ローウェルらの一行は、子供を二人乗せた馬に比べて身軽だったこともあり、先発の一行に左程遅れることなくロックアックスに到着した。
城についた彼らを夜勤の赤騎士が迎える。恐らく簡単ながら彼らのことを聞き及んでいたのだろう、夜半の帰城に狼狽えることもなく一行を迎えた騎士たちだったが、現れたローウェルを見た途端、顔色を変えた。
「カ────カミュー様!」
逞しい第一騎士隊長に横抱きにされた彼らの団長は、ぐったりと目を閉じている。おまけにその身体を包んだローウェルの上着のあちこちに血が滲み出ているのだ。カミューが瀕死の重症を負ったと早合点しても無理なかった。
「……騒ぐな。医師を呼んでくれ、それから水とタオル。おまえはランド副長に報告に行け。わたしはカミュー様を自室にお運びする」
「はっ!」
「ローウェル隊長、こ、これは…………カミュー様は……」
第二部隊の騎士は恐怖に取り付かれたように男の腕に抱かれるカミューの顔を見た。
「案ずるな、意識をなくされているだけだ」
「し、しかし、この出血……────」
「カミュー様のものではない」
大半はな、とローウェルは心で付け加える。そうであって欲しいとの祈りを込めて。
「いいか、他の騎士団の人間にはくれぐれも悟られぬよう、騒ぎを大きくするな」
「は、はい……」
彼は躊躇しながら自分の上着を脱いだ。
「僭越ですが……もう一度、お包みした方がよろしいのでは……」
確かにローウェルの上着から滲む血は目立つ。彼は騎士の配慮に感謝しながら頷いた。騎士はカミューを覗き込みながらひどく丁寧に自分の上着を被せ、顔も見えにくいようにした。
「すまんな」
「では、わたしも水を取って参ります。これは少々の水では足りないでしょう」
彼は即座に身を翻した。ローウェルは一人残した部下と共に、カミューの部屋へ向けて歩き出す。
先に入室した騎士が急いで明かりをつける。その間にローウェルは一旦カミューをソファに寝かせて室内を見回した。礼に欠けるとは思ったが、タンスを開けてタオルを取り出し、それをベッドに敷き詰めた。血糊でシーツが汚れないようにとの配慮である。
再びソファからカミューを抱き上げ、細心の注意をもってベッドに横たえた。額に乱れた髪をそっと払ってやり、息を吐く。
そこへランドたちがやってきた。彼らは騎士からごく短い報告を受けたものの、未だに信じがたい思いで廊下を駆けてきたのだ。
ローウェルはランド、エド、そして自部隊の騎士を迎えて一礼した。
「申し訳ございません。わたしがお付きしていながら、このような…………」
「いや、フライリザードだと聞いたが────」
「はい。よくもあのようなものをお一人で、という代物でした」
「お怪我はどうなのだろう?」
「それがご覧の通りで…………」
包んでいた騎士服を取り払ったカミューは、一同がぎょっとするほどの大量の血液に汚れていた。
「カミュー様の血かどうか、判別がつきません。ただ、脈はずっと安定しておりましたので……」
「では、大きな怪我はない────」
「はい、そのように思います」
医師がやってきた。ほとんど同時に洗面器と水差しを抱えた騎士らも飛び込んできた。
「すまない、こんな時間に」
ランドが詫びると、医師は鷹揚に首を振る。
「さっそく診せていただきましょう」
それから大量の血にぎょっとしたように息を飲んだ。モンスターの返り血らしいと諭されていたのか、思い直したように腕を捲る。
「まず、この血を拭わないことには…………」
洗面器が水で満たされた。
「どなたか、この騎士服を脱がせるのをお手伝いください」
「────わたしが」
ランドが進み出た。残された一同は、何故かひどく気まずい気分で顔を背けることになった。
副長の手によってまず肩当てが外され、続いてローウェルが寛げたままの襟が開かれた。
ランドも現れた肌にやや気まずいものを覚えた。普段カミューが服装を崩したことはなく、こうして肌を露にするのは背徳めいた罪悪感がある。
彼は自らを叱咤し、現れるそばから肌にこびりつく血痕を濡れタオルで拭いていった。水はすぐに濁った。
「誰か、水を変えろ」
「は、はい」
呼ばれて一人の騎士が洗面器を取りに来た。はだけられたカミューの衣服に赤面しながら、浴室に汚れた水を捨てに行く。戻って水差しの水を注ぎつつ、不謹慎だと自らを諌めるがベッドに目が向かってしまう騎士だった。
「夜着はあるか?」
ランドの声に、すぐに別の一人がキャビネットを開けた。団長の性格らしく几帳面に畳まれた夜着の一枚を取り、ベッドに向かう。彼も同様にカミューの半裸に絶句し、よろめきながら一同のもとに帰った。
