彼らの選択 ACT10
翌日、昼過ぎのことである。
赤騎士団副長ランドは、団長執務室に現れた少年を見て苦い顔をした。ここ最近の習慣となりつつある挑戦に来たのかと思ったのだ。
しかし、少年はバケツを下げ、モップを持っていた。それでようやく力を抜いたランドは、入ってくる少年に潜めた声で尋ねた。
「……昨日のうちに終えなかったのか?」
「す、すみません。昨夜は夜勤だったので────」
慌ててミゲルが言うと、ランドは仕方なさそうに頷いた。それからつい、と指でソファを指す。
「カミュー様は休んでおられる。なるたけ音を立てないように心掛けろ」
「え────?」
見遣ると、言葉通りソファに身体を投げ出してカミューが眠っていた。
肩当ては外しているが、いつも通りの騎士服で、身体の上にはランドの上着が掛けられている。
「…………どうかしたんですか?」
「二日酔いだそうだ」
やや苦笑しながらランドは教えた。
「カミュー様には珍しいが……このところお疲れでおられたし、無理もない。少し休まれるようにお勧めしたのだ。わたしは任務に戻るが、くれぐれも粗相のないようにな」
「────はい」
「ああ、目覚められたら、テーブルにある茶をお飲みになるよう伝えてくれ。ラウルが持ってきた、頭痛に良く利く茶だそうだ」
「わかりました」
ランドが出ていくと、ミゲルは小さく溜め息をついた。
床磨きが終わっていないというのは口実だ。この部屋の床は三日と空けずに磨かれているので、もはや手入れは必要ないほど光っている。
どうして自分がカミューを訪ねたいと思ったのか、ミゲルにもわからなかった。ただ、一晩寝苦しい夜を過ごし、気づいたらバケツを握っていたのである。
ミゲルは足音を忍ばせてソファの前に回ってみた。少し髪を乱したカミューは確かに顔色も良くない。ひょっとすると昨夜の懸念通り、風邪でも引き込んだのかも知れないとミゲルは思った。
眠る青年を見たのはもちろん初めてのことだ。
人を見透かすような目が閉じられると、彼は途端に儚げな印象になる。
────男にしては長いまつげ、整った鼻筋。
微かに開かれた唇に視線が及ぶと、ミゲルはあのくちづけを思い出して赤面しそうになった。
「…………何か用か?」
不意に声を掛けられて飛び上がりそうになる。目蓋がふわりと開き、いつものように穏やかに相手を探っている瞳がミゲルを射貫いた。
「あ、お、おれ────」
「男の寝顔を覗く趣味でもあるのか」
辛辣だが、口調は柔らかい。が、ミゲルは一気に紅潮した。
「なっ……、だ、誰が……────! ふ、ふざけた事を言うなよ!」
言ってしまってからぎくりとした。
────礼節を欠いた言葉遣い。
最近ではずっと努めて気をつけていた。唯一の例外がカミューだが、彼があの切り札を持ち出さないとは言えない。
だが、カミューは薄く笑っただけで、ミゲルを咎めようとはしなかった。
「掃除の続きか? 埃を立てるなよ」
むっとしたままミゲルが黙っていると、カミューは二、三度軽く咳き込んだ。やはり体調が思わしくないのだろうかと思ったミゲルに、彼はちらりと目を向ける。
「…………何だ?」
「────ランド副長から伝言。目が覚めたら、その茶を飲むように、って。二日酔いにいいらしい」
試すようにぞんざいな口調で言ったが、相変わらずカミューは気にしなかった。
「……わかった、トレイを取ってくれ」
「……………………」
ミゲルは憮然としたまま従った。まだほのかに温かい茶をカップに注ぐカミューの手を見つめたまま、立ち尽くす。
ようやくカミューはミゲルの沈黙に眉を顰た。
「────何か用なのか? 掃除をする気がないなら座ったらどうだ。ぼうっと立っていられたら気になるだろう」
ミゲルは躊躇し、それから言われたようにソファの反対側に腰掛けた。その間にもカミューは軽い咳をしている。
「…………風邪でも引いたんじゃないの」
つい口にすると、カミューは傾けていたカップを両手で包んで溜め息を吐いた。
「頭が痛いだけだ」
「……二日酔い?」
「普通の人間なら死ぬほど飲んだからな」
