赤騎士団長の自室の前で、副長、第一・第二・第十部隊長が顔を付き合わせて真剣に話し合っている。
「────丸一日以上です。これは普通ではないのではありませんか?」
「だが、医師も無理に起こさない方が、と言っていたし……」
「……打ち所が悪かったのだろうか────」
「え、縁起でもないことを言わないでください、ランド様」
「しかし、このままでは…………食事も取られていないわけですし」
「寝不足を取り戻しておられるのでは?」
「……そういう呑気な問題か?」
彼らの心痛はカミューが目を覚まさないことだ。
ほとんど無傷といえた赤騎士団長は、二日近くも眠り続けている。昨日の夕方あたりからおかしいと思い始めた副長ランドは、すぐに医師に相談したのだが、医師は診察を終えるなり首を振ったのだ。
「だからといって、叩き起こすというわけにもいかん。こうして待つ以外ない」
最後に事情を知ったアレンが控え目に言う。
「そろそろ他の部隊長も怪訝に思っています。カミュー団長が部隊訓練にお姿を見せないことは、これまでありませんでしたし……」
「口止めはしてあるのだな?」
「はい、それは勿論です。今回のことを知っているのは我々と洛帝山へ向かった第一部隊の騎士たち、一部の第二部隊騎士、あとは見習いだけで」
「……ワイズメル市長の接待任務が厳しかったのは皆知っているから、この際休暇を取られたことにしてしまったらどうだろう」
「それでも、そうした時には騎士隊長が集められるのが恒例です。カミュー団長からの指示がなければ、やはり怪訝に思うでしょう」
「────困ったな…………」
ランドは扉を睨み付けた。
そこへはさっき、従者のラウル少年が氷枕を取り替えに入っていったばかりだ。あのコブがまずかったのだろうかと彼が考えたとき、ぶつかりそうな勢いで扉が開いた。
「あ、す、すみません!」
少年が仰天してランドに詫びる。彼は苦笑して首を振った。
「どうした、何を慌てている」
「カミュー様が目を覚ましそうなんです!!」
「なに?!」
今度は彼らがラウルを突き飛ばしかねない勢いで部屋に飛び込んだ。転げるようにベッドに走り寄ると、果たしてカミューの表情が変化していた。
きゅっと目がきつく閉じられ、眠そうに顔が歪んでいる。やがてふうと小さな吐息が洩れ、花開くように目蓋が上がった。
一同は息を殺して見守っていたが、カミューが何度か瞬くのを慎重に待った。それからランドが静かに呼び掛けた。
「────カミュー様」
カミューは呼ばれたことに気づいて、ゆっくり顔を傾けた。騎士たちは懐かしい瞳に射貫かれ、震えた。
「お分かりになられますか? カミュー様」
「────……………………あれ?」
カミューはまたも瞬いて、一気に起き上がろうとした。ランドが慌ててそれを止める。
「なりません、ゆっくり起き上がってください。無理をするとお身体に障ります」
言われてカミューは今度はのろのろと身体を起こした。ローウェルが横から手を伸ばし、枕が背もたれになるように位置を変えた。
ランドに支えられるようにして枕にもたれたカミューは、まだぼんやりしている。不安そうに見守る騎士らは、無言で彼の意識がはっきりするのを待ち続けた。
「────痛い」
ぽつりとカミューが呟いた。ランドが驚いて顔を覗き込む。
「どこが痛みますか? ああ、ラウル────医師を呼んでくれ。それからおまえはそのまま少し休め」
「は────はい!」
少年が飛び出していった。その合い間にもランドが囁き続ける。
「覚えておられますか? モンスターの下敷きになられたのです。お怪我はないようでしたが、カミュー様は二日も眠っておられました」
「…………二日────」
カミューはぼんやり繰り返して、それからはっとしたように目を見開いた。
「……二日だって?!」
珍しい団長の叫び声にローウェルとアレンが顔を見合わせた。ランドが宥めるように頷く。
「はい。しかしご案じなさいませんよう。すべて内々に運んでおります」
「冗談じゃないよ!」
カミューは叫ぶなり上掛けを跳ね飛ばした。
「頼み込んでやっと承知してもらったってのに……置いてかれちゃうじゃないか!」
「────…………は?」
騎士隊長らは敬愛する団長の口から飛んだ悲鳴のような声にますます眉を寄せる。何やら恐ろしい違和感があった。
「カミュー…………様?」
恐々と声を掛けたランドに、やっとカミューの視線が真っ直ぐに向けられた。その目はいつも何を考えているのかよく分からない深遠を浮かべた眼差しとは異なり、あからさまな警戒を発している。
「────…………あんた、誰?」
ランドは思わず息を止めた。
「あ、あんた……────?」
背後のアレンがまん丸く目を見開いたまま復唱する。
カミューはようやく頭がはっきりしたらしく、鋭い目つきであたりを見回した。
「ここ、どこだよ? オレ、何でこんなとこにいるのさ!」
「オ、オレ?」
今度はローウェルが繰り返した。
「カミュー様?
