心地良い適温に用意された湯に沈み、薄茶の髪を掻き上げる。四肢に絡んでいた倦怠が溶け落ちていくような気がした。
───やはり、あの男は特別なのだ。
立ち込める蒸気で火照った頬が苦笑を零した。
赤騎士ヘインと対峙したのは、法議会での最終決議の席だった。カミューは騎士団長として男に絞首を宣告したのだ。
騎士団で最も重く不名誉な刑罰。功績を割り引いて減一刑の斬首を与える道も残されてはいたが、敢えて忠実に訓戒の定めに従った。死んだ少年への哀憐が、部下への情に勝ったからである。
十五、六と言えば、ちょうど正騎士叙位にあたる年回りだ。騎士ならば開き始めた未来への期待に胸を膨らませている年頃に、無惨にも命を摘まれた少年。それだけでも痛ましいものを、暴行が加わったとあっては弁護どころか唾棄を覚える。
揉み合ううちに図らずも首を締めてしまったと詮議の委細は告げていたが、たとえ殺意が否定されたところで非道には変わりない。
処刑が済んでも心は晴れず、側近たちの案ずる眼差しに見守られながら陰欝な日を過ごしていたカミューだが、漸く久方ぶりに平穏を取り戻すことに成功した。
朴訥な友の真摯な慰撫。見詰める漆黒の瞳の毅さが心を覆う暗雲を拭い去ってくれた。
彼の言う通り、思い悩んだところで解決に至らないのは分かっていたのだ。先に進まねばと頭では理解していても、何故かその場に縫い止められてしまうときがカミューにはある。
マイクロトフは、そんな背中を押してくれる唯一の存在だ。他の誰でもない、彼だけがカミューを癒し、安堵させ、奮い立たせる。
湯を切って、片手を掲げてみる。大きく温かな掌に包まれた感触が未だ残るようだった。目前に翳した指の微かな震えに気付き、カミューは更に苦々しげな笑みを浮かべた。
まったく、どうしたものだろう。
初心な乙女さながらに男に握られた手を噛み締める、この様は。
一切の世事を忘れ、ただ温もりに酔い痴れそうになった一瞬を、嫌悪どころか切なさで反芻させられ───似合わぬ怯えに竦んでいる。
これまで付き合ったどの乙女にも覚えなかった胸の揺らぎを、あの男は掻き立てる。安堵させられるのも確かだけれど、それ以上の痛みを植えつけていくのもまた事実だった。
何より腹立たしいのは、同じ衝動に襲われているらしいマイクロトフが、未だその本質を見極めるに至っていないことだ。
あの倫理に堅い男は容易に認めようとはしないだろう。
抱く筈のない想い、陥るべきではない関係。己を欺瞞で封じ込めようと努めているのが分かる。
触れた掌に伝った紛れようのない熱を、見詰める瞳に流れた隠しようのない切望を、いったいあとどれくらい彼は抑えるつもりなのか。
そこまできてカミューは薄い笑みを浮かべた。
───臆病なのはどちらであることか。
想いを口に出来ないのは同じだ。
乙女を蕩かす美しい囁きならば幾らでも知っていた。
なのに、こうまで心を根こそぎ奪われて、なお紡ぐ言葉など知り得ない。
片方が踏み出さねば変わらない、それは良く分かっている。だが、踏み出すことによって失う何かを恐れている。
積み重ねた日々を壊すのを惜しんでいる───
「無器用、……か。あまり人のことは言えないな」
自らを嘲笑うように小さく呟き、湯から出た。日向の匂いのするローブに身を包んで、ゆっくりと居室へと移る。
久しく例を見ない不祥事に揺れる部下らを正道へと導くのはカミューのつとめだ。最たる責務を置いて自己の情念に溺れるなど、騎士団長としての誇りが許さない。
二度と再び愚行が繰り返されぬよう、今後は個人の人格にも留意せねばならないだろう。やるべきことは山の如きだ。少年の無念を忘れてはならないが、思い悩んで立ち止まるのは無意味だった。
暗澹とした心地は新たな決意に塗り替えられた。淀みの晴れた後には、数日来の眠りの浅さから生じた疲労が滲んでくる。
明日の予定一覧に目を通し、それから一つずつ室内の灯を消した。最後に残った寝台脇の小さなランプの朧な光に見守られ、カミューは穏やかな眠りに身を委ねたのだった。
赤騎士団長の自室は西棟の最奥、一本の長い廊下の突き当たりに在る。
本来、騎士団高位者の部屋の扉には張り番騎士が立つのが慣例だが、私人としての生活を守りたかったカミューはこれを排除した。
廊下には窓がないため、到底侵入には及ばない。手前には副長私室が控えているから、たとえ変事の際にも声を上げれば事足りる。そうした隔絶された一画に無用の労力を割く必要はない───彼の意志を、側近たちは渋々ながら認めた。
