早朝からの呼び出しに、さすがにランドは眠そうだったが、指定されたベンチに腰を下ろしたときには真剣な顔になっていた。他騎士団の人間と密かに会っていることを見られたくないのは彼も同様だ。カミューの状態を疑わせるような危険は冒せない。
「如何だろう、カミュー様は……」
挨拶もそこそこに切り出したランドに、マイクロトフはここ一週間ばかりの進歩を告げた。彼は顔を輝かせた。
「そうか……それは素晴らしい」
「後は世事に対する反応ですが……こればかりはおれには」
ランドは苦笑した。
「我らにもお教えできるとは思えないな。カミュー様の本能に期待するしかないだろう」
「それから剣技の方ですが……やはり、これも少し難が……急激に成長してしまった身体を使いこなせない、というか……それでも並の騎士以上ではあるでしょうが、実戦ともなると不安が残ります」
「団長自ら剣を振るうような戦いは、しばらく起こりはしないだろうが……確かに不安材料ではあるな」
彼は難しい顔で頷いた。屈指の剣士であるマイクロトフの言葉には一切の誇張がないはずだ。彼が不安と言うなら、真実なのだとランドは思う。
「……兵法はどうか?」
「それは問題ないでしょう。おれも驚きました、いったいカミューは何処であんなことを学んできたのか……、戦略は間違いなく騎士団長に相応しいものを編み出します。実際の戦ともなると、机上では掴めない諸々があるので何とも言えませんが、これは慣れるしかないことですし」
そうだな、と応じてランドが苦く呟いた。
「目の前で起こる事態に狼狽えないよう、わたしも随分苦労したものだ────」
しかし、これも二人が頭を突き合わせて解決できる問題ではない。やがて会話は城の近況へと移っていった。
「ゴルドー様は、まだお戻りになられないのですか?」
「ああ、それだけが心の救いだよ。あの方の気紛れにも困ったものだと常々カミュー様が零しておられたが……よほどワイズメル市長と気が合われたのか、今少しグリンヒルに滞在すると一昨日伝令が来た」
苦笑するランド同様、マイクロトフもほっと息を抜く。
「できるだけお帰りが遅くなられるよう、祈るしかないですな。間が空けば空くほど、カミューの違和感を感じ取られずに済む確率が高くなる」
「その通りだ。ああ、それから君が戻っていることは青騎士団でもごく一部の人間しか知らされていないようだ。コルネ団長が気を回してくださったらしい。まったく、ありがたいことだよ」
「そうですか……」
絶大な支配力を誇った前青騎士団長の影に隠れて、コルネは印象の薄さの拭えない人物である。しかし、誠実さは疑うべくもない男で、マイクロトフにも目を掛けてくれている。彼は改めて自団長に感謝した。
「それより、君の方はどうだ? 不自由はないだろうか?」
騎士団内では、あの家がマイクロトフのものであることになっている。同居していた叔父夫婦がグリンヒルに移住したので、それまで住んでいた家を手放して新しい家を購入した────そこまでは事実だ。
ちょうど同じ頃に団長に就任したカミューは、城に立派な居住室を与えられたので、住んでいた街外れの家を処分した。時折、気分直しに城を出て、マイクロトフの家に泊まり込むのだと誰もが思っている。
カミューが『帰宅』と軽く口にする意味を、深く考える人間はいない。長年、家族ぐるみの親交を暖めている二人がそうするのは不自然ではなかったし、無理に隠さないことで逆に真実を塗り込めてしまうカミューの策は的確だった。
ランドの認識ではマイクロトフは一人暮らしの若い男だ。親友とは言え、他人と暮らし続ける精神的な負担、自宅を開放し続けている不自由さを慮ったのである。
「不自由────ですか……」
不自由はあるとも────マイクロトフは心で呟いた。
愛しい男を前にして、何もできない。
体温を伝え合い、存在を確かめ、想いを迸らせる────そんな優しくも激しい時間を失った。
今のカミューも確かに愛しい。彼が歳を経て自分の選んだ男になるのだと思えば、愛せないはずがなかった。だが、それをぶつけることのできないジレンマに悩まされている。
昨夜、短い一瞬で全身を強張らせたカミューの反応を思い出し、マイクロトフは苦く笑った。
「不自由とは思いませんが……やはり予想以上の弊害は感じます。以前のカミューと思って話していると、手痛い反撃を受けたりもします。おれにはどうしても別人だとは割り切れませんが、カミューは十年後の自分をきっぱり分けて考えている。落差が激しいだけに、本人も苦しいのでしょう」
「落差、か────」
「お話したように、仕種はもうカミューそのままです。しかし、感情はやはり少年だ。とても素直に気持ちを出すし……戸惑わせられる……────」
意地っ張りなところは同じだ。だが理性の鎧が不完全な分だけ感情が見え隠れして危うい印象を作り出す。