いったい……────」
ランドが呆然としたまま呼び掛けたが、今度はカミューが聞いていなかった。彼は自分の喉元に手を当て、目を見開いている。
「オレ、声……、変………………」
混乱しきった騎士隊長らはベッドの横へ来ると、大声で叫んだ。
「どうなされたのです、カミュー様!」
「声? 声が如何なさいました!」
カミューは大男たちに覗き込まれ、即座に身体を引いた。どこか幼げな態度にランドが眉を寄せた。
「…………な、何でオレの声────こんなに低いの?」
戸惑うように搾り出したカミューの問いに、いよいよ彼らは愕然とする。
「い、いったいどうされたんだ?」
「カミュー団長がおかしくなられてしまったぞ」
「ふ────不遜だろう!」
「し、しかし」
言い争う騎士隊長らをよそに、ランドが優しく諭した。
「カミュー様……、ここはロックアックス城です。その…………マチルダ騎士団の居城です」
「マチルダ? オレ、マチルダに来たの?」
カミューは一番穏やかな顔立ちをしているランドにやや警戒を解いた表情で返す。
「変だな…………だって、あの交易商のオヤジがマチルダに立つのは明日だって────」
「カミュー様」
嫌な予感に苛まれながらも、これだけは聞かねばとランドは自らを奮い立たせた。
「────今、お幾つでいらっしゃいますか?」
何を聞くのだろうとローウェルとアレンが呆気に取られて彼を見る。だが、もたらされた返答は彼らをもっと仰天させた。
「…………先週、十三になったけど……────」
そこへ医師がやってきた。
彼はベッドに起き上がっているカミューに顔を綻ばせたが、次にほとんど泣きそうになっている三人の屈強の騎士たちに眉を顰た。
医師が診察を続ける間、三人の騎士隊長は部屋の外に出された。ただ一人残ったランドが今頃は医師に事情を説明しているはずだ。
「記憶をなくすというのは聞いたことがあるが…………」
「お、驚いた。これまで生きていて一番驚いた。記憶が後退してしまったということか」
「やはり頭を打たれたのが────」
「カミュー様がマチルダ出身でないとは知っていたが……あれは…………」
「そ、そうですな。何と言うか……」
アレンがほっと頬を染めた。
「こ、こう言っては何だが────別人のようだ…………」
唯一その異変を目撃できなかったラウルも、日頃ものに動じない男たちの動揺ぶりに雰囲気だけは察した。休めと命じられた少年がここにいることさえ、彼らは忘れているようだ。
カミューの優雅な物腰、丁寧な口調は騎士の誰もが憧れるものだ。
その唇からきつい言葉が吐かれた記憶はほとんどない。部下を叱責するときさえ、品格ある言葉遣いで行なわれたものだ。
だから先程カミューの口から洩れた言葉は騎士たちに衝撃だった。落差が激しいだけに、夢であったかのようだ。動きの一つをとってみても、しなやかではあるが、どこか野性の小動物のような印象がある。
「────何だか頭が痛くなってきた」
「自分もです」
「これはますます弱りましたなあ…………」
三人が許容を超えた事態に溜め息を吐いたとき、医師が顔を出した。
「お入りください。ただし、幾つか気をつけていただきたい点がございます」
彼は真剣な顔で男たちを見つめた。
「みなさま、色々ございましょうが……一番混乱しておられるのは団長殿です。くれぐれもお忘れにならぬよう。つまらぬことで責めたりなさいませんように」
「────心得ています」
ローウェルが頷いた。医師は彼らを促すように身を避けた。
一同が部屋に入ると、ランドがベッドに椅子を寄せてカミューと向き合っていた。彼はベッドの端に座り込み、やや俯いている。
医師が一同を見回した。
「お気づきかとは存じますが、カミュー団長は現在十三歳まで記憶が逆行しておいでです。簡単に言えば、ここにおられるのはまだ騎士団にも入っていない、一人の少年ということになる」
三人の騎士隊長は覚悟していたこととは言え、やはり殴られたような衝撃を覚えた。無論、ラウル少年も同様である。
