さて、どうするか。
カミューは恐ろしい勢いで迫ってくるフライリザードを前に反射の速度で考えた。
まず、紋章を使った。
炎のかべで足を止めたのだ。確かに火の魔法はモンスターにダメージを与えることができなかったが、少なくともそこに敵がいることだけは知らしめた。
フライリザードはその場に止まった。モンスターの全身を包んでいる青白い光りによって、周囲は薄明るく染まっている。
束の間の対峙の後、モンスターは炎を吐いた。カミューはそれを飛んでかわし、一気に懐へ飛び込んでユーライアの一閃をあびせた。切り裂かれたモンスターが怒りの咆哮を上げる。
「────ここから先に行かせるわけにはいかない」
自らに言い聞かせるように呟くと、カミューは体当たりを仕掛けてきたフライリザードを避け、更に一撃を加えた。
知識で知るモンスターとは二回りも違う。速度も上回る。あの体当たりをまともに受けたらただではすまないだろう。カミューは間合いを計るのに慎重にならざるを得なかった。
無論、カミューは死して仲間を逃がすなどというヒロイズムに酔うつもりはなかった。
これが自分の役目だと信じただけだし、一番被害を押さえられる最良の策だと選んだだけだ。
が、ある程度は覚悟して闘う相手だということも漠然と悟った。彼の攻撃魔法が無効である以上、頼れるのは剣技だけだ。相手も相当素早い動きを持っている。カミューの剣は幾度か空を切った。
時折足止めのために、我が身を餌にフライリザードの注意を引かねばならなかった。このモンスターは高速で移動する騎馬部隊に関心があるようなのだ。
戦いを長引かせることはできなかった。正直なところ、カミューは体調が万全であるとは言えなかったのである。
ミゲルが指摘した通り、数日前から風邪気味だった。
寝込むほどではなかったが、少し身体が重いという程度の不調は認めていた。ワイズメルもいなくなったし、そのうち直るだろうと高を括っていたのはまずかったかもしれない。
それでも彼には騎士団長としての誇りがある。
自団の部下を守らねばならない。そのために傷つこうと、生きてさえいればいい。
────ふと、マイクロトフが傷を厭うだろうかと思った。そしてそんなことを考える余裕のある自分に苦笑した。
集中しなければ────カミューはユーライアを握り直した。
フライリザードの怒りは頂点に達したようだった。幾度も切り裂かれ、青い体躯から真っ赤な血が流れている。そのコントラストは薄闇にも鮮やかだ。
モンスターはこれまでにない大がかりな炎を立て続けに吐き出し、カミューは間一髪でそれをかわすことに成功した。
飛び退いた瞬間に僅かに傾いだ体勢をついての体当たりを受けかけて、地面を転がって避けた。倒れているところへ炎を吹きかけられ、すかさず紋章の力を放つ。
放った炎が防壁の役割を果たし、モンスターの炎を巻き取る。その間にカミューは転がりながら距離を取り、立ち上がった。
息が切れていた────予想以上に体調は悪い。おまけに彼は回復アイテムを持っていなかった。
フライリザードはなおも去っていった騎馬部隊が気になるようだ。
────行かせるわけにはいかない。
カミューは最後の賭に出た。
残る魔力を結集させ、現在使える最大魔法の『大爆発』を呼んだのだ。無論、相手にダメージとならないのは覚悟の上である。
轟音と共に直撃した魔法が、一瞬フライリザードを怯ませた。その隙を見逃さず、カミューは渾身の力を込めた一撃を獣の腹に見舞った。真一文字に腹部を抉られたモンスターは、苦悶のおたけびをあげてもがき苦しむ。
唯一計算外だったのは、そのよろめいた巨体が、真っ直ぐにカミューに向かってきたことだ。
まずい、と思ったときには遅かった。
攻撃を放って僅かに無防備になったカミューに、息絶えるモンスターの身体が降ってきた。そのままもつれ合うように大地に倒れ込み、その拍子に激しい衝撃を後頭部に感じた。
意識が遠のく最後の瞬間、彼の脳裏を過ったのは、自分を見つめて微笑む精悍な男の顔だった。
ローウェルは次々に山を駆け降りてくる騎馬部隊を確認しながら、不安に胸を突かれていた。
危険だからと避けていた全速前進を敢えて命じたカミューの意図も分からないまま、モンスターを掻き分けるようにして麓まで下りたのだ。
幾人かはモンスターからの攻撃を受けたようだが、目に止めるほどの被害がないのにほっとして、彼はしんがりを勤めているはずの団長を待った。
ところが、十二番目に下りてきた騎士が顔色を変えているのにぎくりとした。しかも、その後に続くはずの団長の馬はまるで現れる気配がない。
