彼らの選択 ACT25


マイクロトフは実に鈍くて疎い男である。
場の雰囲気を感じ取るのは苦手だし、相手の機微を窺うのも勿論不得手。その上、相手の感情を察したところで、気のきいた台詞も言えない男だ。
だが、ここ数日の彼は褒めてられてもよかった。
彼はカミューに細心の注意を払い、その様子を観察し続けた。
以前のカミューは常に何事かを心に秘めているようで、口を割らせるためには必死の説得が必要だった。しかし、少年カミューはまだ自制が行き届かない分、マイクロトフにも理解しやすい相手だった。
結果、幾つか認められたことがある。
もともと彼は現在と十年後の自分を別けて語ることが多かったが、それが日々顕著となり、今ではまったくの他人の如く未来の自分を扱っている。二十四歳の自分を『カミュー』と呼び、それは現在の自分と混同されることなく言い分けられた。これにはマイクロトフも出来る限り倣うしかなかった。その方が会話が混乱せずに済むからだ。
しかし、それはあまり良いことには思えなかった。何故なら、その言い分けの中で、少年カミューが未来の自分をあまり良く思っていないらしいことに気づいたからだ。
少年が『カミュー』を論ずる言葉は辛辣で、いちいち反感を覚えているように聞こえる。マイクロトフが必死に考えた結果、どうやら少年が未来の自分に対してライバル意識を持っているようだと結論づいた。
青年カミューは穏やかで静かな男なので、あまり他人は気づかないが、実際はとても負けん気が強かった。人間が二人いれば自然に出来る立場の上下にも非常に敏感で、長い間マイクロトフに対してもそれを消し去ることができずに苦しんでいた時期がある。対等であるということに拘わる一面も持っていた。
してみると、少年は未来のカミューに引け目を感じているということになり、それが言葉や態度に表れてしまうのだろう。

それから、少年がマイクロトフという男の存在を許容したというのも気づいた事実のひとつである。
最初、恋人だと発覚してしまったときには世界から弾き飛ばしかねない勢いで拒絶したカミューだが、たった一晩でそれを諦め、是認した。
二晩目からは同じベッドで眠ることさえ了承したのだ。手出しをしないと誓った男への信頼を示そうとしたのかもしれないが、当のマイクロトフには寝苦しい夜であった。
最愛の恋人の息遣いを聞きながらの夜は、理性を総動員しての戦いとなり、マイクロトフを困憊させた。
さすがに二日目には慣れない神経を尖らせているのに疲れ、ベッドに横になると同時に熟睡するようになってしまったが。

 

いずれにしても、同居は順調に進んでいた。
カミューの飲み込みはまったく恐るべきもので、特に至難であろうと思われた兵法の講義も、あっさりマイクロトフが兜を脱ぐほどだった。
やはり、これは天性のものといっていい。図面上でカミューが展開する戦略は、マイクロトフの目から見ても非の打ち所のない見事なものだったし、騎士団長の判断としても文句が言えない完成されたものだった。
こうなると後は人間関係や世渡りといった、カミューが得意としていた政治的な戦法を残すのみ────なのだが、こればかりはマイクロトフが教えてやれそうなことではない。
マイクロトフから見れば、それこそが天賦の才能なのだから、いずれカミューが目覚めてくるのを待つしかないだろう────そう思うより他に手立てがなかった。
そうした訳で、予定よりも数段早く片づいていくノルマに満足して、暇が出来るとあれこれとカミューの喜びそうな逸話を披露してやるようになっていた。

同居して、六日目の夜のことである。
食事を終えて家に戻り、暖炉に火を入れた。敷物の上に座り、開けたワインを楽しみながら、カミューはマイクロトフの引き起こした決闘事件に聞き入っていた。最初は興味深そうに笑みを浮かべていたカミューだったが、次第に露骨に眉を寄せる。
「……決闘って、誰が誰に申し込んでもいいんだよね。どうして『カミュー』は自分で決闘しなかったんだろう」
彼には、未来の自分が卑劣な男の要求に晒されたことが耐え難いのだ。まして、侮辱を受けた自分が復讐をマイクロトフに任せたことも、素朴な疑問であった。
「決闘は風化された儀式だ……あれは『心得』に残ってしまっていただけ、といった条項だ。思いつかなかっただけだろう」
「でも、あんたは思いついたんだよね」
「下士官が大義をもって上官をぶちのめすには、それしか手段がないと、たまたま記憶に留まっていただけだ」
「…………」
カミューは納得いかなそうに首を傾げる。
「直属の上官だから、っていうので躊躇したのかも。だとしたらオレ、軽蔑する。それで出世がパアになっても、そんな真似されて黙ってるなんて、男じゃないよ」
「……カミュー」
マイクロトフは諭すように口を開いた。
「おれも……かつて一度はそうおまえを……、『カミュー』を責めた。だが、事はそう単純なものではない。『カミュー』は決してそんな男ではない」
静かな言葉に、カミューが俯く。その横顔が不満そうに見えて、マイクロトフは尋ねた。
「おまえは……『カミュー』が嫌いなのか?」
「嫌い……、っていうのとは違うよ。だって、『カミュー』はオレなんだもの」
いかにも不満そうに呟くと、カミューは火掻き棒で炎をつついた。
「ただ……、あんまり変わっちゃっているから……価値観も違うのかなって……」
「────股間を蹴り上げるわけにもいかないだろう?」
可笑しそうにマイクロトフが遮った。
「それにやはり直属の上官、しかも自団長に決闘を申し入れるというのは聞こえが悪い。第一、理由にだって困るだろう?」
「それは……そうだけど────」
項垂れたカミューの夜着から伸びる、綺麗なラインの首筋。炎に照らされて黄金色に光る産毛にマイクロトフは目を奪われた。