「おそらく頭を打ったことが原因とは思われますが、記憶の喪失と同じように、これは治療法がないのです」
「で、でも……治るのですな?」
エドがおろおろと質問すると、医師は難しい顔になった。
「過去の記録からみると、多くの場合は治るようです。しかし何時とは申し上げられないし、確実とも言えない」
「……一生治らないことも有り得ると?」
「アレン殿! そ、そんな縁起でもない────」
エドが目を剥いたが、医師は頷いた。
「……残念ながら、その恐れもありましょう」
「そ、そんな!」
「医師としてわたしの言えることは、まず、この環境に慣れさせて差し上げること。習慣とか、見慣れた風景とか────そうしたものがカミュー団長の記憶の覚醒を呼び覚ますことを祈るしかありません」
「…………何ということだ」
ローウェルは呻いた。
「しかし、カミュー団長には現在の記憶がまったくないということですな? 如何にして習慣を守れと仰せか」
アレンが息巻いて言うと、医師は気の毒そうに首を振った。
「……教えて差し上げる他、ないでしょうな。ただ、考えてもごらんなさい。団長殿はこの若さで地位を極められた御方。それだけ頭も良く、飲み込みも早いということ。教えられたことを実践することは不可能ではない」
「それはそうだが────」
彼らは項垂れているカミューを見た。そうしていると、彼は細身なだけに憐憫を誘う。
────誰よりも混乱し、途方に暮れているのは誰か。
そんなことは言われなくてもわかる。だが彼らにも実際どうしていいのか、見当もつかない。
医師は静かに締めた。
「もし、頭痛がするとか、吐き気がするというときには呼んでください。わたしにできるのはここまでです」
そう言って彼が出ていってしまうと、三人の騎士隊長らは取り残されたような心細さに襲われた。彼らはそろそろとベッドに近づいた。ランドの沈痛な面持ちが、一同の心を代表していた。
「…………今のカミュー様に騎士団を率いろというのは酷だ」
「そうですな……。何しろ、心得も務めもご存じないということになる────」
「このまま記憶が戻られなかったら、いったいどうなるのだ」
呟いたエドに、三人の厳しい目が突き刺さる。冗談でもそんなことを口にするなと言いたげな視線だ。
「し、しかし、そうではありませんか? 今でさえ、すでに我らは窮地に追い込まれている。この上、カミュー様がこのままなら……」
「では、カミュー様に退位しろと言うのか」
「そ、そんな馬鹿な!」
エドは大急ぎで首を振った。
「一時的に病気扱いということで、ランド副長が指揮をお執りになることを考えるべきではないでしょうか」
慎重にアレンが提案した。もっともな意見であったが、ランドは静かに呟いた。
「……確かに困った事態であることは事実だ。しかし、ここでわたしは告白しておこう。カミュー様が団長となられ、忠誠の儀式を行なったとき、わたしは一つの誓いを立てた」
彼は居並ぶ三人の騎士隊長に顔を向けた。
「────わたしが剣を捧げるのはこのカミュー様、ただお一人。如何なる理由にあろうとも、カミュー様が団長の座を降りられるとき、わたしもそれに殉ずると」
「ランド様…………」
「ましてこうしてカミュー様を眼前に、わたしが赤騎士団を預かることなどできようか」
そう言って彼はカミューに目を落とす。
ふと、カミューが顔をあげた。やや心細そうな顔でランドを見つめ、その目が次々に男たちに移った。
「…………おじさんたち、オレの部下なの?」
「お、おじさん────」
初めて彼の口調に触れたラウルが部屋の隅で身を捩る。ランドが微笑んで強く頷いた。
「そうです。わたしは赤騎士団副長ランド。右から第一隊長ローウェル、第二隊長アレン、そして第十隊長エド。いずれもカミュー様に忠誠をお誓い申し上げた騎士です。それからあそこにいるのが従者のラウル、カミュー様の身の回りのお世話をしておりました」
「……オレ、良く分からないんだけどさ────」
呟いて小首を傾げる仕種は青年の顔立ちとはミスマッチで、騎士隊長らは居心地の悪さを覚えた。