ローウェルは叫んだ。
「何があったのだ、カミュー様はどうなされた!」
「モ、モンスターです! 我らの背後からフライリザードが追ってきていたのです」
「フライリザードだと? 馬鹿な!」
一人が声を荒げる。
「何故ここに…………あれはティントあたりに生息しているはずだ」
「はい、カミュー団長も変種だと────話に聞く一・五倍はありましたし、恐ろしい速さでした。もう少し遅かったら、騎馬部隊も危うかった」
「────あの命がなければ、か」
ローウェルは今更のように感嘆しながら、ふと険しい表情になる。
「しかし、遅い…………何故────」
カミューの馬術の腕を考えれば、これだけ遅れるのは不思議だ。手綱を預けたのがミゲルでも、モンスターに追われる以上、カミューが主導しないはずがない。
胸に沸き起こる不安を抱え、ローウェルは必死に暗い山路を見上げる。同じように案じる顔つきの騎士が一人、二人と馬を寄せてきた。
「……見えた!」
格別夜目のきく騎士が叫んだ。漆黒の闇を抜けて走り出る栗毛の馬、カミューの騎馬だ。
「カミュー様!」
叫んで馬を寄せようとしたローウェルは、馬上の影の数に気づいてぎくりとした。ほとんど転げ落ちそうになりながら必死に手綱と馬の首にしがみついているミゲル────。
一人の騎士が、慌てて横に並んで手を伸ばし、手綱を強く引いた。馬は横からの指示に素直に従い、高くいなないて脚を止める。
一斉に騎士たちが取り囲んだ。
「ミゲル! カミュー様はどうなさった!」
見ればミゲルの身体には新しい傷が幾つかついている。モンスターに襲われたのだろう。不馴れに馬を操りながら戦うことはできず、ひたすら山を下りることだけを目指したのだ。
「────ミゲル!」
半分自失していたミゲルが、はっと我に返った。自分を囲む男たちの凄まじい形相に一気に頭が冴える。
「────助けてください! カミュー団長が残って戦っています!」
「な、何だと……?」
「おまえはカミュー団長を一人お残ししたのか!」
「────そのようなことを論じている場合か!」
ローウェルがミゲルに噛みついた騎士を鋭く諫めたときだった。
暗い山の中腹に、大きな炎が認められた。紅蓮の炎、カミューの魔法だ。
「確か炎は無効のはず…………────」
誰かが呟く。ローウェルは即座に我に返った。部隊を手早く二つに分ける。
「おまえたちは見習いを二人ずつ乗せて全速でロックアックスに戻り、ランド副長に報告! 後の四人はわたしに続け!」
言い終わらないうちに馬を走らせる。命じられた四人が松明を手にローウェルに続いた。
残された中の最年長であるエルトナーが指示を出し、馬から下ろされた少年たちを乗せ直し、彼らの乗ってきた馬の手綱を結び合わせて隊列を組んだ。
ミゲルは呆然としたままローウェルらの残映を見送っている。エルトナーが低く命じた。
「…………命令は聞こえたな、ミゲル。戻るぞ」
「で、でも────」
「カミュー様が残ると決められたのなら、誰にもお止めすることはできなかっただろう」
やや口調が和らいだ。
「……案ずるな。先程カミュー様が言われたことを思い出せ。あの方は我らの為に命を落とされるようなことはなさらない────決して」
────残された者のために、生き残ることが勝利。
カミューの言葉を蘇らせ、ミゲルは俯いた。
いずれの少年たちも自分たちの引き起こした事態の悪化に青ざめ、啜り泣くのを止められずにいる。
ロックアックスを目指す騎馬部隊は、悲壮な葬列にも似た沈黙に包まれていた。
赤騎士団・第一部隊長ローウェルは、胸を切り裂かれるような恐怖というものを初めて感じていた。
三十二年の人生の中で、これほど怯えたことはない。戦場においても、モンスターと対峙していても、彼は自分に自信があったし、恐怖とは弱者の感情なのだと思っていた。
だが今、感じているのは紛れもなく彼が侮蔑していた感情だ。ただ一人、自分が剣を捧げた相手を案じて彼は焦燥に苛まれる。
さっきの炎は彼が見たことのないレベルのものだった。恐らく、カミューの持つ最大級の魔法なのだろう。それだけ戦いが切羽詰ったということなのだと思うと、不安で押し潰されそうになった。
「隊長!」
呼びかけられる前にローウェルも気づいた。
多くない洛帝山の木々を燃やして燻る炎の名残り。それにより闇が薄らいでいる中、彼らは見たくないものを見出したのだ。
「────カミュー様!」
