しく答えた。
「本当は殺しても飽き足らないくらいに腹が立っているんだ。だが……万一おまえを殺した後でカミューが元に戻ったら、何と説明すればいい?」
「……ややこしいことだけは確かですね」
緊張が解けたのか、ミゲルは微笑んだ。どこか寂しげな笑顔に胸の痛みを覚えたマイクロトフだが、カミューと二人、互いを選んだときからこうした痛みは覚悟の上だ。敢えて答えず、頷くだけにとどめた。
去っていくミゲルの後ろ姿をしばらく眺め、改めて彼の想いの深さを考える。
退く以外にないミゲルの恋。
だが、それが軽いものだとは思わない。
マイクロトフとカミューの強い絆を知っているからこそ、そうするしかないのだ。また、マイクロトフという男を認めているからこそ、引き下がる潔さを奮い立たせることができるのだ。
葬ることしかできなかったミゲルの想いのためにも、マイクロトフは誓いのままに生きていくしかないのだ────たとえどんな困難が立ちはだかろうとも。
鍵をかけて、寝室に向かった。
カミューがこんなふうに意識を無くすのは良いこととは思えない。よほど心理的に抑圧されているのだろう。少年の想いは心から嬉しいと思ったが、同時に途方に暮れるマイクロトフだった。
ベッドではカミューがぼんやり天井を見上げていた。安堵して、彼はベッドの端に腰を下ろした。
「気がついたか、良かった」
「オレ……どうしたの?」
「気を失ったんだ。どこか苦しくないか? 頭が痛いとか、吐き気がするとか……」
心配して見下ろすマイクロトフだったが、カミューは目を合わそうとはしなかった。微かに首を振っただけで、目を閉じる。額に触れると、やや熱いような気もする。マイクロトフは慌てて解熱剤を取りに立ち上がろうとした。
「────ミゲルとキスしたのは、あんたの感触を消したかったからだよ。別に……誰でも構わずキスしたかったわけじゃない」
ぽつりとカミューが呟いた。マイクロトフは動きを止めて彼を凝視する。どこか虚ろな眼差しが返ってきた。
「────何だって?」
「あんたにキスされて……初めて気づいたんだ。オレは『カミュー』が戻ってくるのが怖かった。あいつが戻って、オレが消えて……そうしたら、あんたはオレが居たことも忘れちゃうだろう? オレがこんなにあんたを好きだったことも、あんたに会えて嬉しかったことも……何も知らずに……あんたは『カミュー』を抱き締めて、キスして────」
「カミュー、ちょっと待て」
「だったら、どうしてオレはあんたを好きになったりしたんだろう? 居ても居なくても同じなのに、どうしてこうやって苦しかったりつらかったりするのかな…………」
立て続けに呟きながら、言葉が脈絡を為していない。マイクロトフは眉を顰た。
「さっきあんたにキスされたのはオレ……? 『カミュー』が戻ってきたら、オレは何処へ行くの……? それとも、最初っからオレなんて本当は何処にも居ないのかな……オレはやっぱり『カミュー』なの……?」
壊れたように呟くカミューに、いたたまれなくなったマイクロトフは、虚ろな視線を合わせるように、しっかりと頬を挟んでやる。
「カミュー、しっかりしろ。おまえはおまえだ。こうしておれが触れているのは、今のおまえなんだ」
「────オレ、怖い」
心底怯えたように震えるカミューに、マイクロトフは額を擦り付けた。
「消えたら……マイクロトフさんのことも忘れちゃうのかな……」
「それは違う」
マイクロトフは強く遮った。
いったいどうしてしまったのかわからないが、カミューの精神状態が非常に危ないところにきているのだけはわかる。何とか引き留める言葉を探すが、どうにも上手くいかない。
「何度も言っただろう? いつ、何処で出会っても────」
「────オレはあんたを選ぶ……。わかってるよ、マイクロトフさん」
薄く微笑んだカミューに、ようやく正気の色が戻った。
「うん……、それだけは本当だね。信じられる」
「だったら────」
「…………きっと……『カミュー』も怖がっているだろうな……。このままオレが居座るってことは、あんたに会えないってことだもの……」
自分と争う無意味さは誰よりもわかっている。だが、少年の心を持つ彼には、未来の彼ほど容易に気持ちの切り替えがはかれない。
それでも無意識に自分が洩らした言葉にはっとした。
自分が同様であるように、未来の自分もマイクロトフに見詰めてもらえぬ苦しみを感じているに違いない。どちらが重い痛みか、という比較にはならないだろう。何故なら、本来この身体は未来の自分のものであるのだから。
彼は初めて未来の自分を愛しく思った。
誰にも恥じることない地位まで昇り詰めるために努力を重ねた自分。
決して揺らがぬ信頼を勝ち得た自分。
そして────常識やしがらみに縛られず、心から愛する相手を選ぶことのできた自分────
────もう、いい。
否定することなどできない。
『カミュー』は自分自身だ。
同じ男を愛し、必死で求めている自分なのだから。
「マイクロトフさん……オレの我儘、聞いてくれる……?」
やっとしっかりした口調で言ったカミューに、マイクロトフは瞬いた。強い視線に安堵して、微笑んで頷く。
「……おまえの我儘か……何だか新鮮だな。何でも言ってみろ、どんなことでも叶えてやるぞ」
「……オレを……好き? 『カミュー』と同じに……?」
「ああ、無論」
「────なら」
カミューは真っ直ぐに男を見据えたまま続けた。
「『カミュー』にしたのと同じように……オレにして」
「え?」
瞬くマイクロトフに弱く笑いかける穏やかな美貌。
「オレを────愛して」
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