PHANTOM・4


マイクロトフが赤騎士隊長ローウェルに呼び止められたのは、一日のつとめを終えて部隊の詰め所に戻ろうとしているときである。
同位階ながら遥かに年長である赤騎士に深い礼を払ったマイクロトフだが、男は頓着する素振りも見せずに足早に歩み寄った。
「すまぬ、少々時間を取れるか?」
ただでさえ剣呑とした顔つきの中に何処か焦燥めいたものを感じて、マイクロトフは困惑した。
「何かあったのですか?」
「……場所を変えよう」
短く言うなり、ローウェルは踵を返した。
他団の騎士が訪ねてくるのは稀だ。まして、つとめ明けを狙ったかのように現れた男の深刻な面持ちが懸念となって全身を包む。
先に立って城を抜け、街を見下ろす見晴らし台に向かう赤騎士の足取りは早い。遅れぬように背を追いながら、次第にマイクロトフの表情も強張り始めた。やがて人気のない見晴らし台の隅で足を止めたローウェルは、振り返りざまに低く言う。
「挨拶がまだだった。ミューズでは何事もなく、何よりだった」
生真面目な礼節に謝辞を述べる間もなく、彼は続けた。
「帰還したのは一昨日の夜と聞いているが、それからカミュー様と会ったか?」
マイクロトフは眉を寄せながら頷いた。
つい今し方のことのように思い出せる。白い美貌を憂いに染め、それでも戻った友に微笑んだ青年。語るうちに迷いを払拭し、気高く背を伸ばして視界から消えていったカミュー。
「ええ、帰還したその日に食堂で顔を合わせました」
ふむ、と腕を組んで考え込んだ赤騎士隊長が更に問うた。
「そのとき、何か変わった御様子は見られなかったか?」
「変わった……?」
部下の不祥事に胸を痛め、死した少年を悼んでいた。けれど、それがローウェルの言う『変事』に結びつくとも思えない。思案に暮れていると、男は質問口調を改めた。
「実は……昨日今日と、カミュー様がいつもと違っておられるような気がしてならない。塞いでおられるというか、覇気が感じられないというか……」
「カミューが?」
重く頷いたローウェルも途方に暮れた様子である。
「わたしだけではない、ランド様も同じ御意見なのだ。無論質してはみた。御身体に障りがあるなら、休まれた方が良かろうと……、だが……」
何でもない、と言い張られたのだろう。その遣り取りは目に浮かぶようだ。カミューが少々の疲れや不調で任を放棄する筈もない。無理を押して倒れるまで、彼は自身のつとめを果たそうと走り続ける騎士だ。
「おれがカミューと話したのは一昨日が最後です。そのときは特に体調不良などは窺えなかった。カミューのことです、夜を徹して裁可だ読書だと無理をしたのでは?」
赤騎士団の要人らが如何に日頃からカミューを気遣っているかを知るマイクロトフには、そんな気休め程度のことしか言えない。所属の異なる身より、余程彼らの方がカミューの現状は熟知している筈なのだから。
だが、相変わらず浮かない顔のままローウェルは呟いた。
「……それだけだろうか」
マイクロトフを凝視した瞳には重苦しい沈痛がある。
「わたしには寧ろ、何か……こう、精神的な問題のように思えるのだが……」
示唆する一件を即座に思い当てて首を振った。
「ヘインという赤騎士と、犠牲になった少年のことは確かに気に病んでいました。しかし、別れたときには吹っ切れた様子でしたし……その件で塞いでいるとは思えませんが」
そうか、と男は足元に視線を落として改めて深い息をつく。かなり逡巡してから、ちらとマイクロトフを一瞥した。
「これを認めるのは少々不本意だが、カミュー様は常に御一人で多くを抱え込まれ、我らに心情を覗かせようとはなさらない。だが、君だけはそんなカミュー様の内に立ち入ることを許されている」
「おれ……ですか?」
「そうだ」
小さく笑って男は続ける。
「わたしから頼むのも妙な話だが、カミュー様の御様子を窺って貰えまいか? 塞ぎ込まれる要因があるなら対処せねばならぬ」
戸惑いがちに、だが即座にマイクロトフは受諾した。
側近にさえ明かさぬ懊悩があるとしたら、聞き出すのは容易ではなかろう。赤騎士隊長の言う通り、彼が他者に頼らざる気質を持っているのは長い交友で知り尽くしていた。
それでも僅か二日の間にカミューが再びの気鬱に苛まれているというなら、何とかしたいと心から思う。
一度だけ詰め所に戻って終課の儀を執った後、彼は真っ直ぐに西棟の赤騎士団長自室を目指したのだった。

