入り組んだ回廊を弾むように進んでいた靴音が次第に速度を落とし、遂には止まった。一度は点った高揚も、一足毎に萎むばかりで、今はただ後ろ髪を引かれるような心地だけが広がっている。
背後を振り返ったマイクロトフは、知らず重い息を零していた。
城は夜間体制に移行し始めており、この西棟でも騎士の数は疎らになってきている。視界に入る男たちの足取りは一日のつとめを終えた解放感によってか、軽やかだ。
何の変哲もない日常、有り触れた宵の入り口───けれどマイクロトフのうちには、説明の及ばぬ憂慮が澱んでいる。
何かが不快の警鐘を鳴らしていた。卓上に置かれた魔守の防具、不可解な憔悴を漂わせていた白い貌。琥珀の瞳に潜んだあえかさが、歪な影を胸に落としているのだ。
独りにしてきて良かったのだろうか。
どれほど不躾であろうと、あの場でとことん問い詰めてみるべきではなかったか。
過った不安を、それでもマイクロトフは最大の努力で覆い隠そうと努めた。
急いてはならない。機会は与えられたのだから。
友が何を抱えているのかは分からない。
けれど、もし自分が赤騎士隊長の言うように彼にとって特別の存在であるならば、何らかの形で心を和らげることも叶うだろう。
そう思い直して再び歩を進めたときである。
長い廊下の片側に据えられた扉の一つが開き、赤騎士隊長ローウェルが姿を現わした。
この西棟と青騎士団が本拠とする東棟は、中央棟を軸としてほぼ対象の造りを為している。そこから鑑みるに、部屋は調べ物などをする際に使われる簡易な読書室であろう。想像通り、男は数冊の古びた冊子を手にしており、酷使したのか、目頭を指で押さえている。
呼び掛けようとして、だがマイクロトフは躊躇した。
元々厳つい容貌の人物であるが、このときの赤騎士隊長は声を掛けるのも憚られるほど硬い表情だったのだ。部屋から出たものの、その場に立ち尽くしたまま身じろぎもせぬ姿を見て、一度は振り払い掛けた懸念がじわりと頭をもたげるのを感じずにはいられない。
やがて注視に気付いたのか、彼はマイクロトフに視線を向けた。底光りするようだった瞳が和らぎ、何気なさを装った笑みが浮かぶ。軽く会釈して距離を詰めたマイクロトフは、周囲を窺いながら小声で囁いた。
「カミューと会ってきました」
「早速行動してくれたのだな、感謝する」
いえ、と首を振ってから表情を改める。
「この二日あまり、どうやら寝不足だったようです」
たちまちローウェルは眉を顰た。
「御休みになっておられない? 何か訳有りの御様子だっただろうか?」
「何でも一昨日の夜に夢を見て……寝台で眠ると同じ夢を見そうだからと、昨夜は夜勤騎士に混じって夜明かししたとか」
マイクロトフ自身、説くにつれて釈然としない思いが募るばかりだ。同じ心持ちだったのだろう、ローウェルはいっそう厳しくなった面持ちで呻くように呟いていた。
「夢……? 寝台で眠るのを厭われた、と……?」
「ええ、不快な夢だったようで」
「不快な夢───」
独言じみた響きが繰り返す。冊子の束を握った手に力が増したようだった。マイクロトフは小さく頭を垂れた。
「力及ばず申し訳ありません、内容までは……。気分を変えたらどうかと、今宵はおれの部屋に招くことにしました。改めて事情を問うてみようと思っているのですが」
そこでローウェルは我に返ったように瞬いた。
「ああ、いや、すまぬ。君が詫びる必要などは……」
言いさしたところで、廊下の先から何やら騒然が伝わってきた。会話の中断に心を残しつつ、二人は顔を見合わせ、足早に喧噪へと向かった。
交差した幾つかの廊下の一つに数名の人だかりが出来ている。怒声、そして宥めるような声が交錯していたが、騎士隊長らの足音が居並ぶ赤騎士らを一斉に向き直らせた。
