足早に廊下を進む男の背には、得も言われぬ緊張が漲っていた。石床を弾む靴音をぬってマイクロトフは呼び掛けた。
「ローウェル殿、何か知っておられるなら教えてください」
無言を通す赤騎士隊長に尚も訴える。
「亡霊がこの城を闊歩していると……単なる従者の噂話ではないと、あなたは本当に信じておいでなのですか?」
ローウェルは、そこで僅かに歩調を緩めた。マイクロトフが追い付き、隣に並ぶのを待ってから重い調子で切り出す。
「君も知っての通り、先日わたしの部下が絞首の刑に処せられた」
声音は自らが与る一隊から出した重罪人への複雑な心情に掠れていた。同位階者として、その痛恨は理解出来るマイクロトフだ。痛ましい思いを抱えて頷くと、赤騎士隊長は続けた。
「従者の間で幽霊騒ぎが持ち上がったのは、ヘインが処刑された夜からなのだ。夜の歩哨に怯える軟弱者の洩らした与太話───殆どの騎士はそう片付けようとしている。だがな、マイクロトフ殿。従者というのは感受性の強い年頃だ。我々に見えぬものが見えたとしても、決して不思議はない」
マイクロトフは幾許かの意外を込めて男を見詰めた。この赤騎士隊長は他の誰よりも現実的で、己の目に映るものだけを信じる人物とばかり思っていたからだ。
注視に心中を悟ったのか、ローウェルは微かに片頬を歪めた。
「それに……従者と言えども騎士の端くれ、生半なことでは腰を抜かすほど腑抜けたりはしないだろう。あの子供は確かに何かを見た、あるいは感じ取ったのだ。我々の常識を超えた異質を、な」
死者の魂が居城を徘徊しているという想像は相変わらず現実味を欠いていたが、その異質の目指す先を過らせたと同時にマイクロトフの心拍は跳ね上がった。それは冷えた手で首筋を撫でられたような怖気でもあった。
「魔守……」
独言のように呟いた彼を、ローウェルは怪訝そうに一瞥する。
「どうした?」
「金のエンブレムがカミューの部屋にあったのです。あれは魔守を高める防具、もしかするとカミューも……」
───その存在を感じていたのではないか。
言い淀んだ先を察したように、ローウェルは険しさを増した表情で歩調を上げた。断ち切れた会話の奥に未だ秘められたままの真実を知り得ず、ただマイクロトフは男と並んで先を急いだ。
やがて廊下の最奥で張り番騎士が二人を迎えた。
先程見送ったばかりのマイクロトフが赤騎士隊長と揃って姿を見せたこと、更には彼らの並々ならぬ様子を訝しく思ったのか、騎士は自ら歩を進めながら口を開いた。
「如何なさいました?」
「カミュー様は部屋におられるのか」
神妙な面持ちで張り番騎士は小首を傾げた。
「はい、先程わたくしがマイクロトフ様をお送りした後は御出掛けになっておられませんが……」
「誰か通したか?」
単刀直入に過ぎる質疑に戸惑う騎士にマイクロトフが急いで付け加えた。
「おれが退出してからカミューの部屋に誰か通したか?」
叱責にも近しい二人の口調に怯みつつ、騎士は毅然と返した。
「いいえ、誰も。何方もお通ししていません。ランド副長も御戻りになられておりませんし」
では、とローウェルは勢い込んで命じた。
「早急に戻っていただかねばならぬ。どれだけ人を使っても良い、ランド様を御探しせよ」
張り番として任ぜられているのを忘れさせるような厳しさに、騎士は強張り、即座に拝命の礼を取った。
駆け出さんばかりの様相で去っていく騎士を一顧だにすることもなく、ローウェルは目前に広がる廊下を睨み据える。壁に設えられた灯が朧に揺れて、二つの扉を浮かび上がらせていた。男の横顔に臨戦にも似た獰猛を見たマイクロトフの胸は、再び収斂に締め付けられていく。
───そう言えば、遅い。
湯を済ませたら、とカミューは言った。
常から配慮に厚い彼のこと、長く友を待たせるとは考え難い。赤騎士隊長との立ち話、そして従者との遣り取りに費やした時間を考えれば、未だカミューが部屋に残ったままというのも妙ではないか。
赤騎士団長私室の扉の前に立つ頃には、形にならぬ焦燥が戦慄きとなって溢れるほどだった。
