幅広い後ろ背が扉から出ていくのを見送った後、僅かばかり浮かんでいた笑みが掻き消えた。白い美貌を埋める陰りは死者の虚ろにも似て、やがて体躯をも戦慄かせた。
        ちらと巡らせた琥珀の視線が、無造作に投げ置かれた金色に止まる。
        マイクロトフもその存在に気付いただろう。
        ───奇異に思われただろうか。
        魔守を高める装備として知られるそれを入手したのは気休めでしかない。ひっそりと息を吐いて、カミューは卓上のエンブレムから目を逸らせた。
        常なる毅然を失った歩みが部屋続きの浴室へと向かう。
        珍しく早い時間帯に自室へ戻った騎士団長の疲労を慮ったのか、従者の少年は大慌てで湯の用意を整えてくれた。気遣いはありがたかったが、少年が去ると同時に襲った倦怠は耐え難く、そのまま長椅子で眠り込んでしまったのだ。
        浴室内は籠もった蒸気で視界もままならず、半ば探るように湯温を確かめる。冷めてはいるが、耐えられないということもなさそうだ。濡れた手を払いながら、彼は設えられた鏡に目を向けた。
        曇った面に滲む己の輪郭。差し伸べた片手で湯気を払うと、見慣れぬ心細げな貌が見返していた。微かに震える指先で襟元を寛げた途端、忌まわしき狂乱が蘇る。
        あれは悪夢でしかなかった。
        こうして闇の残骸さえ刻まれてなかったなら──それでもやはり自嘲はしただろうが──淫夢が通り過ぎたと思い込むことも出来たのに。
         
        見えざる力に屈伏させられ、沈められた寝台の中で与えられた暴虐なる甘美。
        抗いを押し止めた万力は、今もカミューの手首に薄赤い跡を残している。指のかたちに見えるそれが、異端の姿を物語るようだった。
        あの夜、部屋には確かに彼以外の何かが存在したのだ。目に映らぬ、掴み締めようにも擦り抜けてしまう幻のような悪鬼が。
        この世には多くの魔物が跋扈している。騎士として人並以上の知識を持つとしても、未だ知らざる魔性は星の数だろう。それでも、一昨夜の来訪者が世の魔物と一線を画しているのは確かなようだった。
        白磁の肌には爪跡に似た裂傷が刻まれているが、致命を目してつけた傷とは言い難いものだ。かたちを持たぬ牙が肉を噛み、爪が喉首でも裂いていたならば、あるいは未知の魔物と分けられたかもしれない。しかし、静寂の狭間から突如として現れ出た『それ』は何処までも不可解かつ傲慢、そして淫猥だったのだ。
        渾身の抵抗を封じられた両の手首は絞られる疼痛に悲鳴を上げていた。にも拘らず、着衣の内に分け入った触感は唾棄したいほど優しく淫らにカミューの官能を掻き立てたのだ。思い返すたびに打ちのめされる、喜悦に満ちた悪夢の宴だった。
        無論、カミューとて易々と快楽に屈した訳ではない。
        だが、何が出来ただろう。
        剣を手に対峙した相手になら、幾らでも勇敢に立ち向かえる。周囲に忍び寄る策謀や悪意ならば、幾らでも冷静に排除することが出来た。
        けれど、肉体を押さえ込むだけの力を持った見えざる敵が相手では、戦うすべなどあろう筈がなかった。
        沈黙を強要され、果ては狂おしい喘ぎすら零すこともままならず。
        それは彼にとって初めての敗北だった。
        なまじ屈伏を知らぬ身に、あまりにも底のない無力と絶望だったのだ。
        自壊へ転がり落ちそうになる自らを護る手段は一つしかなかった。そうして選ばざるを得なかったのもまた、カミューにとって自虐混じりの道ではあったけれど───
         
         
         
        一旦部屋に戻り、箪笥から着替えを取り出した。襟の開かぬ服でなければ、悪夢の痕跡を隠せない。案ずるばかりだった漆黒の瞳の真摯を思い、カミューは再び息を吐いた。
        改めて浴室に踏み入る前に居室を一望する。
        窓の外には完全に闇が降りたけれど、未だ宵の口、部屋中の灯も点してある。あれが世俗に言う亡者ならば、出現する環境は整っていない筈だった。
        何ら根拠のない安堵を自嘲して、カミューは衣服を滑らせた。友を待たせているといった焦りを置いても、肌身を露にする行為に幾許かの不安が付き纏う。手早く済ませてしまおうと湯船に手を掛けたとき。
        ───鋭敏な自衛の琴線を何かが弾いた。
        即座に壁に掛けてあったローブを掴んで裸身を覆う。愛剣は部屋に置いたままであったが、然して落胆もしなかった。勢いも荒く開け放った扉の先に待っていたのは、漠然とした予期に違わぬ陰鬱な闇だったからだ。
        部屋の隅々で炎を摘み取られた蝋燭が儚い白煙を立ち上らせている。燻された臭気の中に、今宵カミューははっきりと異端の匂いを嗅ぎ取った。
        窓辺から差し込む申し訳のような明かりが床に長い影を落としている。目には見えぬ来訪者のかたちを描いているのだ。およそカミューの知る魔物では有り得ぬ、それは人の陰影であった。
         
