翌朝、騎士隊長らが集められ、カミューが体調を壊していると報告された。
彼らは今更のようにゴルドーとワイズメルに扱き使われた団長に胸を痛めたが、誰もがその背後にある異常事態を想像することは出来なかった。
それから三日、通常の報告や連絡事項はすべてランド同席のもとに行なわれ、カミューはよくわからないままに頷いてはランドの目配せに従ったのだった。
カミューがラウルに迎えに来られて執務室を出ていくと、残ったのはローウェルとアレンである。彼らはランドに目を向けた。
「……進み具合は如何です?」
「────『心得』を暗記なさった」
ランドが溜め息混じりに答える。
「今、『務め』の三分の一ほど覚えられた」
「何と……────」
アレンが驚嘆して首を振る。
「信じられませんな…………これは……」
「まったくだ。医師殿が言っていたように、飲み込みがお早いだろうとは思っていたが、これほどとは思わなかった。まさに砂が水を吸っているようだ」
だが、ランドの顔色は冴えない。
「如何なさったのです。何か問題でも?」
ローウェルが問うと、彼は難しい顔になる。
「確かに勉学は進んでいる────だが、精神的な疲労が気になる」
「そうですな。始終気を張っておられるのですから……」
「こうなると、ラウルを傍につけたのは正解だったかもしれませんな」
「いや、それがそうでもないのだ」
ランドが深い息を吐いた。
「間者のような真似をさせてあの子には可哀想だが……ご様子を報告させている。カミュー様はラウルと二人きりのときでさえ、気を張り詰めておられるようだ」
「そうなのですか?」
「愚痴一つ零されないらしい。考えてもみろ、我らは十三の少年に余るような要求をしている。我らのいないところでは少しくらい息抜きをしていただきたくて、ラウルをつけた。恐らく、ラウルが我らに報告するのを見通しておられるのだろうな」
「────我らを警戒して?」
「いや、そうではない。多分……」
ランドは頭を抱えた。
「あの方は普段あまり我らに心情を晒すことがなかった。だから気づかなかったが────元々は相当に勝ち気な性格なのだろう。弱いところを見せまいとなさっておられる」
「しかし、それでは潰れてしまわれましょう。確かに我らが補佐しているとは言え、あの方の背負っておられるものは大きい。十三で、これほど環境が一変して不安でおられぬはずはない
」
「────間違っただろうか」
ランドは苦しげに呟いた。
「やはり、無理なことだったか……」
「なりません、我らが揺らいでは! カミュー様は必死に応えようとなさっておいでです。ならば我らも信じなければ」
ローウェルが叫ぶ。
「もう少し……もう少し素直になられてくださると良いのだが。例えばあのミゲルのように、時には癇癪の一つも起こしてくだされば安心できるのだが……」
「カミュー団長の癇癪……、ですか。この機会に一度くらい見ておきたいものですな」
アレンが場を和らげるように言うと、やっとランドにも笑みが洩れた。
「────そうだな。わたしも見てみたい」
「ランド様、そうした事情ならば、あるいはカミュー様をお一人にして差し上げることも必要なのではありませんか? 気性というものは今も昔もそうそう変わるものとは思えませんし……」
ローウェルの指摘にランドははたと頭を殴られたような顔になった。
「そうか────そうだ、その通りだ。マチルダに来られた頃のカミュー様の傍には、身の回りのお世話をするような者はいなかったのだった……。そうだな、ローウェル────まったく、わたしもどうかしていた……」
日頃は如何なることにも冷静に対処できる副長自らが、あれこれ空回りしていることに、二人の隊長は思いがけない彼の人間臭さを認めて微笑んだ。
ランドは室外で立ち番をしている騎士を呼び、ラウルを出頭させるよう命じた。程なく現れた少年は、ランドの説明にもっともだと言うように頷いた。
「決しておまえが至らないということではない。しかし……」
「わかります」
ラウルは言い難そうなランドに首を振った。
「実はぼく、昨日あたりからそう思っていたんです。カミュー様はぼくにまで気を遣っておられるし、これじゃ休めないんじゃないかなって」
「そうか……」
「前みたいに、お茶とか、お風呂の支度とか、着替えの用意とか、そのくらいにしておきます。その方が、きっといいと思います」
「そうだな。すまない、ラウル。頼む」
「いいえ!」
少年は普通なら滅多にこんなふうに長々話のできない相手と対等に語れることが誇らしかったようだ。
では、と丁寧に礼をして去った少年に、アレンが微笑んだ。
「────さすがにカミュー団長が見込まれただけのことはありますな」
「あれはいい騎士になる」