ノブに手を掛けたマイクロトフは複雑な眼差しで見守る赤騎士隊長に気付いた。
「ローウェル殿?」
「いや……」
短い逡巡の後、彼はそれまで抱えていた冊子の束を床に置いた。抜刀に備えて身軽を期したものの、懸念が現実であるなら武力が意味を為さぬ予感もあるのだろう、男の目には抑えた苛立ちが認められる。
軽い促しの会釈を合図にマイクロトフは扉を押し遣った。
「入るぞ、カミュー」
ゆるゆると開いていく扉の先、見慣れた友の部屋には薄闇が垂れ込めている。退出時とは一変した様子に息を飲みつつ、廊下の灯を得ようと背後の赤騎士隊長を窺い掛けたが、不意に闇の奥から響いた微かな音がマイクロトフを釘付けた。
「───マイクロトフ殿」
進路を塞がれたかたちのローウェルの呼び掛けにも応じられず、視界の利かぬ室内の一点を睨み付けたまま立ち尽くす。終に焦れた男がマイクロトフを押し遣るように隣に並んだが、彼もまた短く息を吸って凍りついた。
カーテンの僅かな隙間から零れ入る外光、そして廊下からの灯光。それだけが部屋を完全なる漆黒と隔てる脆い恩恵である。その最奥、淡い明かりを頼りに覗いた寝台が妖しく軋めいていた。
耳障りな音に呼応するが如く洩れた喘ぎは、紛れもなく友のそれである。苦痛とも快楽ともつかぬ余喘めいた途切れがちの息、艶かしい衣擦れや淫靡に揺れ動く天蓋の布が秘事を如実に伝えていた。
マイクロトフの脳裏から一切の思考が吹き飛んだ。
得体の知れぬ異質が友に忍び寄っている、そこまでは辛うじて受け入れたものの、目前の事態は彼の許容を超えていた。寧ろ、他人の房事に直面してしまったという本能的な羞恥と困惑が上回り、踵を返さねばとすら思った。
親友には騎士団内に思い交わした相手がいて、その人物との逢瀬のさなかなのだ。
ここに居てはならない、侵入を気取られぬうちに直ちに部屋を出なければ───大酔した意識が努めて理性を保とうとするように、強いて常識的な進退を捻り出そうとした、そのとき。
隣で同様に硬直していた赤騎士隊長がきつく腕を鷲掴んだ。
「見えるか、マイクロトフ殿」
声は掠れて聞き取り難い。見てはならぬものを目撃してしまった動揺はマイクロトフにも劣らぬであろう男は、だがほんの僅かだけ沈着に長じていた。直視しろと言わんばかりにマイクロトフを向き直らせ、顎を杓る。
尚も躊躇いながら指し示された方向に目を向けたマイクロトフは、咄嗟に声を上げそうになった。
外光の加減か、あるいは目が闇に慣れてきたためか、先程よりも室内の様子が窺い易くなっていた。そんな中、寝台を覆い隠す布が光に透かされ、ぼんやりとした影を浮かび上がらせている。
陰影は男を象っていた。二人に背を向ける格好で半身を起こし、淫らな律動を繰り返している忌まわしき侵入者。その首のあたりから天井へと続いているかの如く映る一条の影───
「……絞首の縄だ」
半ば独言じみた口調でローウェルが呻く。低い声に重なって、奥まった寝台でも絶え入るような吐息が喘いだ。
「マ、……───」
聞き慣れぬ、弱く掠れた響きは意味を為さぬ苦悶でしかなかった。けれどそれが己の名であり、救いを求めているのだと自覚した刹那、マイクロトフは慟哭にも近しい憤怒に支配された。
走りながら剣を抜き、天蓋の布ごと男の影を両断する。布地の裂ける悲鳴が耳を劈いたけれど、手応えらしきものはなく、破れ落ちる布の狭間に苦しげに眉を寄せた白い貌だけがちらついた。
マイクロトフは息も荒く、狂ったように周囲を見回したが、姿なき暴行者の気配は完全に消え失せていた。
静寂の檻と化した室内から視線を移したが、凌辱から解放されたとは言え、既に意識も覚束ないのか、カミューは目を開けようともしなかった。
ひらひらと舞い降りた布が露な下肢を覆ったのは、何ものかの慈悲であったのかもしれない。
おそらくはカミューのみならず、マイクロトフにとっても。
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