「ね、まず何処へ行くの?」
厳粛なロックアックス城を出て、やっと騎士たちの姿が見えなくなると、カミューは嬉しそうにマイクロトフに尋ねた。
重厚な騎士服を脱いで寛いだ服装に変えたためか、解放感が漲っている。あまりはしゃいで誰かに見られたらとマイクロトフは案じたが、それだけの重圧を受けていたカミューを思うと、即座に注意するのも躊躇われた。
「まず、そこらを散策しよう。おまえの好きだった景色がある。それから軽く腹ごしらえして、次が酒場────」
そこで苦笑した。
「…………と、おまえには酒場はまずいか」
「知らないの? グラスランドじゃ、水より酒の方が手に入りやすいんだよ。オレが飲んでたのは安ワインだけどね」
くすくす笑ってカミューはひらりとマイクロトフの右側から左側へと位置を変える。その仕種は微笑ましいが、やはり衆目が気になった。
「カミュー…………、少しだけ落ち着いてくれ」
────いつも自分が諫められている言葉を使う日が来ようとは。マイクロトフは運命の悪戯を痛感する。
「あ、そうだった」
彼は肩を竦めて頷いた。
「今、あんたと飲み比べしても、勝つ自信があるよ。それでも駄目?」
「……ああ、おまえは酒に滅法強い。だが、忘れているようだが、おまえは確か体調を崩していたと聞いたぞ?」
「ああ……そう言えば……ランドさん、そんなこと言ってたね」
神妙に呟いて、『じゃあ諦める』と小さく言う。
「そのうち、連れていってくれる?」
「約束しよう」
言う間に二人は城下を見下ろせる小高い丘に着いた。ベンチが設えてあるが、城に近いせいか街人の姿はない。
「おまえはここからの眺めが好きだった」
マイクロトフが真っ直ぐに指を差す。
「ここに吹く風が好きだと言っていた……────」
ふと横を見ると、カミューはマイクロトフの言葉を聞いていないようだった。零れるばかりに見開かれた瞳。微かに開かれた薄紅の唇。彼は一心にその光景に見入っていた。
眼下に広がる街並は、ロックアックスという荘厳で勇壮な都市をすべて物語る眺めだ。白い石造りの多い家、重厚な色合いの屋根。所々に設けられた緑が美しいアクセントとなっていて、普段見慣れているマイクロトフさえ何とも言えない誇らしさを感じるものだ。
カミューは目を奪われていた。多分、最初にここからの眺めを見たときもこんなふうだったのだろう。
────ただ、これほどあからさまに感動を表わしはしなかっただろうが。
「…………凄い」
彼はぽつりと呟いた。
「……『初めてこの街に着いたとき、足が震えた。勇壮な街並、礼儀正しい人々。こんなところで生きていけるのかと思うほどだった』」
「…………?」
「おまえが言った言葉だ。ロックアックスに着いたときの心境を……そう話してくれた」
カミューは瞬いた。
「……一言一句、覚えてるの?」
「そりゃあな」
マイクロトフは微笑んだ。
「おまえが初めて自分のことを話してくれた記念すべき日だったからな。孤児だったことも、マチルダに来ようとした決意も、すべてその時聞いたんだ。おまえはあまり自分の話をしようとしなかった。おれが聞かなかったからかもしれないが…………いつもおれの話を笑って聞いているばかりだった」
「……そう……」
カミューはまた景色に目を戻した。どこか思慮深い青年の面差しが蘇り、マイクロトフは息を呑む。
「……オレ、この街が好きだよ」
やがて彼は言った。
「とても綺麗だ…………オレの故郷は見渡す限りの荒れた草っ原で、優雅さや礼儀なんか何の役にも立たないところだった。オレ、生まれ変わりたかったんだ……」
「────そうか」
「あんなふうに一生懸命オレのこと考えてくれる人たちができるなんて思わなかったし」
「……ああ」
「…………親友ができるとも、思わなかった」
「カミュー……────」
カミューはやや俯き加減で目許をぐいと腕で拭った。どうやら少年期のカミューは、思った以上に感情に素直な気質であるようだ。
自分と出会うまでの二年の間に、いったいどんな生活を送り、あんな自制の塊になったのだろうと想像したが、マイクロトフの貧困な想像力では限界があった。ただ、楽な生活ではなかったことだけは確かだ。マイクロトフはすぐにでも青年カミューを抱き締めて、その労苦を労ってやりたい衝動に駆られた。
「……連れてきてくれてありがとう。嬉しかったよ」
「それは良かった。この街で頑張る気になれただろう?」
「勿論さ!」
少し濡れたまつげが傾きかけた陽に照らされて明るく輝く。金がかった髪が炎のように揺れていた。その眩しさに目を細め、マイクロトフも幸福な気分を堪能した。