 

 

 

 

 

奥まった部屋への唯一の警護となる張り番騎士は、日頃から自団長と親交深い青騎士隊長を迎えて威儀を正した。
カミューが赤騎士団長に就任して暫くの間は、ここで用向きを質されるといった遣り取りが交わされた。
自室を訪ねる際に取り次ぎを要する───それは友との距離を痛感する儀式に等しかった。
けれど、いつしか張り番騎士は微笑みで進入を促すようになり、それが隔てを嫌ったカミューの配慮だったと知って感激したものだった。
今宵の赤騎士の表情はどこか暗い。一騎士にさえカミューの塞ぎぶりは伝わっているらしく、物問いたげな、且つ期待を込めた眼差しが先を急ぐ背に突き刺さるようだった。
扉を叩いて訪いを告げ、だが返らぬ答えにやむなく声を掛けながら足を踏み入れた。
「カミュー、居るのか? おれだ」
呼ばわりながら室内に巡らせた視線が長椅子に横たわる肢体を見出す。
───優美で知られる赤騎士団長が。
いつもならそう苦笑うところだ。しかし此度ばかりは先ず胸を突かれ、歩み寄るのも忘れて息を飲んだ。
不自然な姿勢で身を縮めているためか、カミューは苦しげに眉を寄せている。顔色も悪く、間近の他者の存在も悟れないほどの深い眠りに陥っていた。
起こして寝台に移らせた方が良いのだろうか。
悩みながら、ふとテーブルに置かれた品に気付く。

