マイクロトフにくちづけられたあの日から、カミューはずっと自分の中に声を聞いていたような気がした。それは彼自身の声であり、しかし知らない男のものだった。
────自分の中の青年が戻ろうとしている。
そう感じたのはいつからだったか。
カミューは怯え、そして悩んだ。
マイクロトフに感じていた信頼が、どうして恋などという感情に変わってしまったのか、それは彼にもわからない。かつてマイクロトフが言ったように、いつ、何処で出会っても同じように相手を選ぶ────そういうことなのかもしれないと漠然と思う。
恋を自覚したときから、カミューの苦悩は始まった。
マイクロトフが愛しているのは未来の自分だ。共に青春を送り、長い歴史によって積み上げられた関係に根差す二人の愛情。
決して勝ち目のない戦いだった。
自らを恋敵とする滑稽な戦いでもあった。
────少年カミューには絶望に彩られた空しい初恋だ。
気づかぬままに体調を崩したのも無理はない。夜もろくに眠れず、食欲も落ちた。マイクロトフに案じられるのがいっそうつらく、それでいて彼の目は常に男を追い求めるようになった。
自分で感情を制御できない。
こんな女々しい自分は許せないと思いつつ、訳もなく悲しくなって、涙が溢れるのを止められなくなる。ほんの僅かでも男が離れてしまうと、その間に自分が消えて失くなりそうな不安に駆られた。
最後に残った負けん気から言葉にすることはできなかったが、カミューは一秒でも多くマイクロトフの傍にいたかったのだ。
────それが自分が存在していられる唯一の力であるように思われたから。
今朝も努めて明るくマイクロトフを送り出したつもりだったが、いくらもしないうちに心細さが広がり、いても立ってもいられなくなった。
戸外に足音が響いたとき、だから急いで迎えに出た。
最初のうちに固く教え込まれた警戒を、彼はすっかり失っていた。よもや騎士団の人間が訪ねてくるとも思えなかったが、用心に越したことはないと諭されていたのに。
扉の向こうに見覚えのある若者を見た途端、パニックに襲われた。
以前なら、何とかそれを抑えて受け流すことができただろう。しかし、精神的に不安定になっている彼には、それすらも叶わなかった。
来訪者の顔は呆然としていて、自分の状況を見破ってやってきたわけではなさそうだと分かったが、もはやカミューには場を取り繕うことができなかったのである。
カミューはソファに座り込み、促すようにミゲルを見た。
ミゲルは慎重に、ゆっくりと彼に向かい合って腰を下ろすと、沈黙したまま長い話に耳を傾けた。そしてカミューが意外に思うほど真摯に話に耳を傾け、決して嘲りや非難を浮かべようとはしなかった。
「……あんたには見破られたかと思ってた」
ぽつりと言うと、ミゲルは微笑んだ。
「まさか────いくらなんでも、そんな突飛な想像はしませんでしたよ。事実は小説より何とか、って感じですね……」
実感を込めてミゲルが答えると、カミューは薄く微笑んだ。
「別に、オレはどうでもいいんだ。でも、オレのために一生懸命になってくれているランドさんたちのことを考えるとさ────」
「ランド副長たちのお考えは間違っていないと思います」
ミゲルは心から言った。カミューは少し驚いて彼を見返した。
「何で? オレ、何度も言ったんだよ。無理だって────」
「確かに……無茶苦茶な気はしますけど……、でも、おれがランド副長だったとしても、多分そうしただろうと思います」
わからないなぁとカミューは呟いて、ソファの上で足を縮めた。ミゲルという人物について与えられた情報からは、とてもこういう反応が予想できなかったのだ。自分を引き摺り下ろす先頭に立つような人間、それがカミューのミゲルへの認識であった。
小首を傾げて考え込むカミューを見詰めながら、ミゲルは感動を禁じ得ずにいた。
赤騎士団に入ってからというもの、驚きの連続の毎日だった。
ずっと人柄を見誤ってきた青年騎士団長の真の素晴らしさを知り、彼のために剣を捧ぐことを心に誓った。その誠は、こうして衝撃的なカミューの姿を見ても僅かも揺らぐことはない。
まして、あれほどカミューに心酔してきたランドたちなら、何があっても彼を守ろうとするだろう。ミゲルにはその心情が実によく理解できた。
しかもカミューは現在の自分を低く見ているようだが、幼くなってしまった彼も、ミゲルにはとても魅力的に思える。素直に感情を露にする姿は何処か危なげで、庇護欲を駆り立てずにはいられない。