「どのようなことでもお聞きください」
「……つまり……、今のオレは二十四歳で、赤騎士団の団長なんだよね」
「そうです」
「────おじさんたち、どう見ても年上に見えるんだけど」
これには思わず一同が苦笑した。代表するようにローウェルが口を開く。
「我がマチルダ騎士団では、実力が地位を決めるのです。カミュー様は我らの誰よりもお強く、礼節に厚く、認められた騎士であるということです」
カミューは不思議そうに瞬いた。その様子がまた小さな少年のようで、一同が息を詰める。
彼はしばらく考え込んだ。確かに仕種は幼げだが、その表情は聡明で思慮深かった二十四歳の騎士団長の面影がある。
「オレ、さ……」
「はい」
「マチルダに行くつもりだったんだ。マチルダ出身の交易商人のオヤジに頼んで、連れてってもらう約束して」
「ええ」
「でも────目が覚めたらここはマチルダで、騎士団長なんかになってた」
「────お察しします」
そこでカミューはふうと溜め息をついた。
「まあ…………考えても仕方ないよね。フライなんとかに潰されて、受け身を取り損なったのはオレのヘマなんだろうし」
「い、いえ、そんなことはありません」
ローウェルがまだ少年の気配に慣れず、珍しく口籠りながら否定した。
「あのフライリザードを相手にお一人で戦われたのです。我らならば命を落としていたかもしれません」
「うん…………」
カミューは薄く微笑んだ。そうすると常の団長の横顔そのものに見える。騎士らは混乱していたが、何とか事実を受け止めようと痛々しい努力をした。
「それで、これからどうしたらいいの?」
カミューはランドに尋ねた。
「オレが言うのも何だけどさ、さっきアレンっておじさんが言ったように、あんたが代わりしてくれた方がいいような気がするけど」
おじさん呼ばわりされた衝撃よりも、名前を呼んでもらったことが嬉しく、アレンはぱっと顔を輝かせた。
「申し上げました。わたしはあなたの下でつとめを果たすこと以外、考えてはおりません」
頑固にランドが繰り返す。カミューは軽く肩を竦ませた。
「ランドさんさぁ……────」
「さ……、さん? どうぞ呼び捨ててください」
「何でもいいけどさ、どう考えても無理だよ。だってオレ、何も知らないんだよ? 第一、十年後のオレがどんなヤツだったのかもわかんないのに、どうやって団長の仕事するのさ?」
「お教え致します」
ランドは苦笑して語り出した。
「カミュー様は十五で騎士試験を受け、この赤騎士団に叙位されました。以来、素晴らしい早さで地位を極められ、およそ半年前、我がマチルダ史上最年少で騎士団長にお就きになられた」
ローウェルが補足する。
「剣技・礼節・忠誠。いずれも比類なき最高の騎士であり、我らの絶対の支配者でおられます」
「物腰は優雅窮まりなく、流れ出る言葉は知的で上品────」
「お言葉一つで我らを跪かせ、微笑み一つで我らを動かし、眼差し一つで我らを奮い立たせ、赤騎士団を見事纏めてこられた掛け替えのない御方です」
「ちょ────ちょっと待って!」
カミューは目を白黒させた。ランドが笑う。
「……おまえたち、一斉に言う奴があるか」
「何が何だかわかんないよ。オレ、優雅なの?」
「ええ、この上もなく」
「────上品なしゃべり方する?」
「聞き惚れるほど」
うーんとカミューは考え込んだ。ランドが苦笑しながら、背後の男たちに指摘した。
「おまえたち、気づかないか?」
「は、はい?」
「────カミュー様の発音だ」
彼らははっとした。
目覚めてからしばらく感じていた微かな違和感。口調に対する驚きが大きくて、あまり意識していなかったが、確かにカミューの発音はマチルダのものとは少し違った。
しかし、今はまた少し話が変わってくる。
「この短い我らとの会話との間に、カミュー様の発音はマチルダ風に矯正されてきている。ご記憶になくても、身体が覚えておられるのだろう。だとしたら、団長としての振舞いをどうしてお出来にならないわけがあろう」
「ラ────ランドさん!」
「お呼び捨てください」