ローウェルも応じた。
「年頃も近いから、いい話し相手になるかとも思ったのだがなあ……」
ランドが呟くと、アレンが首を振った。
「カミュー様の精神的な成熟度は相当なものです。あの────何と言うか、子供染みた口振りなどに誤魔化されますが、思慮深いのは確かだと感じました」
「そうだな。確かにこんな状況に陥っても冷静だ。少なくとも、表面上は」
「前向きな姿勢ですし」
「しかし────おじさん、というのは勘弁していただきたいなあ」
ローウェルがぼやく。
「わたしなど、相変わらず『さん』付けだ」
一同が苦笑した。おずおずと、アレンが口を開いた。
「こう────こう申しては不謹慎ですし、非常に不遜でありますが……何やらお可愛らしいような気がして……」
「実はわたしも…………」
「わたしもだ。あのお顔であの口調だ。不似合いで、危なっかしくて、目が離せん」
三人は久しぶりに明るい笑顔になった。
「────あの方だけが我らの団長だ。とにかく、全力で支えるしかない」
思い直したようなランドの力強い言葉に、二人は強く頷いた。そのとき、外に声が響いた。
「いいからさっさと通してくれ!」
聞き慣れた声だった。ランドははっと立ち上がった。
急いで部屋を横切って扉を開けると、立ち番の騎士を押し退けてまさに飛び込もうとしていたマイクロトフと鉢合わせた。
「ランド副長!」
「おお、待っていたのだ、マイクロトフ殿」
「カミューが、カミューが────」
しっと唇に指を当てたランドはマイクロトフ一人を部屋に引き込んだ。マイクロトフは同席していた二人の騎士隊長に注意を払う余裕もないほど切迫した顔で詰め寄った。
「どういうことです! トゥーリバーに伝令の赤騎士が来たが……カミューが怪我をしたというのは本当ですか?!」
「落ち着いてくれ、マイクロトフ殿」
ローウェルが同じ第一隊長として声を掛けた。が、無論マイクロトフがおさまる訳がない。
「記憶が混乱しているとは、どういうことです! ああ、とにかく早く会わせてください、あいつは部屋ですか?」
「待ってくれ、マイクロトフ殿」
今にも飛び出しそうなマイクロトフを必死に引き止め、ランドは訴えた。
「事はそう単純ではないんだ。君がカミュー様に会う前に、説明しておく必要がある」
「だから、何なんです!」
悲鳴のようにマイクロトフが怒鳴る。無骨だが、礼儀には確たるものがある男の日頃を知っているからこそ、一同にはマイクロトフの心痛が理解できた。
「────どうか、最後まで冷静に聞いてほしい」
そうしてランドは一連の事件を説明し始めたのである。
カミューは疲れ果てていた。
ラウルが呼ばれてようやく一人になった彼は、慣れない肩当てをむしり取るようにしてベッドに飛び込んだ。
横になるなり、溢れてくるような心細さと戦う。
彼は彼なりに納得しようとしていた。
小さい頃から分別とか自制というものは持っていたし、あがいてもどうにもならないこともあるということも知っていた。
────今の自分がまさにそれだ。
ある日突然世界が変わる。交易商人たちから使用人のように扱われていた自分に、立派な騎士たちが傅く。
気分がいいかと思えば、逆だった。彼らが跪いているのは十年後の自分なのだから。
丁寧に丁寧に扱われるたび、いたたまれない気分になった。早く元に戻ってくれという無言の願いを視線に感じ、焦燥に苛まれた。
今の自分は必要ではないと言われているような気もしたし、親切にしてくれる人の信頼を裏切れないという切羽詰った思いも掻き立てられる。
学問は苦にならない。
マチルダではこういう生活が待っていたのだと思えば耐えられた。だが、言葉遣いや態度に細心の注意を払わねばならない毎日は想像以上に厳しかった。
ラウルという少年を置いてくれたのはランドたちの配慮なのだとわかる。だが、同じくらいの年頃の少年から向けられる崇拝の眼差しは、やはりカミューを安らがせてはくれなかった。砕けた話などできようはずもなく、取り繕ったような会話が交わされるだけだ。むしろ常に隣にいる少年に、片時も気を抜けないという悪循環さえもたらした。
なまじ負けん気が強いだけに誰にも愚痴一つ零せず、一人で気を張って過ごす。期待に応えねばと必死になればなるほど心は疲弊に喘いだ。
ふと、遠い西の大地を思い出す。
あの地にいた頃、騎士になるのが夢だった。死んでも戻らないつもりで旅支度をした。
ならば、騎士団長にまでなった自分を喜ばねばならない。彼がその地位を失わないよう、必死に画策してくれるランドたちを有り難く思わねばならない────。
カミューは溢れそうになる涙を必死にこらえた。
浴室の鏡に映った十年後の顔は、確かに昔の面影を残していた。
