所用で十日ほど城を空けていた青騎士団・第一隊長マイクロトフが親友を見つけたのは、夕食時の大食堂だった。
供廻りもなく、ひっそりと席に着いた赤騎士団長を騎士らは遠巻きに窺っている。傍に寄りたいが、端正なる面差しに浮かぶ陰欝に憚りが勝るのだろう。
普段から、食事は殆ど自室で取る青年だ。珍しいこともある───そう思ったマイクロトフは料理を乗せたトレイを手に、足早に歩み寄った。
「カミュー」
はっとしたように上がった顔が男を認め、親愛溢れる笑みを零した。
「戻ったのか、マイクロトフ……久しぶりだね」
先日、ジョウストン都市同盟主のミューズ市よりハイランドとの国境付近に兵らしき集団が屯しているとの報を受けた。
何かと緊張を孕んだ国境線である。事の真偽はさて置き、助勢のため青騎士団の数部隊が派遣された。
幸い、これは多数の傭兵を従えた隊商であった。騎士団は無駄足を踏んだ訳だが、ミューズ市に丁重な犒いを受けて後、先ほど帰還したのである。
「毎度のことながら、ハイランドと国境を分けているミューズの警戒は相当なものだ」
マイクロトフが腰を落としながら呻くと、向き合う美貌が微かに曇った。
「我々とて似たようなものさ。北東の深森がなければ、ミューズと条件は同じだからね」
「だが、あの森を越えて軍勢が大挙押し寄せるのは不可能だ」
「……一応は、ね」
気怠げな響きが、帰還してすぐに知らされた事件を連想させた。顔を歪めたマイクロトフは声を潜める。
「絞首極刑が執行されたそうだな」
「醜聞だよ。こんな平時に、しかも相手は間者とは名ばかりの民間人に等しい未成年者。哀れなことだ……よもや赤騎士団からこのような罪人を出すとはね」
ゆるりと首を振る青年の食事があまり進んでいないのを見たマイクロトフは、軽く周囲を窺ってから手を伸ばした。卓上に置かれたカミューの手をそっと包み、励ますように力を込める。
「確かに忌むべき事件だが、すべて背負い込んでいては潰れてしまうぞ」
「分かっている。罪人は死をもって罪を購った。騎士団としては、既に済んだことだ。けれど……それで死んだ少年が生き返る訳でもない」
痛ましげに柳眉を寄せたカミューが目を閉じる。
「確かに我々は戦場で敵の命を奪っている。そうした行為には何とか折り合いもつけるが、こんな事件は遣り切れないよ」
「カミュー……」
何と言葉を掛けたものか、マイクロトフにも分からない。
如何に入念な薫陶を施されても、数多い騎士の中には人間性に劣るものもないとは言い切れないだろう。だからこそ訓戒は厳しく是と非を分けているのであり、その責をカミューが抱えるのは過ぎた重荷とさえ思われた。
「おまえの言う通り、死者に償うことは不可能だろう。だとしたら再発を防ぐしかあるまい? 思い悩んだところで先には進めないぞ」
手を握ったまま強く言うと、カミューは穏やかな眼差しを上げた。
「おまえが戻ってくれて良かった」
訳もなくどきりとしてマイクロトフは目を見張る。
「そうやってわたしに説教してくれるのは、おまえくらいのものだからね。どうにも浮かび上がれなくて難儀していたところだ、感謝するよ」
同期入団のカミューは、常にマイクロトフの自慢の親友だった。
艶やかに美しく、凛然として豪胆。
華麗な剣捌きや優れた政治力で赤騎士団の頂点を極めた彼の最も近しい存在である自身を誇らしく思っている。
けれど最近、マイクロトフの胸には時折過る甘やかな衝動が在った。
友愛という言葉で済ますには、あまりにも激しく疼く熱が。
「お……、おまえは一度考え出すと止まらないからな。悪い癖だ」
努めて調子を変えての揶揄にカミューは苦笑した。肩を竦めて嘆息する。
「まあね、認めなくもないが。一人で食事を取っていても気が滅入るから、ここへ来てみたんだ」
遠巻きにされているから、結局一人と変わらなかったけれど───そう付け加えた友に破顔するマイクロトフだった。
「ならば自分から声を掛けるべきだったな。おまえが望む以上に、騎士は同席したくて身を揉んでいたと思うぞ」
美貌の赤騎士団長は所属を問わず騎士たちの憧れの的である。けれど当人は今一つその事実に疎い。処世に長けた青年には意外なことだが、自身に関してだけは日頃の鋭敏が作用しないらしいのだ。
友のそんな無器用に、柄にもなく庇護欲を過らせてしまったマイクロトフは更に動揺した。