見習いたちと共にカミューの前に呼ばれた日のことを思い出し、如何に赤騎士隊長たちが自分の言動にはらはらしていたかを考え、笑い出さずにはいられなかった。
「しかし……そういう事情だったなら、あのときに副長たちが団長にしゃべらせないように努めていたのが納得できます。大変だったでしょうねえ」
やや砕けた調子で言ったミゲルに、カミューも警戒を解いた。
「オレがこのままなら、ずっと大変なままだよ。早く元に戻ったらいいんだけど……」
それから微かに項垂れて呟く。
「────それって、オレが消えるってことだよね……」
ミゲルははっと息を詰めた。それほどカミューの気配が弱々しく、か細かったのだ。
「団長……?」
「おかしいよね、オレがここに出てきちゃったことが間違ってるのに……でも、オレは確かに今、ここにいる。だけど『カミュー』が戻ってきたら、オレは消されちゃうんだ」
「そんな────」
折った膝に頭を埋めたカミューは、ひどく異質だ。なまじ青年の身体なだけに、ミゲルの目に馴染まない。しかし、その心の葛藤だけはわかるような気がした。
ミゲルはカミューの横に座り直した。騎士団長のカミューになら到底できないことだが、今のカミューになら可能な気がして、そっと細い肩に手を乗せた。
「……大丈夫ですか? どこか具合が悪いんじゃ……?」
労るような静かな声に、カミューは首を振った。
「平気だよ……ただ────オレ、最近変なんだ」
「変……って?」
カミューは僅かに顔を上げ、ぽつりと言う。
「……マイクロトフさんがいないと……不安で、こうなっちゃう。消えちゃいそうな気がするんだ……」
ミゲルは胸を突かれた。青年ならば決して言わないであろう弱音を洩らしたカミューは、本当に消え入りそうなほど儚く見える。それから、ふとマイクロトフのことを考えた。
「あの……その、カミュー団長……マイクロトフ隊長とは、その……つまり」
おろおろする様を不思議そうに見返すカミューに、ついに目線を落とした。
「────すいません。おれ、知ってます」
「え?」
「お二人のこと。その……見ちゃったことがあって」
「見たって……?」
さして感情を浮かべていないカミューに、ミゲルは一人赤面しながら続けた。
「キ、キス……………………してるところ」
一瞬カミューは目を見開き、それからほうっと溜め息を吐いた。
「────ドジ」
「でも、おれ……誰にも言ってませんから!」
「そう …………」
カミューの反応は、思っていたよりもずっと弱かった。ミゲルは眉を顰た。
────本当に影が薄い。
息がかかるほど傍に居るというのに、カミューは何処か遠くを見ている。
「……その……そういうことじゃないんですか? マイクロトフ隊長が傍に居ないと不安になる、って……」
「────あの人が好きなのはオレじゃないよ」
「えっ?」
「あの人が見ているのも、ランドさんたちが見ているのも、全部『カミュー』。オレの十年後だもの」
咄嗟にミゲルには何も言えなかった。
長い話の端々に、カミューが現在と未来の自分の落差に悩んでいることは感じられた。それはもっともな気がしたし、実際今の自分が、どちらの彼を頭に置いて会話しているのかもわからない。
だとしたら、カミューの戸惑いはどれほどのものだろう。精神的に不安定になるのは無理もないことだと思った。
「……馬鹿みたいだ。あの人は『カミュー』しか見てないのに……」
「────あなたもカミュー団長ですよ」
「十三の、ね」
嘲笑するように吐き出す言葉の苦さに、カミューは唇を噛んだ。
「あの人にとって今のオレは、ただのガキでしかなくて……なのに……」
ぽろりと涙が零れ落ちるのを見て、ミゲルは驚愕した。敬愛し始めた相手の泣き顔を見てしまった驚きもさることながら、その涙がとても美しかったからだ。
────胸が痛んだ。
泣きながら再び膝に顔を埋めたカミューに、これまでの心の揺らめきが何であったのか、はっきりと自覚してしまったのだ。
カミュー自身、どうしてミゲルにこんな話をしているのかよくわからなかった。殆ど初対面のような人間なのに、何故か心を吐露するのに楽な相手だった。
ずっと一人で苦しんでいたこともある。
こらえ切れずに零れ出した言葉は止まらなかった。
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