        「騎士、なのか……?」
        呻き混じりに呟く。
        「……迷ったのか」
        ───それとも。
         
        次の刹那、目視出来ぬ恐るべき力がカミューを寝台に突き飛ばした。
        起き上がろうとしたところへ被さる圧力が容赦なく彼を敷布に沈める。ローブの襟が割られ、剥き出しにされた胸元が天蓋の布を伝う脆い月明りに映し出された。
        亡者の望みを悟った以上は躊躇など不可能だ。姿なき暴行者の手に弄られる肌の撓みを堪えつつ、喉の奥深く詠唱を終えたカミューは、圧し掛かる気配に向けて烈火の焔を解放した。
        密着した敵であること、更には燃え易い寝具が意識を掠め、力は抑えざるを得なかった。
        しかし、それでも効は奏した。空へ放った炎は確実に異質を捕えていた。紅蓮は紛れもない人型に輪郭を揺らしている。敷布の端まで退ったそれは、さながら焼死の苦悶に似た動きを見せたのだ。
        身を押し潰していた重みが失われた隙に寝台を飛び降りようとしたカミューは、だが世にもおぞましい光景によって阻まれた。
        焔の輝きが急速に衰え、完全に光が引いた後には灰が如き白濁が残る。ゆるゆると蠢く異質は次第に外郭を整え始め、終には完全な人の形となって鎮座した。
        仇為す敵が、たとえ虚像に過ぎずとも肉眼に捉えられるようになったのは、抗う身にとって幸運の筈だった。
        けれど今となっては自身がそれを望んでいたかも定かではない。何よりカミューを脅かしたのは、月光が白濁に刻む影が見覚えのある貌を象っていたことだ。
         
        まともに対峙したのは一度きりだった。
        暗澹たる静寂に包まれた大会議室、居並ぶ法議会議員たち。逃れようのない大罪を背に引き出された男は、断罪の裁可を下すカミューを表情もなく見詰めていた。
        議場から連行されるとき、沈痛な心地で見送る彼に払われたひっそりとした礼。無言のまま、ただ仄暗い瞳の一瞥を残して死途へと追い立てられていった男───
         
        「……恨んでいたのか」
         
        議場で唯一、弁護の権限を持ちながら放棄したことを。
        一切の慈悲を与えず、絞首台へ送り出した騎士団長を。
         
        「わたしを恨んで迷ったのか」
        僅かな距離を挟んで寝台上で対峙したかつての部下は、ともすると薄れゆく像をゆらめかせながら落ち窪んだ眼差しをカミューに当てた。亡者の唇が虚ろに開き、いいえ、と動いたように見えた気がした。
        許容の限界を超え掛け、それでも必死に現状打破に務めようと試みたカミューだったが、寝台の足下で悄然と凝り固まっていた異端が再び前進を開始するのに気付いて息を飲む。
         
        ───どうすればいい。
        実体なき死霊を、どう退ければ良いのか。
        攻撃魔法も足止めにしかならぬ相手に、人の身でどう抗えというのか。
         
        何ら救いを見出せぬ無力から、退るしかないカミューの白い足首に向けて亡者の長い手が伸びる。
        怨念を、恥辱で返すつもりか───まともな思考はそこまでだった。
        這い上がる情欲がローブの裾を割る。一昨夜とは比較にならない凄まじき力が四肢を押さえ込み、抗うどころか身じろぎすら叶わない。声を上げようにも、悲鳴は枯渇して荒い息遣いへと成り代わる。
        魔性は確実に変貌していた。さながら忌まわしき触手が粟立つ肌から恐怖を舐め取り、己が糧としたかのような圧倒的な力の増大を遂げている。
        死霊の蹂躙はカミューを苛み、仰け反らせ、喘がせた。
        半ば透けた青白い唇が目前に迫ったときには、知らず救いを求める苦鳴が零れ落ちていた。
        「マイクロトフ……!」
         
        初めて味わう極限の戦慄、自失へ逃げ込みそうになる己を鼓舞する絶対の存在。密かに心を寄せ、踏み出せぬ想いと知りつつ片時も離れ得ぬ男の笑顔。
        摂理に外れた闇の愛撫を、慕わしき存在に与えられるそれと摺り替える。
        零す吐息に熱が籠もるのは、想う相手と肌を重ねているから。
        身体が悦びを吐き出すのは、唯一なる男に与えられる情愛だから───
         
        組み伏せる亡者の頬が歪むように夜陰に滲んだ。次の瞬間、カミューは下肢の間に分け入ったおぞましい圧迫に硬直した。
        「やめろ、……ヘイン!」
        結合を目論む死した部下の形なき欲望───裂帛の痛みがカミューの意識を紅に染めた。
         
         
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