────確かに欲望は感じる。
抱き締めて、その首筋に思うまま唇を埋めたいという渇望はあった。しかし、マイクロトフも彼が少年であることは実感しており、庇護欲によって自分を抑えることに成功している。だが、ふとした拍子に感じる切ない想いまで殺すことは難しかった。
不意にカミューが顔を向け、そんな切なげなマイクロトフの目と出会った。彼は即座にその目の意味するものを感じ取り、唇を震わせた。
カミューも馬鹿ではない。恋人の肉体を前にして、マイクロトフがどれほど辛抱強く振舞っているか、理解している。時折、男がこんな眼差しで自分を見ていることも知っていた。
最初は戸惑いと怯えを感じたが、次第に感情が変化してきている。こんなマイクロトフを見るたびに、胸を焼かれるような焦燥を覚えるのだ。
マイクロトフもすぐにカミューの懸念に気づいて目を逸らせたが、それがまたカミューの心に波を立てた。彼は考える間もなく、言葉を吐き出していた。
「それで……その夜、あんたはカミューに告白した────んだよね?」
「あ、ああ。そうだ────」
「抱き締めて、…………キスした」
「……………………」
思い出を蘇らせ、マイクロトフがいっそう顔を背けていく。きつく噛み締められた唇に、ふとカミューは怒りを覚えた。
「────してみてよ」
「え?」
「『カミュー』にしたみたいに。オレを抱き締めて、キスして」
爆発が起きたようにマイクロトフが目を見開いてカミューを凝視した。甘く口付けをねだっているとは思えないほどの、挑発的な鋭い目が光っている。
「…………何を言っているんだ……?」
「教えてよ、あんたがどうやって『カミュー』に告白したのか」
「馬鹿なことを言うんじゃない」
マイクロトフが強く言うと、カミューはいっそう目を据えて続けた。
「どうしてさ、何でも教えてくれるって言ったのは嘘?」
「────そんなことができるか」
「剣に誓ったから? オレの嫌がることはしない、そういう誓いだったよ。オレがいいって言ってるんだから、破ったことにはならないよ」
「そういう問題ではない!」
マイクロトフは初めて声を荒げた。
「おまえは何も覚えていなくて……しかも子供なのだぞ」
「子供じゃない!」
カミューも怒鳴り返した。
「オレの身体は『カミュー』だ! なのにどうしてできないのさ? 覚えてないから? 違う、あんたがオレを『カミュー』だと認めてないからだろう? 何時のカミューでも好きだなんて、綺麗事だ! でなけりゃ……」
「……ならばおまえはどうなんだ!」
相手が子供だということをすっかり忘れて、マイクロトフは同レベルで怒鳴りつける。
「おまえはおれを────『カミュー』と同じように想っているとでもいうのか? おまえこそ、一時の気紛れでおれを試すような真似をするな!」
どんと床を叩き付けた拳にグラスが傾き、敷物に小さな染みを作った。マイクロトフはそれを見遣り、無意識に呟いた。
「しまった、カミューを怒らせる────」
ふと相手の心から弾かれたことを感じ、カミューは狼狽した。ワイングラスを退けて、首に掛けていた湯上がりのタオルで染みを拭っている男の腕を掴み、その胸に飛び込んだ。
虚を突かれてマイクロトフは息を呑んだ。腕の中のほっそりした肢体、眼前にあるしなやかな背中────箍が外れた。
彼は逞しい腕を相手の身体に回すと、渾身の力を込めて抱き締めた。
そのまま勢いをつけてカミューを敷物に押し倒すと、全身で乗り上がる。乱暴に顎を掴まれて、顔を上向けられるカミューの目に微かな恐怖が走るのにも気づかず、マイクロトフはその唇を奪った。
合わせたと同時に激しい侵略が始まる。久々の恋人の唇は、変わらず甘くマイクロトフを刺激した。差し入れた舌で逃れようとする舌を捕え、絡め取るなり強く吸い上げる。
「あ……っ────」
吐息混じりに零れる声に煽られ、押さえつけたカミューの身体を弄った。存在を確かめるように幾度も身体を行き来する掌に、カミューは恐怖と陶酔を与えられた。
「カミュー……」
だが、苦しげに男から洩れた呟きに、不意にカミューは冷水を浴びせられたように強張った。
「カミュー……カミュー」
先程までの本能的な抵抗ではなく、全身で男を押し退けようとしたカミューは、相手がまったく揺るがないのに愕然とした。男の掌は微妙なところにまで侵入している。かろうじて核心に触れていないが、時間の問題のように思われた。意識は逆らおうとしているのに、身体が燃え上がっていくことに戦いて、カミューは必死で叫んでいた。
