「もう泣くな、いったいどうしたんだ?」
出迎えるなり大粒の涙を大量に零したカミューに、マイクロトフは狼狽えるばかりだった。慰めようにも原因がまったくわからない。
昨夜のことをまだ気にしているのか。しかし、ならば自分に抱きついてなどこないだろう。
あるいは外出中に何かに脅かされたのかと不安になったが、泣きじゃくるカミューからは一切の言葉が出てこない。
「どうした。何があったんだ?」
「……………………」
一応人目を考えて家の中に押し込んだものの、まだカミューは戸口でマイクロトフにしがみついたままだ。昼間別れたときに見た顔を思い出し、寂しかったのだろうかと思った。
だが、このカミューに限って寂しさなどでこれほど号泣するだろうか。今度ばかりは理解不能で、マイクロトフは途方に暮れてしまった。
仕方なく、しばらくそのまま泣かせてやった。やがて泣き疲れたようにしゃくり上げながらカミューが呟く。
「────頭が痛い」
「何?」
マイクロトフはすぐに彼の額を探った。確かにやや熱を持っている。まあ、これだけ激しく泣けば熱も上がりそうなものだが、一応用心に越したことはない。
何と言ってもカミューは頭を打っているのだ。その結果、こんな妙なことになってしまったわけだし、頭痛や吐き気に気をつけるように忠言されていた。
「ベッドへ行った方がいい。歩けるか?」
小さく頷くカミューの肩を抱いて歩き出したマイクロトフは困り果てていた。優しく身体を横たえてやり、上掛けを引き上げるとベッドの端に座り込んでカミューを覗き込む。
顔色が悪い。泣いた分だけ頬は紅いが、全体的な印象は疲れているように見える。
「どんなふうに痛む? 吐き気はするか? だから食事が取れなかったのか?」
立て続けに問い掛けるマイクロトフに、しかしカミューは無言で首を振り続けた。
「困ったな……────医者に来てもらうか?」
「いらない……」
弱々しく言うと、カミューは溜め息を吐いた。
「すまなかったな、一人にしてしまって……こんなことなら、約束を取り消すのだった────」
「どうだった? バレてない?」
「ああ、大丈夫だろう。ミゲルはおまえのことを心配していた。気づいたという感じではなかったし……」
「そう……」
「おまえが見込んだ通り、結構な腕だった。あれはいい騎士になりそうだ」
「オレ、じゃなくて『カミュー』だよ」
「え?」
「ミゲルって奴の腕を認めたのは『カミュー』。オレはそんな奴、知らないもの」
言われて、ああとマイクロトフは苦笑った。だがそれよりも、即座に言い直したカミューの心情が気になった。昨夜の影響だろうか、前にもまして言い分けに過敏になっている。これまで少しくらいなら見逃していたというのに、今日のカミューはそれを許せないようだ。
やはり少しずつカミューの中で弊害が広がっているのか。それは大きな不安材料だった。
「カミュー……少し眠れ。おまえ、昨夜寝ていないんだろう。本当にすまなかった、二度とあんなことはしない」
「────そうじゃないよ……」
掠れた声で言うと、またも新しい涙を盛り上がらせる。マイクロトフにはどうすればいいのかわからなかった。こんなに情緒不安定なカミューを見るのは初めてだ。年相応────とでも言うのだろうか、ひどく幼くて居心地が悪い。
「怖かったのだろう? もう出ていくから、ゆっくり眠ったらいい」
マイクロトフが言うなり、悲鳴のような声が叫んだ。
「行かないで!」
久しぶりに素早い敏捷性を見せて、立ち上がりかけたマイクロトフの腕を掴んだカミューは必死の眼差しをしていた。
「ど、どうしたんだ?」
「いいから、ここに居てよ……お願いだから、マイクロトフさん……」
啜り上げられるように懇願されてはマイクロトフに否など言えない。もう一度座り直すと、宥めるように薄茶色の髪を撫でた。
「変だぞ、カミュー……どうしてしまったんだ?」
カミューは唇を噛んだ。長い間黙っていたが、ぽつりと口を開く。
「オレと『カミュー』って、どこが違う……?」
「同じだよ」
即答したマイクロトフに鋭く首を振り、きつい目で睨み付ける。
「ホントのことを言ってよ」
騙されない、とでも言いたげな目つきにマイクロトフは溜め息を吐いた。考えながら答えてやる。
「────おまえの方が少しだけ感情の起伏が大きくて、少しだけ素直だ。少しだけ正直で────かなり口が悪い……かな」
カミューは瞬いて、最後の言葉に少し笑む。
「それから?」
「それだけだよ。おまえは認めたくないのかもしれないが、やはりおまえはカミュー以外の何者でもない」
「……あんたが、ただ一人と選んだ相手……?」
「そうだ」
大きく頷いてマイクロトフは笑った。だが、カミューの微かな笑みはすぐに消えた。
「オレが居て……、困ってる?」
「…………?」
「オレが消えて、『カミュー』が戻ってくればいいと……そう思っているよね」
そんなこと、とマイクロトフは呟いた。が、ほんの僅かに否定し切れない自分にも気づいた。この先への不安が過ったのだ。