「ふむ」
医師は手が汚れるのも構わず、ランドが拭いている以外の場所を確かめ始めた。
「骨は……大丈夫。打ち身は────ふむ、倒れてくるモンスターの下敷きになられたのでしたかな」
「恐らく」
「────頭に一つ、コブが」
医師の口調は緊張の頂点に達していた一同の気分を解す。
何度も取り替えられた洗面器の水がやっと透き通るようになった。
手際の良いランドの作業で、あっという間に汚れた騎士服は洗いたての夜着に変わった。彼はシーツの上に敷いてあったタオルも退け、カミューを再び横にすると、改めて医師を見た。
「如何ですか?」
「お強い方ですな、お怪我はこの……額からこめかみに走る傷一つ。多分倒れた拍子にモンスターに引っ掻かれでもしたのでしょう。これも跡が残るほどのものではない。薬を塗っておきましょう」
一斉に安堵の溜め息が洩れる。良かった、と騎士らは手を握りあって喜びあった。
医師が器用にカミューの額に包帯を巻いている間、ランドは泣きたい気分だった。
カミューが血塗れになっていると報告を受けたとき、彼は足下が揺らぐほどの衝撃を受けた。返り血らしいと付け加えられても、最初の衝撃はおさまらなかった。
自分が心底この青年に惚れ込んでいるのだと改めて思い知らされる。片手で額を押さえて首を振り、横のローウェルと目が合った。屈強の第一部隊長も同じ気分だったらしい。珍しく呆けたような顔でランドを見つめ返している。
「────ランド様、ミゲルの処分ですが……」
彼は呆然としたままの口調でそんなことを切り出した。怪訝そうにしているランドに淡々と告げる。
「────カミュー様のご指示です。闘技場の草むしりを命ずる、と」
その発言は、緊張の箍が緩んだ一同には妙に可笑しかった。彼らはいっせいにくすくすと忍び笑いを洩らす。
「く、草むしりか…………」
一緒になって笑い出したランドが頷いた。
「誰か、あの真っ青になっているちびすけたちに知らせてやれ。カミュー様はご無事だとな」
「────でなければ夜も眠れないでしょう」
笑って進み出たのはエルトナーである。彼が出ていくと、医師がすべての処置を終えて向き直った。
「少々熱がおありですな。話に聞いていますが、ワイズメル市長の件ではひどくお疲れだったような────できればしばらく休養を取られた方がいい」
「心得た。世話になった」
「心配ないと思われますが……何かあったらいつでもお呼びください」
「……感謝する」
医師が出ていくのと入れ代わりに、第二隊長アレンが入ってきた。
「失礼致します! 部下から報告を受けたのですが……カミュー様がお怪我をなさったのですか?!」
一応礼節は取っているが、息が切れている。さすがにあの血塗れた姿を見てしまった騎士は報告せずにはいられなかったのだろう。
「……ここより話を広めぬよう気をつけねば。誰か、詰め所の第二部隊に口止めしてきてくれ。アレン、扉を閉めろ。おまえには説明しておこう」
ランドがてきぱきと指示を出し始めた。一同は穏やかな眠りについているカミューを気にしながらも、命令を聞き洩らすまいと姿勢を正した。
カミューの無事の知らせを受けた見習い騎士の少年たちが一斉に大泣きしたのはさて置いて、ミゲルは初めて神と呼べるものに感謝した。
カミューに万一のことがあれば、生きていられないだろうとさえ思い詰めていたのだ。同時に彼の言葉を思い、これが生き残る勝利というものなのだと実感する。
あの場合、カミューの判断は正しかったのだろう。
彼が盾とならなければ、自分はおろか、前を行く騎士たちもモンスターの餌食になっていた。見習いを庇いながらの戦いは、確実に騎士らの不利となる。
だが、あんな凄まじい化物に、たった一人立ち向かう勇気が自分にあるだろうか。
カミューが自分の力量と相手を計りにかけている暇がなかったのは確かだ。それでも、彼は団長として部下を守るために一切の躊躇をしなかったのだ。
────間違っていた。
自分の彼への評価は何もかも間違っていたのだ。
彼は世渡り一つで伸し上がった男ではない。剣と誇りによって選ばれた、ただ一人の赤騎士団長なのだ。
ミゲルは初めて心から信じられる上官を得たことに胸を打たれた。そして、その中に僅かな痛みが混じっていることにも気づいた。
小さな痛みの理由を考える。
────彼は少年期を終えようとしていた。
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