騎士たちが一度でいいから親しく会話してみたいと願う相手と向かい合っている────ミゲルは不思議な気分だった。
「それでも寝不足がなかったら良かったんだが……────」
彼はこめかみを押さえて自嘲する。
「────……今、あんたに挑戦したらどうなるかな」
ふと零れた言葉に、カミューは笑った。
「……加減が利かなくて、おまえを斬り殺すかもしれないな」
「何だよ、それ」
不貞腐れたミゲルだったが、案外そうかもしれないと思った。
カミューが自分と闘うとき、明らかに手加減しているのがわかる。実力の半分も出していないだろう。それが悔しく、何とかカミューの本気を引き出したいのだが、如何せんミゲルの力ではどうしようもないのだ。
「だいたい、わたしとおまえでは年期が違う。一日や二日、訓練したからといって変わるものではないだろう。それもわからず連日挑戦してくるのだから……無鉄砲というか、愚かというか────」
相当頭に響くのか、カミューの声はいつもにも増して静かだ。そのためだろうか、ミゲルにはあまり馬鹿にされたという感じがしなかった。
「……わからないじゃないか。若いときの一日は、年食ってからの一ヶ月よりも伸びるって士官学校で教えられたぞ」
「おまえとわたしの間には少なくとも七年の差がある。おまえがそこらを這っていた頃、すでにわたしは剣を握っていた。一朝一夕で抜かれるようなら、わたしは団長などしていられないさ」
ポットから二杯目の茶を入れ、カミューは諭した。
「────強くなりたいと思うのはいいことだ。それが信念に基づくものなら尚のこと。情けない除籍願いを取り戻したいなどとつまらない理由を掲げている限り、進歩の度合いは見えているな」
「……じゃあ、あんたはどうだったんだ?」
思いがけずカミューの口が軽くなっているのに励まされ、ミゲルは尋ねた。
「おれは……わからなくなってきた。色々な話を聞いて、あんたは上手に上官に取り入って出世してきたんだって思ってた。剣の腕だって話ほどじゃないだろうって……」
カミューは背もたれにもたれ、ランドの上着を丁寧に畳んで脇に置いた。その表情が興味深げなので、ミゲルは続けた。
「……地位や後ろ楯が第一なんだとずっと思ってた。どんなに頑張ったって、おれは『ルチアス前白騎士団長の甥』でしかない。そう呼ばれるのも嫌だけど、そういうのを利用して伸し上がる奴はもっと嫌だ。だから……」
「────そういうものを感じさせないマイクロトフに憧れている、という訳だな。分かり易い奴だ、まったく」
カミューは苦笑した。ミゲルはぎょっとして彼を凝視する。
「おまえと最初に向かい合ったときに思ったよ。おまえの構え、攻撃の仕方、マイクロトフそっくりだ。特に……わたしと騎士試験で闘った頃のあいつにな」
「騎士試験で……────?」
「そう。わたしたちは同期入団で、同じ日に騎士に叙位された。その最終試験で闘ったのがマイクロトフだった」
ミゲルは身を乗り出した。
「あんたが勝ったんだろう? そう聞いた」
「…………────」
ふと、カミューは遠い目をした。その中にある安らぎのようなものは、ミゲルが傍に居て初めて見るものだった。
「────そう、試合的には。だが、本当はあいつの勝ちだった」
「……どういうことだよ?」
「マイクロトフとの闘いで、わたしは手を痛めた。何しろあの馬鹿力で剣を叩き付けてくるし、闘いも長引いた。あのままいけば、わたしが負けていただろう。だが……、あいつは決めの一瞬に剣を捨て、わたしに勝ちを譲ったのさ────立ち会いの誰にも気づかれないよう、実に巧妙にな」
ミゲルは息を詰めた。
「……あんたは気づいたのか」
「当たり前だろう? わたしはあいつを責めた。すると、自分は特待生で試合の数で優遇されているから対等に闘ったとはいえない、ときた。それでもわたしが納得できずにいると、もう一度勝負しようと持ちかけてきて────二人だけの力を競わせよう……と」
「……試合……したのか?」
「したさ」
カミューは可笑しそうに笑いかけ、頭が痛んだのか顔をしかめた。