カミューは敏感にそれを悟った。薄く笑って首を振る。
「ううん、いい。何でもない、気にしないで。オレ……ちょっと疲れてるみたい。自分でも何言ってるかよくわからないんだ。ごめん────」
「そんなことはない」
今度は即座に答えて、マイクロトフは静かに言った。
「疲れても無理はない。そうだな……明日から馬の稽古に入ろうと思っていたが……取り敢えず、少し休んで様子を見よう」
「オレ、馬は得意だよ」
やっと心からの笑みを浮かべたカミューが言った。
「……騎士団の作法とかあるなら別だけど」
「そうか、ならば急ぐ必要は尚更ないな。体調が戻ったら、ゆっくりやろう。眠れ、カミュー」
「…………そこに居てくれる?」
「勿論だ」
どうして突然こんなに甘えるようになったのか、マイクロトフにはわからない。心労がいっそう彼を子供に戻そうとしているような懸念が押し寄せる。
命じられた通り目を閉じた顔は見慣れた青年のものなのに、今は幼さばかりが窺える。涙の跡の残る頬をそっと拭ってやると、カミューはくすぐったそうに身じろいだ。
「……何も怖がることはないからな。ずっとおれがついているから……」
自らに言い聞かせるようにマイクロトフは呟いた。
さっきのカミューの一言に、かなりの罪悪感をそそられている。
カミューに戻ってきて欲しい、一瞬ではあったが、そう確かに彼は考えたのだ。あの澄み渡った水面のような笑みと、彼にだけ見せる微かな感情の煌めき。今のカミューも愛しいが、かつてのカミューも懐かしく、慕わしい。
まるで二人の人間を前にして、どちらかに想いを捧げよと命じられているようで、恋愛沙汰にはとんと鈍いマイクロトフには手に余る状況である。
微かな寝息をたて始めたカミューの眦から、意識のない涙が零れる。マイクロトフは胸を裂かれるような痛みを覚えた。
夢の中でまでつらい思いをしているのだろうか。
どうしたら、二人のカミューを守ってやれるのだろう。
運命の悪戯とはいえ、マイクロトフには見当もつかなかった。
学ばねばならないことはほとんど終えた。
本当ならば、少し気持ちが楽になっていいはずの休暇の折り返し過ぎだった。
カミューはぼんやりと暖炉に向かって座り込む時間が多くなった。時折、マイクロトフが話しかけても気づかないことさえある。
食欲は落ちる一方で、昨日あたりからは無理矢理口に押し込むような状態となった。さすがに心配して医師を呼ぼうとすると、必死の形相で拒むので、それも叶わなかった。
どうしたのだと尋ねるたびに、カミューはあの青年そのものの表情で首を振る。この数日、マイクロトフには口調でしか少年と青年の区別がつかなかった。
「……本当に医者を呼ばなくていいのか」
「平気。ただ……少しだるいだけ」
カミューは今朝もそう答えた。
昨夜、馴染みの食堂の店主から一通の書状を受け取った。ランドからのものだった。緊急の用件で、明日、ロックアックス城に参城してほしいとの要請だった。
マイクロトフがトゥーリバーから戻り、カミューと一緒に休暇を取っているのを知っているのはごく僅かの人間だ。カミューの問題を広めないためにも、マイクロトフはまだ任務中とするのが一番なのだ。
それを敢えて城に呼びつけるからには、かなりの問題が起こったといえる。マイクロトフの気は重かった。
しかも、カミューはこの状態だ。
正確には、抑え切れずにマイクロトフが口付けてしまったあの夜から。何処か魂が抜けてしまったかのような印象を受ける。
話しかければ答える。
────笑いもする。
だが、最初の頃に見せていた天真爛漫な笑顔は失われ、憂いを漂わせた大人の表情が多くなった。話し口調は相変わらずだが、やや沈んだ声になった分、青年カミューを思い出させる。意識してそうしているのではないようなので、いっそうマイクロトフは不安だった。
できれば離れたくなかった。カミューの状態は初めて不安定と言える段階になった。これまで常に前向きな姿勢で状況を乗り切ってきた少年が、とうとう疲弊したように思えるのだ。
「できるだけ、早く戻るから……」
「────大丈夫だよ、心配しないで。ちゃんと復習はやっておくから」
「無理しなくていいんだぞ? つらかったら、眠っていろ」
「……別に、病気じゃないよ」
薄く微笑んで言うカミューだが、この二、三日、ずっと微熱が続いている。もともと彼の体温が高いことを知っているので、あまり切迫した心境にはならないが、気怠げな様子には後ろ髪を引かれる。
「本当に、無理をするなよ。それでは行ってくるが────」
「うん…………いってらっしゃい、マイクロトフさん」
何度も振り返りながらマイクロトフは家を出て城を目指した。
城門では、第二隊長アレンが彼を出迎えた。
「いったい、何事だ?」
「まずいのです、ゴルドー様が戻られます」
「何だと?」
予想外の言葉に眉を寄せながら、促されるまま彼は赤騎士団長執務室へと急いだ。
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