「こ……これは失礼を致しました!」
厳粛を義務付けられた訓戒に反した場を他団の騎士隊長にまで目撃されたことに恥じたのか、居並ぶ赤騎士らは ばつの悪そうな顔を隠さなかった。
「何を騒いでいるのだ」
第一隊長の厳しい質疑に一人が進み出て威儀を正す。
「無作法をお詫び申し上げます。この者の様子が……対処に苦慮しておりました」
騎士の促しに従って仲間たちが輪を解いた。現れたのは年齢からして従者と思しき少年だ。未だ小さな手足を縮めて、石壁に背を当てて床に座り込んでいる。
尋常でない様子に眉を寄せたローウェルは騎士らに視線を巡らせた。
「あちらの廊下の端まで声が聞こえたぞ。ただでさえ竦んでいるらしいものを、大勢で取り囲んで責め立てては萎縮するばかりではないか。最初に見つけた者を除き、直ちにこの場を去るが良い」
赤騎士らは一切の反論も上らせることなく直ちに礼を払った。一同が立ち去った後、第一発見者として残った騎士が案じる口調で切り出した。
「わたしが通り掛かったときには既にこの状態でした。随分長いこと座り込んでいたようなのですが……特に怪我をしているようにも見えませんし、体調が優れぬのかと呼び掛けても声一つ洩らしません」
少年は両腕で自らを抱き込むようにして震えている。眼差しは虚ろで、傍らに屈み込んだ赤騎士隊長が肩を揺らしても為されるがままだ。
「こちらの声がまるで聞こえていないようで……どうしたものかと苦慮するうちに人が集まってきてしまいまして、先程のような事態に……」
暫し少年の表情を窺った後、ローウェルは両肩で息をついて意見を求めるようにマイクロトフを見上げた。
───怯えている。
それは確信だった。
仮にも騎士団の末席を温める身が、こうまで怯え切った様相を曝しているのは異様だ。あるいは無様などという言葉では貶められぬ事態に遭遇したに相違ない、そう考えたマイクロトフは、赤騎士隊長同様に少年の脇に膝を折った。
逞しい両腕を伸ばし、赤騎士らが呆気に取られるのも構わず従者を抱き寄せる。触れた途端に激しく戦慄く小さな身体をすっぽりと包み込み、優しく背を叩きながら囁いた。
「大丈夫だ、何も恐れる必要はないぞ」
未来の騎士候補たる己を失い、ただの子供に返って怯える少年。言葉すら耳に届かぬとあっては、温みだけが現実に引き戻す唯一の手段だ。
理屈ではなく、本能でマイクロトフはそれを知っていた。
「……分かるか? 恐れなくても良いぞ、おまえは一人ではない。我らがここにいる」
青騎士団の筆頭隊長ともあろう人物が、たかだか従者の子供を抱いて宥める姿に赤騎士は唖然としていた。だが、ふと目を見開いて感嘆の息を洩らす。従者の肩の震えが緩やかに止まろうとしていた。気付いたローウェルも励ますように言葉を重ねた。
「マイクロトフ殿の言う通りだ。しかし……理由が分からねば護ってやることも出来ぬ。話せるか?」
すると少年は、いま一度大きく肩を戦慄かせてから嗚咽混じりに呟き始めた。
「見た、んです……」
「…………?」
「嘘じゃない、本当に見たんです」
マイクロトフの胸に伏せたまま、くぐもった声が繰り返す。三者は顔を見合わせ、辛抱強く続きを待った。
「……これが初めてじゃないんです。出鱈目を言うな、って正騎士の方々に怒られるけれど……ぼく、本当に……」
焦点のぼやけた言及に束の間苛立ちの色を走らせたローウェルだったが、声音は穏やかだった。
「ならば、信じねばなるまいな。いったい何を見たのだ?」
「……幽霊、です」
今度こそ呆けたように赤騎士が嘆息した。上位階者まで煩わせておいて、事もあろうに埒もない幽霊騒ぎか、とでも言いたげな顔つきである。
マイクロトフも戸惑いを覚えずにはいられなかった。先日カミューから聞き及んだ従者間の噂と、こんなところで行き合うとは───そんな苦笑を誘われそうにもなった。