ただ、廊下の入り手に騎士を置くことにはカミューも同意した。夜間に火急の通達が走った場合、団長私室に飛び込むなど、他団の騎士には憚られるだろうといった理由からだ。
幸いにも就任以来、そうして真夜中に叩き起こされた経験はない。闇が柔らかく寝台を覆い、時折遠くに歩哨騎士らの号令やさざめきが聞こえるばかりの夜が続いていた。
優美な線を波打たせる天蓋の奥深く、乾いた寝具に包まれて横たわっていたカミューは、ふと眠りから呼び覚まされて眉を寄せた。
いつもと変わらない静謐。
背にしたランプの頼りない灯が天蓋の布に刻む陰影も、心を落ち着ける色合いそのままだ。
けれど、何かが五感をちりちりと焼いていた。それは長く彼を守ってきた自衛の本能。就寝中であろうと責務を怠らない、経験が紡ぎ上げた感覚の網が徒ならぬ異質を捉えている。
伏したままゆるりと片手を伸ばした。常に届くところに在る愛剣の鞘を掴み、更に慎重に緊張を張り巡らせる。
足音ではない。
騎士剣の鍔鳴りでもない。
強いて名付けるなら、それは───
唐突に、転がる敏捷で上掛けを跳ね上げたカミューは抜刀する手で天蓋を割り開き、室内を暴いた。
布が起こした風がランプの灯を脆く煽る。壁に浮かぶ陰影が微かに変化し、だがそれはすぐに納まった。
見慣れた自室の夜の貌。異質はただ、夜着に裸足で剣を構える部屋の主人の姿のみ。
カミューは息を抜いて仄かに嗤った。
己の感覚には絶対の自信を持っている。だが、このところの精神的な緊張が僅かに作用を過たせたらしい。
そのまま寝台に腰を落とし、床についた剣を支えに、なおも室内に視線を巡らせる。然程多くはない家具が床壁に描く影、窓を包むカーテンの隙間から伸びる儚い月明りも何ら異変を伝えない。
───気配。
それは錯覚であったらしい。例えば怯えた子供が絵画に悪鬼を見出すように、鋭敏に過ぎた感覚が異質を作り上げたに相違ない。
改めて自嘲して、再び褥に潜り込むべく身じろいだときだ。
目の端を何かが翳めた。
夜毎、就寝前に折り目正しく整えて壁に吊るす騎士服。闇と混濁して乾いた血色にも見えるそれに、幾筋もの波が打っている。
瞬いて目を凝らすと、異変は更に顕著になった。室内は無風といっていい。なのに、真紅の上衣に生じた撓みは刻々と変化し、様相を変え続けているのだ。
これは、何だ。
何が起きているのだ。
カミューは唇を噛み締めた。鋭い痛みが正気を約し、戦きはなお深まる。掠れた息遣いが冷え始めた部屋に広がっていった。
ふと、騎士服の歪みが消えた。
元通り、ふわりと吊り下がった上衣が緩やかに左右に揺れる様が、ざわりと背を凍らせる。それはあたかも布に触れていた何かが、飽いて放棄したかのように見えたからだ。
彼は寝台に腰を据えたまま剣を握り直した。が、同時に激しい無力をも覚えていた。
剣が何の助けになるだろう───間近に対峙し、今や紛うべくもなく徐々に距離を詰めているのは、見えざるもの、即ち気配でしかないのに。
ゆっくりと躙じり寄るそれは、底知れぬ冷気を纏っている。夕暮れの食堂でマイクロトフに語った戯言を過らせ、カミューは喉を鳴らした。
「誰だ」
虚空に呼び掛ける滑稽。
けれど確実に、傍に在る気配───
「亡者、……なのか?」
弱く口にした刹那。
床を踏み締める爪先に何かが触れた。
剥き出しの足を襲った忌まわしき感触。思わず息を飲んだカミューは、続いて両足の夜着の裾が先程の騎士服同様に撓み始めたのに戦慄く。
錯覚などではなかった。
あれは、目に見えない侵入者が上衣を弄っていたのだ。
───今、爪先にくちづけ、更に両足に絡みつきながら拘束を深めようとしている、この世の者ならざる存在が。
「……離せ」
喘ぎながらカミューは身を捩った。が、下肢を這い上る気配は止まらず、次第に圧力をもって彼を寝台に押し倒そうとする。
「離せ!」
払い除けようと試みるが、愛剣は空を掻き回すばかりだ。そのうちに、利き手ごと無造作に敷布に押しつけられた。
手首を締め上げる恐ろしい力、見えない掌の戒め。やがてその圧迫に負けて握った剣を取り落とす。
これ以上ないほど琥珀を見開いて、圧し掛かる気配を睨み据えた。眼前の虚無の中に、死者の貌が見えたような気がした。
「誰か……───ランド!」
壁一枚隔てて休む副官に救いを求めて上げた叫びは、だが虚しく寝具に吸い取られた。
無理矢理捩じ曲げられた顔を迎えた枕が、束の間呼吸をも奪う。息苦しさに呻いたカミューは、襟を割って忍び込んだ凍れる愛撫に声もなく絶叫した。
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