「そういう問題じゃないよ。あんた、オレに団長のフリしろっての?」
「フリ……、ではありません。あなたが赤騎士団長なのです」
「む、無茶言うなよ! やだよ、オレ。人の名前も何にもわかんないのに……バレるに決まってるじゃないか!」
「我らが補佐します」
もはやランドの決意が変わらないと見て取った騎士隊長らは、顔を見合わせて頷いた。
「カミュー様。我らもランド様と同じ意見です。我らはあなたについていくと宣誓しました。ランド様は副官としてあなた様を支えることができる御方です。我らも無論、尽力致します」
「一度は学んだ騎士としての務め。カミュー様なら、すぐに覚えられますとも」
「幸い今は戦の気配もないことですし、安心して勉学に励まれませ」
「ね……ねえ、ちょっと待ってよ。オレ、十三なんだよ?」
「見ただけではわかりません」
「そりゃそうだろうけどさー…………絶対ボロが出るって」
「何としてでも隠します」
「……あんたら、子供に使われて平気なわけ?」
「カミュー様ならば」
カミューは呆然として両手を後ろについた。
「────言いたかないけど…………あんたら、変だよ」
四人が一斉に苦笑した。
「まず、そのお言葉を何とかしなければ……。カミュー様、丁寧な言葉遣いをしたことはございませんか?」
「丁寧……って、あんたらがしてるみたいなの?」
「これは────ええ、我らはカミュー様の部下ですので、少し違いますな。ご自身が一番偉いのだということを頭に置いて、話をしてみてくださいませんか?」
「自分が一番────」
カミューは考え込み、それから小さく頷いた。
「では、カミュー様。頭痛がするとか、吐き気がするとか、そのようなことはございませんか?」
「────いや、大丈夫だ。そういうことはない。それよりすまないが、何か食べ物を持ってきてくれないか?」
────その口調。
騎士らは一斉に息を止め、次の瞬間には身を乗り出していた。カミューは怯えたように僅かに身を引いた。
「な、何? 駄目?」
「いいえ!」
「何てことだ……カミュー様だぞ」
「────驚いたな…………」
カミューのあの話し方は細心の注意を払いながら作り上げられたものなのだ、とランドは悟った。
十三歳でマチルダに来た少年は、自分の言葉遣いがこの地にそぐわないのを即座に感じたに違いない。そして気を遣い、気を遣いながら自らを矯正したのだ。
────それがいつしか、地となってしまうまで。
ランドが胸を詰まらせて項垂れるのに、カミューは心配そうに声を掛けた。
「どうしたのさ、ランドさん?」
何度諫めても敬称の抜けないカミューに、泣き笑いのような顔で首を振る。
「……いいえ。大丈夫です、カミュー様。それならば誰も疑いはしませんとも。これから先、我ら以外がお側に寄ったときには、そうした話し方を勤めてください」
カミューの口調はもともとゆったりしている。なめらかだが、そのゆっくりさが何とも言えない品格を醸し出しているのだ。これはもともとカミュー少年が考えながら話したことの名残りなのだろう。そう思うと、ランドはいっそう胸を掻き毟られるようだった。
何の迷いもなく、一切の問題もなく出世街道を邁進しているように思われた青年騎士。だが、その裏には涙ぐましいまでの努力があったに違いない。
今更のように溢れてくる敬意に、ランドは拳を握り締めた。
彼が振り返ると、はからずも騎士隊長たちが同じ結論に達していたのだろう、同様の顔つきをしていた。彼は静かに命じた。
「……カミュー様のお言葉が聞こえなかったか。食事をお持ちしてくれ」
「は、はい。ではわたしが」
アレンが頷く。ランドはエドにも目を向けた。
「事情を知る連中に、カミュー様がお目覚めになられたと伝えろ。ただし、記憶の件はここにいる我らだけの秘密だ」
「こ、心得ました」
やや気性の激しいところのあるエドに、ランドは釘を差した。
「よいか。今のカミュー様をお守りできるのは我らだけなのだ。如何なる場合にも冷静さを失うな。このことが他騎士団に知れてみろ、カミュー様を団長職から退けろという話になりかねん」
