PHANTOM・8


耐え難い緊張を破ったのは赤騎士隊長であった。
彼は一旦廊下へ出て、蝋燭を手に戻ってきた。居室内の灯を点し始めて弱く息を吐く。
人が闇に畏怖を覚えるのは自衛の本能とも言える。それでも男は上官への配慮を忘れず、室内のすべてを暴かぬだけの光に抑えた。
魔性の両断をマイクロトフに委ね、戸口に立ち尽くしたまま身じろぎもしなかったのも、己が踏み込めば上官の恥辱の疵を広げかねないという一念からである。如何なる窮地にあっても矜持を失わぬ騎士団長の性情を思えばこその仕儀だったが、振り向いたマイクロトフの表情に顔を歪め、彼は小さく詫びた。
「相済まなかった。だが、わたしには……」
マイクロトフは弱く首を振った。ローウェルが躊躇した理由は十分に理解出来る。上官の身の安全以上に心情を重んじたが故の躊躇を責めることなど出来ない。ただ、幾許かの不審が抑えようもなく胸を抉り、嗚咽となって溢れ出た。
「ローウェル殿……あなたはこうなることを知っておられたのか?」
マイクロトフにも負けぬ勢いで激昂して剣を振るっても良い筈の男は、確かに動揺こそ見せたものの終始自制を貫いていた。日頃のカミューへの心酔ぶりを思えば、事態を目の当りにした男の沈着が解せなかったのだ。
「先程の、口外を禁じた従者への対応……あれもすべて、これを予見してのことだったのですか?」
思わずといった調子で洩れた問いにローウェルは疲れたように項垂れる。
「知っていたという訳ではない」
それから何かを振り払うように首を振った。
「だが……予見───そうだな、予見に近いものはあったかもしれない」
「だったら何故!」
遣り場のない憤りが荒れ狂い、大跨で部屋を横切り赤騎士隊長の正面に立つ。相手を締め上げないことがマイクロトフの最後の理性であった。
「何故もっと早く手を打たなかった、……か?」
自嘲は暗く、引き攣れていた。
「処刑された騎士が城をうろつき、カミュー様に危害を加えようとしている……君はすぐに信じられたか?」
詰まったところへ畳み掛けるようにローウェルは言う。
「この世には多くの魔物が跳梁する。我ら騎士は魔物についての様々を知り、それを退ける武力を得るため精進を重ねる。けれど、魂やら死後の世界とやらに関してどれだけのことを知っている? 人は死んだら土に還る、それ以上の何を信じてきた?」
「…………」
「死者が動いているなら、まだ理解出来る。そうした魔物もいると聞く。だが、姿なき存在による現世への干渉など、我らの常識の範疇にはないのだ。朧げな不安を抱こうとも、現実に起こり得るなどと容易に認められようか」
マイクロトフは異物が喉を伝うような心地で血を吐くような述懐を噛み締めていた。
ローウェルの言う通りだ。
自身も魔守の防具を目にして不可解な不安を覚えたが、城に囁かれる幽霊騒ぎと繋げようとは思い至らなかった。従者の少年の必死の言葉も、最初は欠片程も信じなかった。横にローウェルがいなければ、子供を宥めて引き取らせるだけであったろう。友の身に起きている悪夢も知らず、東棟の自室で呑気に待ち続けていたに違いないのだ。
「申し訳ありません、おれは……」
悄然とした様子を一瞥した男は、ほんの僅かに表情を緩めた。
「謝らないでくれ、マイクロトフ殿。わたしがこのように言えるのは、君よりも少しだけ情報を持っていたからに過ぎぬ」
それから深い溜め息をついて視線を逸らせる。
「どのみち君にはすべてを話す必要がある。わたしは外でランド様をお迎え申し上げるゆえ、……カミュー様を頼む」
最後はひどく逡巡しながらの、弱い懇願であった。マイクロトフはぎくりとして、今は距離を置いた寝台を振り返った。半分程を残して切れ落ちた天蓋の布を除けば既に異変の痕跡すら留めぬ一画は、けれど近寄り難い静けさに満ちている。
「し、しかし、ローウェル殿……」
「別の場所へお移しすべきなのかもしれぬが、わたしの一存では決められぬ。いずれにせよ、ランド様の御指示を仰ぐのが最善と心得るが……あのまま、というのは……」
『いたわしい』と続けなかったのは無意識の自戒だったのだろう。ローウェルら赤騎士にとって、自団長カミューは崇高にして絶対なる存在である。そんな青年に対して憐憫めいた言を洩らすのを憚ったのだ、そうマイクロトフは直感で解した。
今し方、一瞬だけ目にした友の青白い頬。意識を保っているのかどうかすら確かめられていないままだが、舐めた辛酸と衝撃は量り知れず、そんな彼と二人だけで残されるのは恐怖にも等しい。竦みを察したらしい赤騎士隊長が苦く笑む。
「……そんな顔をするな。重い役目を押し付けるようで心苦しいが、今は御側に寄れぬわたしの立場も理解して貰えまいか」
それに、と男は眦を緩めた。
「先程の従者への対処は見事だった。わたしでは斯様には行かぬ。カミュー様が安んじられるのも、おそらくは君の側だけだろう」
斯くまで言われて拒絶など浮かばない。躊躇いがちに同意を示すと、ローウェルは一度だけ寝台を窺ってから退出していった。
心許ない灯の中に暫し佇んでいたマイクロトフだが、気を取り直してそろそろと寝台に向かった。
───何をどうすれば良いのかなど、分からない。
再度の襲撃の可能性を鑑みればカミューを独りにすることは出来ないが、目撃した事態を思えばいたたまれぬ心地ばかりが胸を占める。