押し黙ってしまった騎士らに焦燥を駆り立てられたらしい少年が、マイクロトフの腕から零れ出て叫んだ。
「本当です! つとめを終えて兵舎に戻ろうとしたら、後ろから話し掛けられたんです。なのに、振り向いたら誰もいなくて……本当なんです、信じてください!」
そこで初めて他団の騎士隊長に抱き締められていた自身に気付いたのか、従者は仰天して座り込んだまま背を正した。
「し、失礼を……すみません!」
どうやら完全に理性を取り戻したようだが、未だ少年は怯え続けている。不憫に思い、気休めだけでも与えようと口を開き掛けたマイクロトフだが、果たせなかった。傍らの赤騎士隊長の表情に気付いたからだ。
豪胆で、日頃から動揺など見せたことのない男が愕然を浮かべている。さながら、自らこそが同様の体験を舐めたかの如き様相であった。
「……話を、した……だと?」
殆ど顔色を失ったまま彼は低くうめいた。赤騎士が怪訝そうに見守るのも頓着せず、膝で一歩進みながら少年の両腕を鷲掴む。
「答えよ、何と話し掛けられたのだ!」
その剣幕に一瞬竦み上がったものの、今度は応じるだけの気力を保てたようだ。嘘偽りでないことを証す決意か、少年は真っ直ぐに上官を見詰めた。
「『カミュー様は何処か』───そう尋ねられました」
思いがけず飛び出した名にマイクロトフがぎくりとする間もなく、男は畳み掛ける。
「御所在を答えたのか?」
「はい、私室だと思います、と……。お部屋に向かわれるのを見ていたので……」
ここへ至って少年も感じ始めたようだった。
赤騎士隊長の関心が、少し前から従者の間で囁かれてきた『幽霊騒ぎ』そのものではないらしい、と。
彼が既に事態を現実のものと受け止め、交わされた遣り取りこそを重く捉えているのだと。
「ぼ、ぼく、正騎士の方がカミュー様を探しておられるのだとばかり……、それで……でも……」
途切れがちの必死の弁明を、だがそれ以上聞こうとはせずにローウェルは腰を上げた。控えた赤騎士に向き直り、低く命じる。
「この者を兵舎まで送ってやるがいい」
「はい、ローウェル隊長」
騎士もまた、上官の常にない緊張を察したのか、強張った礼を払った。ローウェルは再び少年に視線を戻し、精一杯の慰撫を滲ませた口調で告げた。
「おまえを信じよう。しかし、これは他言してはならぬ。良いな、何があっても沈黙を守れ。万が一、流言が飛び交うような事態になれば……おまえを斬らねばならなくなるやも知れぬ」
少年は無論のこと、マイクロトフも驚いて息を飲んだ。男の面差しには一切の誇張がない。たとえ意味は量れずとも、同意以外は許さぬ厳しさが満ち満ちている。
従者の少年はよろめきながら赤騎士隊長の前に立ち上がり、震え声で言い放った。
「決して誰にも言いません。誓います、ローウェル様」
満足げに頷いた彼は部下を一瞥した。心得たように従者を伴って去っていく騎士を見送った後、マイクロトフは押し潰されそうな心地で切り出した。
「今のは一体どういう意味なのです? おれも噂は耳にしたが……亡霊がカミューを探していると? ローウェル殿は噂を信じておられるのですか?」
それには答えず、彼は逆にマイクロトフを睨み据えた。
「穿ち過ぎなら、それで良い。だが……欠片でも懸念が生じた以上、見過ごすことは出来ぬ」
赤騎士隊長の言葉はマイクロトフの心情そのままだった。随行を確信したのか、彼は説明を中断して冊子の束を握り直しながら歩き始める。
足早に隣に並んだマイクロトフの脳裏には、今まさに向かわんとしている部屋で見た魔守の防具の輝きが陰鬱に蘇ろうとしていた。
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