厩舎には馬が二頭繋がれていた。
一方は、今し方マイクロトフが乗って戻ったばかりの黒馬、もう一頭がカミューの栗毛の馬だ。
黒馬にはマイクロトフの付けた鞍がそのままになっていたが、カミューは迷わず栗毛の縄を解いた。今は、マイクロトフの体温を感じるもの一切を拒絶したかった。
軽やかに裸馬に跨がると、鬣を握って厩舎を出る。グラスランド育ちのカミューにとって、裸馬を扱うのは造作もないことだ。
馬に乗るのはこの家に来て初めてだった。しかし主人を覚えているのか、栗毛は従順に脚を進め、やがて疾走を始めた。
重厚な趣のある街並みを、裸馬は一気に駆け抜ける。時折驚いたような街人の視線が振り返ったが、カミューはすべてを無視した。
すべるようにロックアックスを抜けた馬は、街道へと進んだ。我武者羅に走らせるカミューの心境を汲むように、ひたすら軽く風を切りながら。
ほんの一瞬だけ向けられたマイクロトフの怒り。
的外れな、誤解だと本人さえすぐに気づいたような叱責だったのに、カミューの胸は抉られたままだ。
自分を恋人だと認めていたなら、あんな言葉は出なかっただろうと思うと、絶望と悲しみに行き場のない想いが荒れ狂った。
絶え間なく流れ出る涙が疾走する馬の背後に飛ばされていく。風は冷たく、心の底まで凍りつかせるほどだった。
「カミュー!」
背後から呼ばれたが、振り返らなかった。馬の首に顔を伏せ、前も見ずに走り続けた。
追い掛けるマイクロトフも必死だった。
ミゲルとの遣り取りで出遅れたのは確かだ。しかし相手は裸馬、こうも追い付くのに難儀するとは思ってもみなかった。
カミューの馬術は見事なものだ。彼の知っている優雅で惚れ惚れするような巧みさとは異なるが、人馬一体となった疾走に、今更のように感嘆が込み上げる。マイクロトフ以外ならば、とうに見失っていても不思議はなかったかもしれない。
しかし、マイクロトフの本能が微かに行き先を感じていた。
何故そう考えたのか、彼にもわからない。
前方を行く馬を目視できるようになったとき、マイクロトフは自分の本能に感謝した。
カミューがカミューである限り、そして自分のさだめの相手である限り、目指すのはあの地だ。
最初に二人が心を通わせた、洛帝山へ向かう草原────
「カミュー、待て! 待ってくれ!」
さすがに騎馬訓練を重ねてきた強みか、マイクロトフの馬は次第に距離を詰めた。ほとんどぴったり背後に迫ると、更に叫ぶ。
「カミュー、おれの話を────」
「聞きたくない!」
悲痛な声が答えた。
「もう何も……何も聞きたくない!」
馬の鬣に突っ伏すようにしたまま前を見ていないカミューに、マイクロトフは肝を冷やす。確かになだらかな獣道だが、まったく障害物がないという訳でもないのだ。
「カミュー!!」
まるで聞く耳を持たぬといった気配に舌打ちすると、マイクロトフは馬に鞭を入れ、一気に速度を上げて栗毛に並んだ。
「カミュー、おれは────」
なおも呼び掛けるが、カミューは激しく首を振り、少しでも遠ざかろうと馬の方向を変えようとする。マイクロトフは決意して、体勢を変えた。
全身をバネにして、カミューの馬に飛び移ったのだ。
驚愕したカミューは、慌てて避けようとしてバランスを崩した。馬から放り出されるようになった格好の彼に、マイクロトフは更に馬を蹴って飛びつく。
二人揃って草原に落ちる瞬間、マイクロトフはカミューを抱き込んで庇った。勢いが止まらず、ごろごろと数度転がる。やがて止まったときには、二人は荒い息をついていた。
主人を失った二頭の馬は、かなり先まで駆けていってから速度を落とし、並んでたたらを踏んだ。
受け身は取ったものの、カミューを庇いながらあちこち打ち付けたマイクロトフは、しばらく声が出なかった。自らの上に乗ったカミューの身体もがくがくと震えている。
「…………少し……無謀だったかな────」
苦笑いながら呟くと、カミューが慌てて身体を起こした。その頬が涙で濡れているのを見て、マイクロトフは愛しさと哀れさで一杯になった。
「────怖かったか?」
指先で拭ってやろうとするが、カミューは反射の速度で跳ね退いた。マイクロトフは半身を起こし、一度大きく息を吐いてから言った。
「……すまなかった。あんなことを言うべきではなかったのに……許してくれ、カミュー」
カミューは距離を置いたまま、俯いて答えない。マイクロトフは彼を脅かさないように僅かに躙り寄った。
「カミュー、おれは…………」
「聞きたくないって言ってるだろ!!」
カミューは激しく首を振った。
「そんなことを言わずに、話を聞いてくれ」
「話? 聞いて何がわかるのさ! 話したって何もわかるもんか、オレはあんたの『カミュー』じゃないんだから……!」
「カミュー、何度言えば……」
「わからないさ! あんただって何もわかってないじゃないか!」
責め立てる口調に、マイクロトフは眉を寄せた。