「マイクロトフさん……────!」
はっと男が息を呑んだ。すぐに重みが退き、男は両腕の分だけ身体を起こした。
真っ赤になって息を切らせているマイクロトフは、やや呆然とした表情でカミューを見下ろしていたが、やがて自嘲気味に笑った。
「……わかっただろう。おれが『カミュー』に望んでいるのがどういうことか」
そのまま半身を起こして横に座り込み、倒れたままのカミューの髪をそっと撫でた。
「すまなかったな。つい……自制がきかなくなった。言っただろう? おれはそういうものが苦手なのだと。わかったら、もうおれを試すようなことは言わないでくれ」
優しく労るように撫でられている頭から、じわじわと広がる疼きを覚えて、カミューは何も答えられなかった。マイクロトフはいっそう苦笑した。
「怖がらなくていい。もう……しないから。誓いは守る、約束する」
静かに言って手を差し伸べると、カミューは最初の時のように躊躇いながらその手を握った。そっと引き起こしてやると、俯いているカミューの気持ちを変えるようにマイクロトフは切り出した。
「そうだ。明日、おれは留守にするからな」
「……え?」
カミューは弾かれたように男を見た。眼差しには主人に見捨てられる小動物のような戸惑いが浮かんでいる。
「休暇も半分消化したし……心配しているだろうから、ランド副長に報告をする。おれが呼び戻されて休暇を取っているのは青騎士団ではほとんど知られていない。あまり噂になると、おまえのことにまで波及しかねないのでな、城から出てきていただくようにした」
「…………」
「レストランの主人に頼んでな、あそこの子供にランド副長宛の手紙を預けたんだ。ついでにその後で、ミゲルとやらの剣を見てやるつもりだ。だから帰りは遅くなるが、おまえは……そうだな、そこらの散策でもしたらいい」
カミューは明らかな不安を浮かべていた。
「大丈夫だ、今のおまえなら。言葉にさえ気をつければ、誰にも分かりはしない」
カミューは再び俯いた。かなり長い時間そうしていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「……マイクロトフさん…………怒ってる?」
その声があまりに弱々しかったので、マイクロトフは思わず眉を寄せる。
「何だって?」
「オレが……あんなこと言ったから────もうオレと一緒にいるの、嫌になった……?」
「馬鹿だな」
マイクロトフは顔をしかめた。
「明日は最初からそういう予定だったんだ。別に おまえから離れたいわけじゃない。第一、どうしておれがおまえを嫌いになったりする? 嫌うなら、おまえの方だろう?」
「え……?」
「偉そうに言っていながら、簡単に挑発に乗って押し倒した。軽蔑するなら、してもいいぞ」
そんなこと、とカミューは口の中で呟く。
「おれがおまえを厭うなど、決して有り得ない。つまらないことを気にしていないで、もう休め。おれは……今夜はソファで寝るから」
最後の言葉にカミューは目を見開いたが、マイクロトフの表情に言葉を飲み込んだ。
男の目は情念に揺れている。その中の激しい葛藤がカミューにも読み取れた。自分がその荒波を呼んでしまったのだと後悔したが、詫びる言葉が見つからなかった。
「うん……それじゃ、……そうする 。おやすみ、マイクロトフさん……」
「朝起きて、おれがいなかったら出掛けたと思ってくれ。パンとスープが残っている。昼には一度戻るから」
「わかった……」
のろのろと立ち上がり、カミューは寝室に向けて歩き出した。その歩調はマイクロトフの目にも優美なものだ。言葉遣いさえなければ、以前のカミューと殆ど変わらないと言ってもいいほどだった。
生い立ちを聞いたからには不思議だが、確かに彼は最初から品の良い動きをしていた。敏捷さに隠されていたので一時は目を眩まされたが、動作が少しゆっくりになるだけでカミューの物腰はひどく優雅になる。
あるいはそれは『カミュー』の肉体の覚えている優雅さなのかもしれない。でなければ、これほど短期間に矯正がきくものだろうか。
マイクロトフの前でのカミューの態度は、相変わらず子供染みた無邪気なものだ。一歩家の外に出ての物静かな様子と比較すると、目眩がするほど差がある。しかし、ふとした拍子に見せる仕種は、マイクロトフの愛した青年そのものだ。表の面と少年の心とのギャップに、マイクロトフも悩まされていた。