「とんでもないことです!」
エドは鼓舞されたことで奮い立った。
「カミュー様のため、最善を尽くします」
ランドは隅に控えているラウルにも言った。
「カミュー様の身の回りの世話は当分おまえ一人に任す。頼んだぞ、ラウル」
「はっ、はい! ぼく、頑張ります!」
弾かれたように即答した少年を興味深げに見ているカミューに、ランドは説明した。
「彼は従者といって騎士団では最下位の者ですが、カミュー様がお目を掛け、可愛がっておられた者です。頭が良く、機転も利きます。身の回りのことは彼にお聞きください」
「ふーん……よろしく」
「とっ、とんでもありません! カミュー様、これまで通り何でも言いつけてください!」
少年は思いがけない大役に、かちかちになって礼をした。
「ラウル、資料室から『騎士の心得』と『騎士の務め』を取ってきておいてくれ」
「はい!」
「ランド様」
ふと、ローウェルが口を開いた。
「────マイクロトフ殿をお戻しくださるよう、コルネ青騎士団長にお願いしてはいけませんか?」
ランドははたと彼を見上げた。信頼する第一隊長は真摯に彼を見つめ返していた。
「マイクロトフ殿か…………」
ちらりとカミューを一瞥する。初めて出た名だが、あるいは反応があるかと期待したのだ。しかし、如何せん十三歳のカミューには十五で出会った親友の存在はなかった。
「何といってもこれまでの日常を守れというなら、マイクロトフ殿を欠くことはできません。長い間親交を深められていた彼が傍にいた方が、カミュー様の覚醒には効果的ではないでしょうか」
「そうだな…………」
「コルネ団長は人柄も穏やかな方ですし、すべてを明かさずとも────例えばカミュー様の記憶が混乱しているとか、その程度で納得していただけるのではないでしょうか」
「自分も同意見です」
アレンが大きく言った。
「マイクロトフ隊長が刺激になって、カミュー団長が元に戻られる可能性は高い」
「よし、ではその件はおまえに任せよう、ローウェル。くれぐれもこの話が広まらぬよう、コルネ様にもよしなに……、な」
「心得ております」
男たちが任を与えられて出ていくと、カミューがぽつりと聞いた。
「────マイクロトフさん、って…………誰?」
ランドは微笑んだ。
「カミュー様の親友でおられる青騎士団の第一隊長です」
「オレの親友……?」
「はい。彼はあなたと同じ日に騎士となり、以来ずっと親しくされていた人物です」
カミューはいよいよ怪訝そうになった。
「…………どんな人?」
「そうですな────……一言で言ってしまうと、十年後のカミュー様とは正反対の人物です」
「正反対?」
「これはお会いになって確かめられた方がよろしいでしょう。わたしが彼を語り尽くせるとは思えません」
言いながら笑いが込み上げた。
どこまでも典雅だったカミューと対をなす男。
無器用で、無愛想で、無鉄砲な青騎士隊長。
だが、十五で出会った二人が友情を育んだなら、今のカミューが彼に好意を持たないわけがあろうか。
────また、マイクロトフも幼くなってしまったカミューを厭うはずがない。そう彼は確信していた。
自分も含め、出ていった三人の騎士隊長らは今のカミューに決して失望していない。言葉遣いがどうだろうが、態度がどうだろうが、戸惑ってはいてもカミューを団長であると認めているのだ。
それがこの青年の輝きに跪いた者のたどる運命なのだ。
どんな姿でも、愛さないわけにいかない────見惚れずにはいられない。まして真っ正直なマイクロトフが、彼に失望するなど天地が逆転しても有り得ない。
「……では、お食事を取ったら少しずつ騎士団についてお教えしましょう。よろしいですか?」
「────わかった。よろしく頼む」
カミューはゆったりと答えた。教えたことを早くも実行し始めている。
ランドは優しく微笑んだ。さながら父親のような眼差しで。
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