ほんの少し前に顔を合わせたというのに。
あのとき、確かに友は異変の片鱗を浮かばせていたのに。
どんな手段を用いても口を割らせるべきだったのか。
そうしていたら何かが変わっていたのだろうか。

仮定に逃避する虚しさを舐め、マイクロトフは唇を噛み締めた。
半端に破れて垂れ下がっている天蓋の布に手を掛けると、柔らかな純白の所々が微かに変色していた。焼け焦げた跡と見られるそれに、攻撃魔法が試みられていたことを知る。
斯くも接近していては力を抑えねばならなかっただろうが、そこに至るまでの友の焦燥は想像に難くない。魔守の防具も上位紋章も何ら救いになり得ぬという現実に直面したとき、彼は何程の失意に打たれたことか。
強張りながら敷布に視線を移せば、先程と変わらずぐったりと四肢を投げ出した友が居る。
「カミュー……」
沈黙に押し潰されそうな自身が恐ろしく、零れるように呼ばわったマイクロトフだが、応えはない。あまりにも生を感じさせぬ姿にぎょっとして目を凝らし、病人じみた弱々しさで上下する白い胸元を確認して安堵する。
ツキリと胸を突かれながらも、今はカミューの意識がないことがありがたかった。
ローウェルはああ言ったけれど、これは従者の子供を宥めるのとは訳が違う。こんな事態に見舞われた親友を安らがせるすべなど、あろう筈がない───自らの心さえ御せずにいる身には。
誇り高き赤騎士団長の肢体には無数の疵が散っていた。それは欝血に始まって、喰らいついたような歯跡や掻き傷、押さえ込んだ際についたと思しき指型の痣まである。斬りつけても何ら手応えを残さず逃げ去った亡者は、だが『こちら側』を害することが可能なのだ。
握り締めていた指を解き、己を鼓舞しながら下肢を覆った布を剥ぐと、今度は吐き気混じりの嗚咽が洩れた。忌まわしき死者が、文字通り妄執を貫いて友を引き裂いた、その生々しさへの衝撃に目が眩むほどだった。
薄明りに白く浮かぶ内腿を汚した体液から目を逸らし、マイクロトフは慌てて浴室に駆け込んだ。タオルを絞り、再び寝台脇に戻ると震える手で友の身体を清め始める。
鮮血を吸って紅に染まった布を床に投げ捨てる頃には耐え難い怒りが視界を霞ませていた。

何故、こんなことが。
何故カミューが、こんなにも気高い男がこんな目に遭わねばならないのか。
何故、自分は何も出来なかったのか。
何故───

「……畜生」
押し殺した怒声が逞しい体躯を戦慄かせ、未だ覚えのない憎悪が膨らんでいく。
これほど純粋な瞋恚に支配されたことはない。
剣を取るのは崇高なる正義の実行、私情を挟まず武力を行使せよ───騎士に与えられる絶対の教義。
けれどマイクロトフは初めて理想の空虚を見据え、憤激に戦いた。
「畜生」
繰り返し呻いて、青白く凍った美貌を見遣り、纏わり付いているばかりのローブを着せ直そうと身を屈め、弛緩した薄い肩口に触れて。
そのときだった。マイクロトフの中に不可思議な陶酔が沸き上がったのは。

 

唐突に自身を支配した情感を、彼は理解出来なかった。友の肌に衣服を通さず触れたことへの戸惑い、それだけで片付けるには及ばぬ熱が瞬く間に意識を覆い尽くす。
ローブを掻き集める筈だった掌は、思いに反して動きを止めて、代わりになめらかな首筋へと移った。微かな脈動を探り当てたマイクロトフは、いつしか甘やかな迷妄に包まれていた。
己の目前に無力に横たわる青年、清廉な肌に汚濁の爪痕を残すカミュー。優美で柔らかな、温かくしなやかな肉体。
掌が首筋を伝い下りて露な胸元へと至る。肋の隆起に慎ましく鎮座する淡い色付きを、慈しむように指先が掠めて。

 

───欲しい。

 

意識の何処かで何かが囁いた。
砕けるほど抱き締めて、甘い息を零す唇を塞ぎ、滾る情熱を彼に沈めて。
混じり合い、溶け合って刻を忘れ、やがて彼がすべてを放棄して跪くまで絶頂を繰り返し───

 

「……やめろ!!」
絶叫して、マイクロトフは何時の間にか乗り上げていた寝台から転げた。床に這い、暫し周囲を見回した後、両肩を震わせて額から滴り落ちる汗を睨み据える。
何が起きたのか分からなかった。
カミューは掛け替えのない友である。人柄、そして騎士としての才覚に至るまで、何一つ昏い陰りなど交えぬ真っ直ぐな情愛を捧げるに躊躇わぬ、唯一絶対の親友なのだ。
そんな友を踏み躙じった暴力に唾棄しながら、傷ついた彼に欲情した。己に対する不審は凄まじく、存在そのものを揺るがさんばかりにマイクロトフを打ちのめしていた。

 

「マイクロトフ殿……どうした、大丈夫か?」
戻ったローウェルが扉から顔を覗かせ、怪訝そうに声を掛けるまで、マイクロトフは身じろぎも出来ずに床に座り込んでいた。
自らが狂気に足を踏み入れているという絶望的な恐怖に縛られたまま。

 

 

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今回は別に取り憑かれてる訳ではございません。

 

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