間違っている───こんな感情は。
カミューは誰に護られるでもない、毅き騎士だ。
年下の、まして位階さえも劣る身で覚えて良い情動ではない。
そこではたと気付き、重ねたままだった手を離した。蟠る想いを堪えて改めて乗り出す。
「……どんな男だったのだ?」
「目立たないが、実直な男だったらしい。わたしは直接相対したことはなかったが、周囲の話ではこんな非道を行うとは信じ難いと……」
真摯につとめを果たし、訓戒を守ってきた騎士。
マイクロトフは暗澹たる心地に黙り込んだ。
戦時下、闘争に沸いた血が性的衝動を促すのは珍しいことではない。無論、暴虐行為を厳しく禁じられた騎士は理性で衝動を殺すよう努める。
今回の場合は、だが定石に当てはまらないことだらけだ。赤騎士は罪の発覚を当然予期していただろうし、死の断罪も忘れた訳ではないだろう。
なのに止められなかった。
男を破滅へ走らせたのは、いったい何程の渇望だったというのか。
「信じ難くとも事実は事実だ。どれほど実直な人間であっても、狂気が襲う可能性は存在するという教訓かもしれないね」
「……狂気か。人の心とは怖いものだな」
独言気味の問いを洩らしたマイクロトフを静かな琥珀が見詰めている。すべてを見透かすような輝きに、目を伏せて更に問うた。
「他に何か、変わったことはなかったか?」
平時に十日、城を留守にしただけである。絞首の刑が行われただけでも充分過ぎるほどだったが、カミューはふと眉を寄せた。
「そう言えば……従者の間に噂が囁かれていたな」
「何の噂だ?」
「……出る、と」
「出る……?」
咄嗟に思い至らず難しい顔で思案する男に、美貌が寄った。感情を失った声が淡々と言う。
「夜勤の騎士が交代で仮眠に入り、最も城に人気がなくなる刻限……、鎧甲冑が立てる重苦しい音が城の石段をギシギシと……」
「……おい」
「引き継ぎの歩哨かと振り向けば、そこに人の姿はなく、冷えた気配があるばかり───」
「待て。何だ、それは?」
そこでカミューは小さく吹き出した。
「何処にでもある幽霊話さ。大概は振り返ると血塗れた怨霊が……だの、気配のあったところが濡れていた、などと続く。歴史ある建造物には付き物だが、ロックアックス編はわたしも初めてだ」
話術巧みな友の調子に引き摺られ、思わず息を詰めていたマイクロトフだ。暫し呆然としてから、顔をしかめた。
「質が悪いぞ、カミュー……」
「そう渋い顔をするな。一応、変わったことには違いないだろう?」
笑みを納めて彼は目を細めた。
「ただ、時期が悪い。実は、廊下で従者が叱責されている場に行き合ったのさ。つまらない噂話で赤騎士団を貶めるな、と……ね」
「すると、その罪人の亡霊が夜な夜な城を徘徊していると?」
「……馬鹿馬鹿しいと思っただろう?」
くす、と笑んでカミューは首を振った。
「わたしも思った。だが、他愛ない子供の悪戯心を流せない程度には赤騎士たちが平静を欠いているのも事実なのさ。こればかりは時間が解決するのを待つしかない」
そこまで言うと、彼はすらりと立ち上がった。
「さて、そろそろ戻るよ。まだ幾つか裁可が残っているんだ。帰還早々つまらない話を聞かせた……すまなかったね、マイクロトフ」
「カミュー」
はじめのうちの陰欝を消し去って、見慣れた華やかな笑みを浮かべた青年。不意に襲った胸苦しさは、呼び掛けにしかならなかった。
親愛を湛えたまま怪訝そうに小首を傾げたカミューは、言葉を探して狼狽える男を見詰めて目を細める。
「……戦闘にならなくて良かった」
それが出陣に臨んだ自身への気遣いだと悟ったときには後ろ背が遠ざかろうとしていた。多くの部下、そして責を乗せた双肩は、だがあまりに優しげで、気高く美しい。
マイクロトフは暫し友を見送って深い溜め息をついた。すっかり冷えてしまった料理にのろのろと手をつける。
微かに喉の奥が疼いていた。それはさながら酒を流し込んでも酔えない戦いの後夜にも似て、マイクロトフを締め上げる。
これは渇きだ───カミューという存在に対する、不可解、且つ焦燥まみれの渇き。
彼は困惑を振り捨てて、咀嚼に専念し始めた。
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