「さっきのことを怒っているのだろう? あれは失言だった。すまない、おれは……」
「あんたは何も分かってない!」
カミューは激しく遮ると、マイクロトフを睨み付けたまま一気に言い放った。
「何もわかってなんかいないんだ! 知らないだろう? オレがあんたを好きなことなんか……知ろうともしてないじゃないか! あんたが見てるのは『カミュー』だけ、オレなんか早く消えればいいって思ってるのに……なのに、オレばっかりこんな……」
どっと涙を溢れさせ、カミューは悲痛に叫んだ。
「オレだって、あんたが好きなのに! 『カミュー』に負けないくらい、あんたを好きなのに! オレが『カミュー』と同じ? なら、オレを見てよ! 十年後のオレじゃなく、今、ここにいるオレを見てよ!」
呆然としているマイクロトフに、息も荒くきつい一瞥を加えると、カミューはゆるゆると目を伏せた。
「オレはオレなのに……『カミュー』の一部なんかじゃないのに……ちゃんと考えて、動いて……気持ちがあるのに……」
激しい感情の爆発の後には、悲しみが襲ってきた。カミューは膝を抱えてしくしくと泣きじゃくる。いつ存在を否定されても文句の言えない自分の惨めさに打ちのめされ、袋小路に追い詰められて弱々しく啜り泣いた。
「────カミュー……」
おずおずと、だが優しくかけられる声。頬を挟まれて上向けられた目に、マイクロトフの穏やかな顔が映る。
「おれが……おまえを見ていないと────どうしてそんなふうに思うんだ?」
額に触れる唇。
「そんなに不安か……? 確かに、おれはおまえと未来のカミューを重ねてしまう。だが、それは仕方のないことだろう? おれは未来のおまえを知ってしまっているのだから」
「………………」
「おれにとって、おまえはただ一人の相手なのだから、区別しろというのは無理だ」
「…………………………」
マイクロトフに挟み込まれた頬が熱くなる。カミューも、自分が相手に無理な要求をしているのはわかっているのだ。
「ただ……一つだけ、真実がある」
「………………?」
「おれが、いつ────如何なるときのおまえも……好きだということだよ」
マイクロトフは啄むようなくちづけをカミューに与えた。震えるような刺激が広がり、怯えたカミューは身体を竦ませる。
「……おれを好きだというのは本当か?」
「…………うん────」
「それは……、おれと同じ意味での『好き』なのか────?」
確かめられて、カミューは俯いたまま頬を染めた。しかし、次には真っ直ぐに男を見上げ、強く頷く。
マイクロトフは困惑して眉を寄せたが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「やはり……おれの魂の半身なのだな……」
それから周囲を見回す。
「おまえは知らないだろうが……このあたりはちょうど、おれたちが二度目に剣を交えた場所だ」
「え……?」
「おれがおまえに惹かれて、友人になってほしいと頼んだ場所だ」
もう一度しっかりとカミューを見詰め、彼は低く囁いた。
「わかるだろう? いつ、如何なる場所で出会おうと、おれたちは互いを選ぶ。おれが選んだ『カミュー』は、おまえが成長した姿なんだ。どうしておまえを見ていないなどということがある?」
「…………────」
「物腰とか言葉遣いが何だ? 同じ魂の色をしている限り、おまえはおれのカミューだよ。生涯変わらず一緒に生きようと誓い合った『ただ一人の相手』だ」
カミューが俯こうとするのを、マイクロトフはしっかり包み込んだ頬を離さないことで止める。そのままゆっくりと彼を引き寄せ、柔らかくくちづけた。
「好きだ」
二度目は更に深く。
「おまえが好きだ、カミュー……」
三度目は言葉にならなかった。マイクロトフは身体の奥から込み上げる熱情に駆られて、カミューをきつく抱き締めた。貪り尽くすようなくちづけに、微かな身じろぎさえ失ったカミューが、やがてしっかりとしがみつくことで応えた。
「あ…………」
情熱のままに押し倒され、切なげに吐息を洩らしたカミューは必死にマイクロトフに縋り付いた。深く差し込まれた舌先に、躊躇いがちに絡めた舌が吸い上げられていく。激しく全身を弄る掌に、意識が朦朧とした。
それでも────
この前のように冷たい感覚が生じることはなかった。余裕なく唇を貪る男からは、ひたむきな愛情だけが伝わってくる。
自分の中に『カミュー』という男がいることを、少年は初めて認められるような気がした。
マイクロトフの真実────どんな自分であろうと、彼が迷わず心を差し出してくれる男だと確信できたからだ。
背中に回した手で、必死に男の存在を確かめる。
ずっと蟠っていた凝りが解けていくのを知ったとき、意識が薄らいでいくのを感じた。
激しい求愛のもたらす苦しさだったかもしれない。カミューは愛する男の腕の中で昏倒した。
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