金のエンブレム───魔守に効力を発揮すると言われる装飾品。

剣をもって闘争に臨む騎士には、あまり一般的な防具の類ではない。彫金の見事はマイクロトフも認めるところだが、何ゆえカミューがこのような品を入手したのか怪訝に思った。
やがて彼は想像に限界を感じて横たわる青年に視線を戻した。薄い肩に手を掛けた刹那、弾かれたように半身を起こしたカミューにマイクロトフは仰天した。
「カ、カミュー……?」
知らず口走ると見開かれていた琥珀が瞬き、恥じたような色が過った。
「……マイクロトフ」
呼び掛けというよりは自らに言い聞かせているかの如き口調。マイクロトフは眉を寄せた。
「すまん、驚かせたか。こんなところで寝入っていては身体に障ると思って……」
いや、と小さく首を振ると口元に漸く笑みが滲んだ。
日頃、目にすれば温かな心持ちを誘われる親友の微笑みが、けれど逆にマイクロトフの不安を煽った。人の機微に敏感とは言えない男だが、長年の親愛からカミューの表情にだけは鋭利な感性が働くのだ。
形良い口唇が象る笑み、しかしそこには一切の感情が絶ち消えていた。さながら街路の店先に並んで道行く人々に笑み掛ける綺麗な人形、そんなものを連想させる不可解な空虚なのである。
「カミュー、どうかしたのか?」
長椅子脇に膝を折って必死に見上げると、茫とした眼差しが緩やかに室内を彷徨った。最後にマイクロトフに当てられた瞳は、やっと僅かながら沈着を取り戻したようだった。
「いや、わたしこそすまない……熟睡してしまっていたようだ。入ってきたのにまるで気付かなかった」
───するとやはり突然の接触に驚いたのか。
先程漂わせた虚ろな表情さえ見ていなければ、そう信じることも叶っただろう。
決してぞんざいな所作ではなかった。
疲れた幼子のような寝姿を痛ましく思い、寧ろマイクロトフとしては不似合いな程に細心を払った接触であったのだ。
にも拘らず、カミューの反応は凄まじかった。それは単に不意を衝かれたという驚愕のみとは思えぬ焦燥に溢れていたのだ。
例えるなら予期せぬところへ襲った刺客、あるいは唐突に触れてしまった汚濁。
そんなものへ向けるような殺気と嫌悪、そして──今一つ認めがたいが──幾許かの怯懦といったものがカミューの全身から放たれていた。
「……疲れているのではないか?」
いよいよ深刻な面持ちでマイクロトフは問うた。
ローウェルの危惧は的中しているらしい。カミューは何らかの問題を抱えている。それも、心中を覆い隠すことに長けた彼にして抱え切れぬほどの重圧を。
誠意を尽くした声音は再びカミューを微笑ませた。今度は先の如き上辺だけ繕ったような笑みではなく、マイクロトフにも見慣れた苦笑であった。
「そういう訳でもない。実は……少々寝不足気味なのさ」
「眠れないのか?」
まあね、と肩を竦めた彼は部屋の最奥に設えられた寝台を一瞥する。
「おまえが帰還した夜に夢……を見てね。あそこで眠ると同じ夢を見そうで、どうにも横になる気になれなくて……、昨夜は一晩中歩哨騎士の間をうろついていたんだ」
「それはまた……」
繊細なことを───そう笑おうとして、だがマイクロトフには出来なかった。
昨夜の夜勤に当てられていたのは白騎士団である。よってローウェルら赤騎士団の要人はカミューが夜を徹したのを知らないのだろう。
眠れぬ夜をどう過ごそうと口を挟むことではないだろうが、結果、他者から認められるほど日常に精彩を欠いていては本末転倒ではないか。
ましてカミューがそんなことに気付かぬとは思えない。明かされた事情はほんの一端に過ぎないのではないかと懸念が募った。
しかし彼はそんなマイクロトフの先手を打つように朗らかに付け加えた。
「お陰で少しばかり体調を崩したようだ。仮眠を取ったから随分と楽になったけれど……心配させたならすまなかったね」
「いや……」
この会話を打ち切ろうとする隔てを敏感に察して口籠る。立ち上がり、躊躇いがちに問うてみた。
「しかしカミュー……寝台で眠る気にならんからといって、椅子に横になっていては休まらないだろう。そこまで徹底して厭うとは、いったいどんな夢を見たというのだ?」
カミューは琥珀を眇めて俯く。洩れた声は聞き取り難いほど低かった。
「……不快な夢、さ」
それ以上の追求を飲み込ませずにはおかない、きつく尖った口調。案じつつもマイクロトフは引き下がる他なかった。代わりにとばかりに俯いた青年の肩に手を掛けて覗き込む。
「ならば、今宵はおれの部屋で休むか?」
「え……?」
口にすると同時に、それはマイクロトフ自身にも素晴らしい提案に思えてきた。
「環境を変えて一晩ぐっすりと眠れば、不快な夢など気にせずに済むようになるだろう。そうだ、それが良い。そうしろ、カミュー」
勢い込んで言う男の顔を、カミューは暫し眩しげに見詰めていた。僅かな思案の後、おずおずと小首を傾げる。
「……泊まっても……良い、か?」
「無論だとも! そうだな、久しぶりにゆっくりと話もしたいし……先日手に入れた珍しい酒がある、あれを開けよう」
そこまで言ってからマイクロトフは慌てて自戒気味に首を振った。
「あ、いや。勿論、睡眠が第一だが」
するとカミューは小さく吹き出して頷いた。それまで彼を覆っていた陰欝な気配が和らぎ、穏やかな面差しが優しく同意した。
「ならば……そうさせて貰うよ、マイクロトフ。先に戻っていてくれないか、湯を使って着替えを済ませてから行く」
一団の長であるカミューと違って、騎士隊長職に在るマイクロトフに与えられた自室は居所と呼べるほどの配慮が為されていない。身を休めるには十分な個室であるが、浴室までは完備されておらず、広さも然程ではないのだ。
そう言えば、カミューに寝台を明け渡した後、己は何処で休んだものか───そんな思案に暮れていたマイクロトフは、再び微かに友に過った暗い影に気付かなかった。
「では、また後でな。酒の用意でもして待っている」

 

久々に親友と共に過ごす夜。
酒の勢いを借りて、カミューを悩ませているらしい問題の核心を聞き出すことも可能かもしれない。
何より、所属に隔てられて交流の時間すら思うに任せぬ青年と傍近く語り合えるという期待が──決して状況を忘れた訳ではないけれど──マイクロトフの心を弾ませていた。

 

 

彼には知る由もなかった。
何者にも侵され難い清廉、隙なく着こなされた真紅の荘厳の下に在る異変───
騎士服に隠された白磁の肌に残る獣の爪痕の如き裂傷、そして所有の刻印にも似た夥しいまでの欝血の存在など。

 

 

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寸止めは殆どの方に予知されていました(笑)
次はやります。←決意

 

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