転げるように馬から下りる。一同は念のために剣を抜いたが、すでにその必要はなかった。
巨大な青い身体をぐったり伸ばし、うつ伏せに倒れているモンスター。
その下敷きになり、仰向けに横たわる最愛の騎士団長。
カミューの全身は鮮血に塗れていた。
フライリザードの身体の影から見える上体だけでも、ぶちまけたような血に染まっている。もともと赤い騎士服なので、頬や白い手袋がなかったらよく分からなかったかもしれない。
「カ、カミュー…………団長……────」
「こいつを引き剥がせ! 慎重にやれよ」
ローウェルの声にはっとした騎士たちが、巨大なフライリザードを三人掛かりでカミューの上から退けた。やっとのことで押し退けたモンスターの下から現れたカミューは、いよいよ真っ赤だった。白い下衣も赤く染まり、全身がべっとりと濡れている。
ローウェルは気が狂いそうになった。モンスターを退けたまま呆然とその姿に見入る部下を押しやり、カミューの傍らに膝を折る。
「カミュー……────様」
恐る恐る呼びかけながら、ぐったり目を閉じたままの青年の肩に手を回し、壊れ物のように半身を起こさせた。そして彼が息をしているのを確かめると、長い溜め息をついた。
「……────良かった……」
「お、お怪我は……カミュー様は…………」
一人が死にそうな声で尋ねる。
ローウェルは眉を寄せた。フライリザードの様子から見て返り血だと思われるのだが、とにかく全身が血塗れなので、カミューが怪我をしているのかどうかも判別できない。かと言って、ここで裸に剥いて確かめるのもはばかられる。
「────明かりを」
すぐに全員が寄ってきてローウェルを囲む。彼は手袋を外して、そっとカミューの襟元を寛げた。覗いたなめらかな首筋に指先を当てると、今度は安堵のあまり涙が出そうになった。
「……脈はしっかりしておられる。大きな出血をしておられない証拠だ。大方、息絶えるモンスターの下敷きになられた衝撃で意識をなくされたのだろう」
隊長の言に一同はほっとしたように顔を見合わせる。それから改めて感嘆したように死んだモンスターを見た。
「しかし……すごい。こいつをお一人で────」
「しかも、魔法が通じないんだよな。剣だけで倒されたのか……」
「それが我らの団長なのだ。さ、行くぞ。どちらにしても、お怪我をなさっておられるかも知れぬ。早くロックアックスで医師に見せねば」
ローウェルが言うと、騎士たちは慌てて頷き、馬に戻った。彼は自らの騎士服を脱いでカミューの身体を包んだ。触れた首がやや熱かったような気がしたのだ。
少し考えて、懐から布切れを取り出してカミューの頬にこびりついた血を拭う。敬愛する団長の肌に忌まわしいモンスターの血がついているのに耐えられなかったからだ。
それから彼はカミューの身体を抱き上げた。大柄で逞しい騎士隊長から見れば、彼らの団長は如何にも細い。さして苦もなく馬上に引き上げると、カミューを自分の胸にもたれさせるようにして体勢を整えた。
「────帰城!」
鋭い命に、騎士たちはローウェルの馬を守るように洛帝山を下り始めた。
エルトナー以下の騎士、そして見習いの少年たちがロックアックス城に着いたのは、夜もすっかり更けてからのことだった。さすがにいずれも騎馬に秀でた騎士、二人の少年を乗せての早駆けも、何の差し障りもなかったらしい。
今夜の夜勤は赤騎士団の第二・第七部隊だったので、他の騎士団の人間の目に止まることもなく、彼らは密やかに入城を果たした。
執務室ではランドと第十部隊長エドが苦悩を浮かべて待っていた。彼らは戻ってきた一団の人員に眉を寄せた。
「報告致します!」
エルトナーが手短に、しかし要点を捉えて説明すると、ランドはますます顔を歪め、エドは顔を覆った。
「────何と言うことだ」
苦しげな副長の独白に、小さくなっていた少年たちはいっそう項垂れる。
「ミゲル、貴様のしたことは……────!」
叱責しようとしたエドを、ランドが制した。
「よせ」
「しかし、ランド様! こやつの思慮を欠いた行動のためにカミュー様が危険に見舞われたのですぞ! もはやこれは赤騎士団全体の問題ではありませんか。即刻ミゲルを強制除隊させ、赤騎士団の秩序を……」
「落ち着け、エド。分別に欠ける発言は許さない」
ランドが低く言う。
「……カミュー様が言い残されたことを忘れたか。確かに洛帝山に登ったのはやり過ぎだ。しかし、これは士官学校恒例の催しの一端なのだ。大事にしないというカミュー様の意志を尊重せねばならぬ」