昨夜のカミューが特にそうだった────少しだけ大人びて見えたかと思うと、たちまち十三の素顔を曝け出す。
「────わかるよ」
ランドが静かに言った。
「君は我らよりもはるかにカミュー様に近しかった……つらかろう、マイクロトフ殿」
「いや、それは」
彼は慌てて首を振った。
「つらいのはカミュー自身です。おれは……何と言うか────」
うまい言葉を探そうとして、やがて諦めた。もともと自分がそういう行為に秀でていないのはわかっている。考えるよりも行動している方がよほど楽だ。
「…………明日からは乗馬を教えようと思っています。気分も変わるでしょうし。実は、あいつが一人では外に出たがらないので困っているのです。もう見ただけではわからない、と言っているのですが……快活そうに見えて、色々気にしているらしくて」
不意に話題を変えたマイクロトフにランドは目を細めたが、切り出された話に興味を持ったようだった。
「異変を見破られる……、と?」
「ええ。現にそちらの従騎士ミゲル……ですか、彼に知られたのではないかと気にしていまして」
「ミゲルか────」
ランドは考え込むように眉を顰た。
「どのような感じでしょうか、彼は? カミューの話では態度を改めると誓約したようですが……」
「ああ、本当だ。あれもまったく別人のようだよ」
苦笑いしてランドが応じた。
「もともと騎士士官学校では特待生だった。それなりではあろうと予想していたが……態度も務めも、そつなくこなしている。ことに剣と騎馬の訓練にはローウェルが舌を巻くほど熱心に励んでいるらしい」
「────彼を呼び出すことはできますか?」
「ミゲルを?」
ランドはカミューとミゲルの間に交わされたという約束を思い出したように瞬いた。
「ああ────君が剣を見てやるという話か」
「……ついでに、少し探りを入れておこうかと」
マイクロトフは声を潜めた。
「おれはこういうのは苦手なのですが……確かめておけばカミューも安心するでしょうし」
「確かに、あの場はとてもまずいという感じではあったが……気づかれた様子はなかったのだがなあ……」
ランドはまたも首を傾げた。
「騎士隊長たちはまったく気づかなかった。ミゲルも最後まで丁重な姿勢を崩さなかった。あの男の性格からして、気づけば暴き立てないとは思えないのだが────」
「…………そうとも言えないと思います」
低めた声でマイクロトフが遮る。
────もし、自分の懸念が当たっていたなら。
カミューに言われるまでもなく、確かめずにはいられない。
「午後、城の東の外れの丘にミゲルを寄越してはいただけませんか?」
「あの見晴らしのよい丘か?」
「あそこには滅多に街の住人は昇らないし、その時間帯なら騎士も訪れることはないでしょう。広さもありますし……剣の稽古をつけるのに不自由ない」
「わかった、ローウェルに指示しておこう」
「感謝します」
マイクロトフは立ち上がった。
長々と話し込んだ。街は朝のざわめきに揺れ始めている。
「人目につかぬうちにお戻りください。また、何かあったらあの店の子供に伝言を頼みます」
「よろしく頼むよ、マイクロトフ殿」
ランドは心残りそうに城へと歩み去っていった。その後ろ姿には微かな疲労が滲んでいる。団長不在の任務に加えて、大きな心労を抱え込んでいるのだ、見送るマイクロトフの胸も痛む。
このまま戻ればカミューとの朝食に間に合うだろう。しかし、マイクロトフは家とは逆の方向に馬を向けた。このままロックアックスを出て、少し馬を走らせるつもりだった。
早起きはいつもの習慣なので苦にならなかったが、どうにも寝不足で頭が重かった。
目を閉じるたびに、くちづけたカミューから洩れた甘い吐息を思い出し、身体中が疼いた。相手が少年の心をしていなかったなら、扉など蹴破って即座に抱き締めていただろう。
その扉一枚隔てた向こうでカミューが眠れない一夜を過ごしたことを、彼は知らない。
留守にすると口にしたときのカミューの心細げな顔が妙に頭に残る。
寝室に消えた後に微かな啜り泣きが聞こえた。怯えさせたのだろうとマイクロトフは激しい自責に苛まれた。それで、こうして少しだけ時間を置くことを考えついたのだ。
現在のカミューにとっての自分はあくまでも保護者だ。庇護してくれる男が、あるいは自分を好きなようにできるという恐怖に泣いたのだろうと思った。よもや少年が初めて覚える切ない想いに苦悩していたなどと、マイクロトフには想像もつかない。
頭を冷やさねば────そう思った。
軽やかな手綱捌きであっと言う間に街門をくぐり、街道を駆け抜ける。
────あてはない。陽の高さを頼りに、昼までには戻ろう。
やがて馬を操ることに集中し始め、マイクロトフはすべての考えを押し出した。
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