「……二度目はわたしが勝った。あいつは真っ正直な剣士だったからな、合わせて闘えばこちらが不利になるが、そこは技術で補った。終わった後は、しばらく動けないほど疲れて……二人して草原に寝転んで、のんびり風に吹かれたな────」
遠い記憶にたゆたうカミューは、またもミゲルの知らない男になっていた。少年はカミューとマイクロトフの歩いてきた歴史の始まりに想いを巡らせた。「────正直言って、おかしな奴だとずっと思っていた」
唐突にカミューが切り出し、ミゲルは注意を引き戻された。
思いがけず、興味の中核であるマイクロトフとの関係を洩らすカミューを不思議に思いながらも、ミゲルは真摯に耳を澄ませた。
「……だいたい、十四にもなって『友達になりたい』なんて言う奴がいるか? 真面目な顔で申し込まれたときは、からかわれているのかと思った」
「そ、そんなことを言ったのか……、マイクロトフ隊長…………」
────言いそうだ。
ミゲルは苦笑した。あの真っ直ぐな男なら、回りくどい言葉など使うまい。
「……わたしはずっと────あいつに嫉妬していたよ」
意外な言葉にミゲルは瞬く。
「嫉妬……?」
「あの正直さ、素直さ。おまけに体格ひとつにしても、わたしはあいつに敵わなかった。騎士だった父親の名誉、優しい家族、あいつはわたしの持たないものをすべて持っていた。無論、好意はあった。剣を交えた者にしか通じ合えない何かが、あいつを認め、受け入れさせた────だが、最初の何年かは多分、心のどこかであいつに張り合う気持ちがあったような気がする」
カミューはミゲルの想像以上に正直に心情を語っている。ひょっとすると関係を知られたからと開き直ったのだろうとミゲルは思う。
「……おまえが考えているように、わたしは上官に引き立てられて出世した。確かに、剣技一つだったらこれほど早く地位を得ることはなかっただろう。昔から人の顔色を読むのは得意だったし、相手が何を求めているのか、どういうことを言ってほしいのか、判断を誤ったことはほとんどなかった。努めて阿るような真似はしなかったが、大抵の上官はわたしを引き上げてくれた」
「……………………」
「若くして地位を上げるわたしが他人にどう見られていたかも知っている。おまえのように反感を持つものもいただろう。だが、家柄も後ろ楯もないわたしには、自分の才覚だけが頼りだった。それを使って伸し上がったことを恥じてはいない」
カミューは再び小さく咳き込んだ。
「まあ────そういう訳で、マイクロトフにだけは負けられないと考えていたのさ。だが、そのうちに馬鹿らしくなった」
「馬鹿らしく?」
「そうだ」
カミューは苦笑した。
「先に騎士隊長になって、こちらが多少優越感を持ったとしても、その相手に手を握られて喜ばれてみろ。張り合うのが愚かしく思えてくるだろう?」
確かに、とミゲルも笑った。あのマイクロトフならそうだろう。単純そうな彼は、友人の出世を我が事のように喜ぶに違いない。
「それでもマイクロトフがいなかったら、わたしはここまで来れなかっただろうな。常にあいつに恥じたくないという意地があったから────」
そこでカミューは微笑んでミゲルを見た。
「こういうところか、おまえの聞きたかったことは」
「え?」
「わたしがマイクロトフをどう思っているかを聞きたかったのだろう?」
「そ、そういう訳じゃ……」
口籠りながらも、ミゲルは認めていた。
マイクロトフのことを話題にするカミューは、ようやく素顔の片鱗を見せた。表情の柔らかさ、口調の穏やかさ、いずれもミゲルの期待した以上のものだった。
「……まあ、焦るな。おまえの剣の筋はいい。マイクロトフを目標にするなら悪くないだろう。だが、あいつは防御もそこそこやるぞ。そのうち剣を見てもらったらいい。あれで結構面倒見はいいからな」
最後にもう一度笑うと、カミューは疲れたように息を吐いた。やはり顔色が優れない。ミゲルはぼそりと呟いた。
「…………やっぱり昨夜、風邪引いたんじゃないか? あんな格好でうろついてるから────」
「昨夜…………?」
聞き咎めた彼は眉を寄せる。
「────濡れた頭でうろうろしてたろ」
ミゲルが指摘すると、カミューは微かに感情を揺らめかせ、渋い顔になった。