「ラ、ランド様……しかし……」
「それにもう、彼らは充分な罰を受けている。見るがいい」
ランドが指した少年たちは今にも倒れそうな顔色で、顔は涙でぐしゃぐしゃだ。さすがに涙こそ浮かべていないが、ミゲルの憔悴は痛々しいほどだった。
「────自分もそのように考えます、エド隊長」
エルトナーが控え目に口を挟んだ。
「洛帝山でも、カミュー様は今回のことを責め立てるようなことはなさいませんでした。ミゲルにしても……すでに許されたと我らには見受けられました」
別の一人が頷く。
「フライリザードの襲撃は予測のつかない事件です。その責までミゲルに負わせるのは、カミュー団長の意志にないと思われます」
ミゲルは自分が引き起こした事態を、第一部隊の騎士たちが庇ってくれているのだと朧げながらに感じた。感動するよりも、尚自責が込み上げ、胸が詰まった。
「────わたしが行くべきだった」
ランドがぽつりと呟く。
彼がこうして愚痴めいたことをいうのは珍しく、騎士たちは驚いた。彼は苦しげに部屋を横切り、カミューの机に両手をついた。
「カミュー様は…………体調を崩しておられる。洛帝山のモンスターレベルなら問題ないだろうが、フライリザードともなれば────」
「ど、どういうことですか?」
一同はどよめいた。
「あのワイズメル市長がいる間、ずっとまともに眠っておられなかった。夜中に叩き起こされることも頻繁だったのだ」
「そ、そんな!」
エドが青ざめた。
「そのようにはお見受けできませんでしたが」
「あのカミュー様が、そうそう我らに気づかせるか。わたしはご一緒している時間が長いから、たまたま気づいたが……やはり、あの時お止めしていれば……────」
ランドは悔恨に唇を噛み締めた。
騎士、少年たち、何よりミゲルは驚いた。ならば馬上で感じた熱い息遣い、あれは偶然ではなかったのか。
弾かれたように部屋を飛び出そうとするミゲルの腕を、騎士の一人が慌てて掴んだ。
「どこへ行く、ミゲル!」
「離してください、おれは────」
「ミゲル!」
「おれのせいだ! カミュー団長にもしものことがあったら……おれは!」
「おまえが行ってどうなる?」
「────でも!」
「落ち着け、ミゲル」
ランドは内心驚いた。カミューに反感を持っているとばかり思っていた少年が、思いがけず彼を慕っているのに気づいたのだ。
「……おまえも怪我をしている。手当を受けろ」
「おれのことはどうでもいいんです!」
「────おまえが行っても助けにはならぬ」
ランドの冷静な指摘に少年はびくりと震え、そのまま拳を握って俯いた。
「ランド副長、彼らの処分はどうなるのですか?」
一人の騎士が尋ねると、ランドは頷いた。
「学校の方からは、定例報告を放棄した始末書を出すことだけ要求されている。あとの処分は騎士団の方に一任されているが……これはカミュー様が戻られないことには…………」
「こちらからも人員を出した方が良くはありませんか?」
エドの問いには首を振った。
「無意味だろう。ローウェルがいる、何とかしてくれると信じよう」
一同が苦しげに沈黙した。ランドは騎士の一人に命じた。
「見習いたちを兵舎に連れていけ。一応、謹慎を命じる」
少年たちが必死に彼を見上げるのに、ランドはやや口調を緩めた。
「案ずるな。カミュー様が戻られたら教えてやる。それより疲れているだろう、休め。ミゲル、おまえもだ。手当をしてやれ」
最後の言葉は騎士に向かって放たれたものだ。騎士は一礼して、少年たちを促した。
一同が悄然と後に続き、ミゲルものろのろと従おうとした。
そのとき勢いよく執務室のドアが開き、洛帝山に残った第一部隊の騎士が一人、飛び込んできた。ぶつかりそうになった仲間に詫び、彼はランドの前に直立した。
「ほ、報告致します! ローウェル隊長以下、戻りました」
出ていこうとしていた一同もはっと振り返る。ランドの目が見開かれた。
「カミュー様は?!」
「そ、それが……────」
騎士はひどく苦しげな顔をし、迷うように口籠った。
「どうした! はっきりせんか!
ご無事なのだろうな?」
エドが悲痛な声で問い直す。騎士は慌てて姿勢を正した。
「…………医師の手配は致しました」
「お、お怪我をなさったのか?!」
「それが…………その、よくわからないのです」
「わからない?
わからないとはどういうことだ!!」
身を捩って怒鳴るエドに、騎士が申し訳なさそうな顔になる。
「つまり────」
彼は必死に説明し始めた。
← BEFORE NEXT →