「ね、何処に泊まるの? どの辺り?」
「いや、城の近くにおれたちの家がある」
「オレたちの……?」
カミューはふと不思議そうな顔をした。
「オレの家って、城のあの部屋じゃないの? マイクロトフさんと一緒に住んでるの? へえ、そんなに仲が良かったんだ
」
マイクロトフにはカミューの感嘆の言葉が一つとして聞こえていなかった。それどころか、頭をガツンと殴られたようだった。猪突猛進な自分の軽率を悔やむと共に、途方に暮れてしまった。
────すっかり忘れていたのだ。
確かに親しい友人が同居するのは珍しくもない。妙齢の男二人でも、城周辺の家が高価なのだと言えば何とか疑問を打ち消すことができただろう。
しかし、あの家を見たら例え年端の行かない少年であっても、首を傾げるだろう────何しろ寝室が一つしかないのだから。
まして賢しいカミューだ。態度は幼げなものが残っているが、物事を見る眼差し、咄嗟の判断は紛れもなく団長となるだけの資質を持った少年である。一目ですべてを理解してしまうだろう。
グラスランドで、そうした嗜好を持つ者に出会ってもいる。
昼間の話でカミューが見せた反応は明らかな嫌悪だったし、マイクロトフに対する好意も一変しかねない。
最悪なことに、彼は当事者であるのだ。現在、男に触れられることを猛烈に嫌がっている少年に、十年後の自分がマイクロトフを受け入れているなど、信じられるはずがない。
「……どうしたの?」
案じるように覗き込む視線は信頼に溢れている。この瞳を失うのかと思うと自分を殴りたい気分になる。
────最初から、どこぞの宿屋に二週間泊まり込むことにしていれば。それを気づかなかった自分の浅はかさに歯噛みする。
だいたいこういうことは苦手なのだ。これはカミューの領分だ。
ぐるぐる回る思考と悔恨。しかし、答えなければならない。
────だが、何と…………?
「カミュー…………どこか宿屋に泊まろう」
「何で? オレ、自分の家を見たいよ」
「だ、だが────」
カミューはマイクロトフの狼狽を別の意味に感じ取ったようだった。
「大丈夫だよ。オレ、これでも結構綺麗好きなんだ。『カミュー』と同じように暮らすようにするよ。散らかしたりしないし」
「い、いや、そうではなく……」
「あ……、もしかして食事とか、オレが作ったりしてた? そういうのもできると思うよ。グラスランドじゃ全部自分でやってたから。好みとかは違うかもしれないけど……」
「あのな、カミュー……────」
あくまでも最悪の事態を回避したいと焦るマイクロトフだったが、カミューはますます困惑を深め、やがて哀しげな顔になった。
「…………やっぱり、嫌なんだ。オレが、あんたの知ってる『カミュー』じゃないから……部屋に入れたくないんだね?」
「そ、そうではない! 何を言っているんだ!」
仰天して、しょんぼりしてしまったカミューの両腕を掴んだ。
どんなことがあっても、彼を悲しませたくない。だが、真実を知ればやはり衝撃を受けるだろう。ジレンマでマイクロトフは噴火しそうだった。
────正直に話してみたらどうだろう。
どんなときでも一緒にいようと誓い合ったのだと。互いの背を守って生きると決めたのだと。
幾つであろうと、カミューはカミューだ。魂の半身であって欲しいと心から思う。
ならば隠しておくのは誠実ではないのではないか。すべてを正直に打ち明けて、たとえ一度は嫌悪を覚えても、未来において寄り添い合うことを選んだ魂が応えてくれるのを待つべきでは────?
「…………わかった、おまえの言う通りにする」
マイクロトフは静かに言った。苦渋の滲む顔に、まだカミューは哀しげなままだ。
「誤解しないでくれ。おれが気にしたのは……もっと別のことなんだ」
「────別の?」
「……後でゆっくり説明する。ただ、これだけは信じろ。おれにとって、おまえも十年後のカミューも、どちらも同じカミューだ。大切な人間だよ。どちらが勝るとか劣るとかいうことは決してない。わかるな?」
ならばいったい、何がマイクロトフを悩ませているのだろうとカミューは怪訝な顔のまましばらく考えていたが、やがて彼の真摯な表情に負けたように、こくりと頷いた。
「……別のことって、何?」
「────それは後で話す。長い話になるから」
覚悟を決めるとマイクロトフの意志は揺らがない。それでも往来で立ち話できる問題ではない。彼はカミューを導くように歩き出した。
────今夜が自分にとって実に苦しい一夜となることを予想しながら。
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