「……見ていたのか」
「い、言っとくけど、夜勤をサボったわけじゃない────仮眠時間だったんだ!」
「────大声を出すな、響くだろうが」
カミューは頭を抱えて唸った。
「あ、ご、ごめん」
つい謝ってしまうミゲルである。
「…………おまえには間の悪いところばかり覗かれるな」
「の、覗いたわけじゃない。見えただけだ」
「いいさ」
カミューは目を閉じた。
「…………別に隠したいわけじゃない。言い触らしたいなら、そうしてもいいぞ」
「で、できるかよ、そんなこと……────」
ミゲルは思わず自らの唇を押さえていた。口止めのように与えられた口付けが蘇った。
「で、でも……その、あんたらって親友だったんだろ? 何で、その…………」
「……そういう関係になったか、と聞いているのか?」
カミューは自嘲気味に返す。
「多分────魂が呼び合ったんだろう」
「魂?」
「……以前、ある方に言われたことがある。あいつがわたしの魂の半身なのだと。互いの欠けるものを補い合いながら生涯を共にする相手なのだと……。まあ、実際わたしにも良くわからない。これでも昔は随分多くのレディと付き合ったものだ。それが何故、あんな無器用で猪突猛進な、後先考えない男と……」
カミューは何事か思い出したように吹き出しかけた。それがひどく人間臭くて、ミゲルは思わず見取れた。
「────ミゲル、恋人はいるのか?」
唐突に問われて彼は赤面した。
「い……いないさ、そんなもの」
「……できたらわかるさ、きっとな。色恋なんて、結局は理屈じゃない。マイクロトフはわたしを求めた。わたしもあいつが欲しかった────ただそれだけのことだ」
あっさり言われてますます真っ赤になった少年は、笑っているカミューの口元から目が離せなかった。
「さあ、もうこんなところでいいか? わたしもそろそろ任務に戻らないと…………」
ソファから身を起こしかけたカミューに、ミゲルは焦った。
もう少し────もう少しだけでいいから話していたかった。否、団長の顔を隠した一人の人間として微笑む彼を見ていたかったのである。
どうしてそんな言葉が口を吐いたのかわからない。気づくと、ミゲルは必死の顔でカミューに向き合っていた。
「……………………してくれよ」
「何?」
「もう一度。この前みたいに…………おれに────」
ミゲルは気づかなかったが、無意識に唇を舐めていた。それによってカミューは少年の望みを理解することができた。
「────どうしてだ?」
「お、おれ……初めてだったんだぞ? あんな不意討ちみたいな…………ひどいじゃないか。初めての時は────って色々おれだって………………せ、責任取ってくれよ」
カミューは小首を傾げた。
「────確かに恐ろしく下手だった」
「し、しょうがないだろ! れ……練習すれば上手くなるかもしれないじゃないか」
「────言うことまで似てるな」
カミューは口の中で呟いた。それからキッと少年を睨み付ける。
「従騎士ミゲル! 口答えは許さない、直ちに床を磨け!」
反射的に直立してしまったミゲルは、カミューが机に乗っている肩当てを取り上げ、身に纏っていくのを呆然と見つめた。カミューはそんな彼に振り返り、厳しい口調で続ける。
「聞こえなかったか?」
「は、はい! 直ちに床を磨きます!!」
思わず丁寧に復唱し、ミゲルはバケツに取り付いた。部屋を出ていこうとするカミューが小さく呟くのが聞こえた。
「練習したいなら、本気で惚れた相手でしろ。まったく……、何を考えているんだ」
バンと強く扉を閉めて彼が去る。残されたミゲルは激しく混乱していた。いったい自分はどうしたというのか。何故あんなことを言い出したのだろう────
カミューの一挙一動から目が離せなくなっていることに、ミゲルはまだ気づいていなかった。
ミゲル君、末期的(合掌)
さて、今回妙に赤が延々と語ったあたりを
次回の本に書きたいんですが……
まだ綺麗さっぱり手付かずのあたり、
「明日はどっちだ?!」って感じ……ふう。次回副題 『ぼくらは騎士(見習い)であるまえにお子様だ!!』
やっと本題に入る事件の幕開け(苦笑)