 

────まずかった。
久しぶりに触れた恋人の肌に、血が昇った。相手が少年であることを忘れてしまった。
抱き締めた身体は心地良く腕に馴染み、柔らかくもがく動きが恋人の恥じらいを思い出させた。
何とか我に返ったが、カミューがひどく怯えていたのはわかる。それはそうだろう。男に捩じ伏せられることを少年が嫌悪していたことを思えば、その心情は理解できる。
彼の信頼を失わなかったのは幸いだったが、改めてこの事態にどこまで対応できるのか、途方に暮れるマイクロトフだった。
それにしても、どうしてカミューはあんなことを言い出したのだろう?
自分の知らないことを青年カミューが知っていることが気に食わなかったのだろうか。そんなところまで張り合う必要などないのに。
事態にはほとほと困惑していたが、マイクロトフは少年カミューの負けん気の強さが愛しくもあった。

 

 

 

一方のカミューは、もっと深刻だった。
寝室に入ってベッドに飛び込んだ途端、激しい胸の痛みに襲われた。気づいたときには、頬が涙に濡れていた。
怖かったからではない。
────嫌だったからでもない。
自分が信じられなかったのだ。
何故あんなことを口にしたのか、マイクロトフ以上に理解不能なのは彼の方だ。マイクロトフが自分の後ろに一人の青年を見ている、そう認識した途端、言葉が迸っていた。
それは幼いながらに思慮深かったカミューには思いがけない事態だった。考えるよりも先に言葉が出るなど、滅多にあることではない。しかも、それがあんな内容であれば尚更である。
自分が未来の自分を快く思えないのは漠然とした事実だ。勿論、自身なのだから、『嫌い』という感情とは違う。だが、言葉にし難い葛藤が常に付き纏っているのだ。
誰にも崇拝され、慕われる青年騎士団長。
そこまで昇り詰めた自分を褒めてやりたいとも思う。だが、マイクロトフが絡むと素直になれない。どうしても張り合う気持ちが生じる。
彼が『カミュー』を語るたびに見せる表情の一つ一つが少年を苛立たせ、彼が見つめる自身の影に怯えもした。
マイクロトフが一瞬ではあるが本気で憤ったのも、ショックだった。
試すつもりなど、決してなかったのに。むしろ試したかったのは自分の気持ちの方だった。
────奪うような激しい口付け。
合間に囁かれたのは自分と同じ、だが別の男の名前だ。あの刹那、マイクロトフは自分など見ていなかった。彼が抱き締めていたのは十年後の『カミュー』だったのだ。
貪られた唇は焼け付くようだ。なのに、心は冷え切っている。留守にすると言われたときに見捨てられると感じた寂寥が、まだ続いている 。

────唐突に彼は気づいた。
未来において思考で生きるようになる彼にとって、自分の感情を分析するのは容易かったのだ────ただ、認めたくなかっただけで。

こんな馬鹿な。

彼は枕に顔を埋めて啜り泣いた。止められない涙が立て続けに溢れ出る。
『カミュー』の感情に引き摺られているだけかもしれない。
他に頼る者のない心細さが作り出した錯覚かもしれない。
始終顔を合わせている相手へ自然と生まれる情かもしれない。
必死に理由を搾り出そうとしたが、無駄だった。涙の分だけ溢れてくる想いは、取ってつけたような理屈の一切を拒絶した。

 

 

────これは、恋だ。

 

 

カミューはまた新たな涙を零し、枕を濡らした。

 

 

← BEFORE                  NEXT →

 


おませさん
……ってそれどころじゃない13赤。
意外と落ちるのは早かったですなー。
やはり赤い糸で結ばれているのでしょう。
個人的には『イキナリ雑巾がけする青』が
愉快だと思います……尻に敷かれていた模様。

次回副題 『青と副長、保護者対談』

 

戻る