昔から優しげな、少女のような顔だと言われてきた。自分を見返してきた顔は、さすがに女の子には見えなかったが、やはりどこか柔和だった。
細かった身体は年を重ねただけの肉付きはあったが、それでも部下である男たちとは比べものにならないくらいほっそりしている。
見慣れない自分────けれど、見知っている自分。
混乱して鏡を割りそうになったことも数知れない。
部下たちが語った自分がまったく別人のようで、身体の変化さえなかったら担がれているのだと信じただろう。
────優雅で上品。
確かに別天地へ行ったら生まれ変わろうと思っていたが、十年の歳月の流れを一度に受け止めるには、例え聡明な彼にあっても容易なことではない。
やめたい、と言うのは簡単だろう。
だが、負けたくない。あの人たちの期待に背きたくない。
────逃げるのはもっと嫌だった。
逃げても自分には何もない。ここで放り出されても、どうすることもできないのだから。
「……っ────」
こらえていた涙が溢れると、堰を切ったように止まらなくなった。何時ラウルが戻ってくるかわからない。だが、もう限界が近かった。耐え続けていた精神は摩擦で擦り切れそうだった。
────……一度だけ。
一度だけ泣いたらまた頑張ろう。
そう自分に言い聞かせ、カミューは枕に顔を埋めて啜り泣いた。
そのとき、ノックもなく扉が開かれる音がした。ぎくりとする間もなく、太い足音が近づいてくる。
「カミュー…………」
初めて聞く声に、カミューは急いで涙を拭って僅かに顔を上げた。
見慣れない青い騎士服を着た大きな男が見下ろしていた。カミューの胸に警鐘が鳴り響く。
他の団の人間に知られてはならない────幾度もランドが言った言葉だ。
この服は青騎士、自分がおかしくなってしまっていることを気づかれてはならない相手────
「何も心配するな」
男は優しく囁いた。
精悍な顔立ち、真っ直ぐな瞳。
彼は起き上がってベッドの上で身を退こうとしたカミューの肩に手を乗せた。
────温かく大きな掌。微かに身体が震えた。
「もう大丈夫だ。おれがついている、おれがおまえを守る────」
男は低く言うと、カミューを抱き寄せた。
突然抱き締められた驚きよりも、その胸の逞しさ、泣きたくなるほどの安堵に動揺してカミューは身じろいだ。
「あ………… だ、誰……────?」
「────マイクロトフだ」
親友だと教えられた男。カミューが理解するよりも早く、マイクロトフは続けた。
「────……おまえの魂の半身、だよ」
「え…………?」
戸惑うカミューを一度離して、肩に手を乗せたままマイクロトフは微笑んだ。
「心細かっただろう……これからはおれが傍にいる。泣いていいぞ、カミュー」
そうして再びしっかりと抱き締める。
カミューは混乱していた。だが、ふと胸に過ったのは肯定だった。
────いいのだ。
この男の前でなら、泣いても構わないのだ。
「うっ……──── 」
「カミュー…………」
啜り泣きが、やがて声をあげての号泣になった。止められない涙が立て続けに流れ落ち、マイクロトフの胸に染みを作っていく。
マイクロトフはあやすようにぽんぽんと背中を叩く。すると、嗚咽の合間に掠れた呟きが聞こえた。
「こ……、子供じゃ…………ない…………っ」
以前にも聞いたことのある言葉に、マイクロトフは目を細めた。
「ああ────わかっている」
幾つであろうと、これはカミューだ。
彼の知る、誰よりも愛しい、ただ一人と決めた相手。
無防備に泣く姿は見慣れなかったが、マイクロトフには切ないばかりの思いを掻き立てる薄い背中だった。
「おれがいる。大丈夫だ、カミュー…………もう何も心配しなくていい」
ひっきりなしに流れる涙に濡れたまま、カミューはいつまでも泣きじゃくった。
外で番をしていたランドらは、聞こえてきた泣き声に一瞬ぎくりとした。だが続いて顔を見合わせ、ほっと微笑み合った。
「……さすがにマイクロトフ殿だ」
「泣けば気持ちも多少楽になる。しかし、良かった。このご様子では、かなり切羽詰っておられたらしい」
「あ……あのカミュー団長が声を上げて泣いたりなさるなど…………いや、貴重な体験の連続です」
「そうだな……」
彼らは人が近づかぬように扉を守っていたのだ。
そのお陰でカミューの号泣は他に洩れることはなかったが、逆に三人は世にも珍しい団長の泣き声というものを聞いてしまった。また秘密が増えたことになる。
次第に泣き声は小さくなり、啜り上げるような息遣いとなり、やがて途切れた。彼らはしばらく迷っていたが、頷き合ってそこから立ち去っていった。
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