魔力の開いた路を抜けて、気付けば見馴れた部屋に戻っていた。
老魔術師が最後に施した転移魔法は、これまでの中で最も穏やかに、凪ぎの如き着地をもたらした。マイクロトフとカミューは、けれど寝台脇に立つ互いを確認した後、共に死闘に臨んだ赤騎士らの欠落に呆然とする。
「二人は……どうしたのだろう」
弱く呟いて室内を見回すカミューの傍ら、マイクロトフも考え込んだ。
「クロウリー殿に限って、一度訪れた場所への転移に失敗なさるとも思えないが」
「……すると、別の場所に飛ばされたということかな」
釈然としない面持ちで小首を傾げ、それからカミューは自身を納得させるように言った。
「あの宿かもしれないな、僅かながら荷も置いてあったし、気を回してくださったのかもしれない」
闘いの直後には膝も立たぬほど消耗していた彼は、今もひどく億劫そうに、辛うじて踏み止まっているといった様相だ。顔色を覗き込んだマイクロトフは、横になった方が良いのでは、そう言い掛けたところで口籠った。闘いの前に副長ランドが過らせた懸念を、彼もまた覚えたのだ。
忌まわしき痕跡の欠片も残さず、清潔に整えられた寝所。今は闇の彼方へと去った悪夢を、しかし完全に脳裏から消すなど、果たして叶うだろうか。
カミューは肉体こそ疲弊していたけれど、それを上回る峻烈な精神力をもって敵と対峙し、勝利した。それでも脅威が失われた今、努めて押し殺してきた苦渋が台頭するのではないかと案じたのである。
だがそこで、カミューはマイクロトフの胸に疼く痛みを読み取った。うっすらと苦笑して、自ら寝台に腰を落とした。
「悪いが、座らせて貰うよ。正直なところ、立っているのも億劫なんだ」
「も……、勿論だ」
弾かれたように頷くと同時に、マイクロトフは別れ間際のクロウリーの言葉を思い出していた。
転移の失敗ではないだろう。赤騎士らは意図的に別の場所に飛ばされたのに違いない。カミューが口にしたのも理由の一つかもしれないが、更なる『配慮』がはたらいているのは疑いようもなかった。
二人が降り立ったのは、図ったように室内中でも寝台に近い位置だった。非常に信じ難いが、どうやら老人の激励は真実本心からのもののようだ。言われた逐一を思い返せば動転のあまり目が眩みそうで、息を吐くしかないマイクロトフだった。
暫くそうして気詰まりな沈黙が続いたが、そのうちにカミューが怪訝そうに小首を傾げた。
「どうしたんだい……?」
「な、何がだ?」
片や腰を下ろした横で、一人ぽつねんと立ち尽くす不自然を指摘されたとも気付かず、大仰に問い返す男を、カミューは幾分寂寥混じりの瞳で見上げる。それから、闘いの狭間で失念し掛けていた己の恥辱を過らせ、俯いた。
「いや……、先ずは詫びるべきだろうね。発端は赤騎士団内の問題……。なのにおまえを危険な闘いに巻き込んだ。すまなかった」
互いの間に引かれた線を察したマイクロトフは仰天して詰め寄った。
「本気で詫びているなら怒るぞ、カミュー」
きつい詰問口調にカミューは瞬く。
「おれは巻き込まれたなどとは思っていない、進んで闘いに身を投じたのだ」
青年の足下に膝を折り、白く透き通った貌を凝視しながら熱を込めて説き始めた。
「おまえが危地に在れば、何があろうとおれは力を尽くす。おまえがそうしてくれたように」
「わたしが?」
ああ、と強く応じて漆黒の瞳を輝かせる。
「クロウリー殿に伺ったのだ。あのとき……おれの中に入り込んできた死霊と闘っていたとき、おまえに救われた。おまえが危険を察してくれなかったら───クロウリー殿の援護がなかったら、おれは死霊に取り込まれ、自我を失っていただろう」
黙視の叶わぬ異界での死闘の概要は計り知れない。けれどカミューは、語られた言葉によってマイクロトフが対峙した過酷を悟り、その想像に戦慄いた。
「でも……、それは偶然でしかないよ。わたしは……」
あの一瞬の感覚は自身でも理解の域を超えている。ただ、遠い呼び声を聞いたような気がしただけなのだ。己を死霊から解放するために闘い続ける慕わしい男の、狂おしく熱い、自身を呼ぶ叫びが。
「カミュー」
跪いたまま、マイクロトフはしなやかな手を両手に包んだ。
「偶然でもいい。おれもおまえも、互いを護りたいと願い、そのために最大の力を揮ったのだ。ランド殿たちとて同じだ、おまえは彼らに感謝こそしても、詫びる必要などない」
触れ合った肌から伝わる温み。それはカミューの胸の奥深く染み渡り、次第に和らいだ笑みを築き上げ、唇に浮かび上がらせていった。
「……ならば詫びずに礼を言うよ。ありがとう、マイクロトフ」
いや、と照れ臭げに首を振って、改めて握った手に力を込める。
「おまえの力になれたなら、良かった」
低い呟きを噛み締めるように聞いていたカミューが、ふと目を瞠って、やがて理解したように笑んだ。
「そうか、おまえだったんだね……」
小さく掠れた独言はマイクロトフの耳には届かなかった。カミューもまた、聞かせる気もなく洩らした一言だった。
枯れた樹木の如く、身のうちの力を吸い取られた。もはや第二レベル魔法すら放てないだろうと断言された身に、突如として沸いて出た不可思議な力。
今、男の握る右手に宿る熱は、あのとき感じたものと同じだ。そこから体躯を駆け巡り、突き上げるような灼熱へと転じた温もり。閉ざされていた第三の扉を打ち破り、失われた魔力を補って余りある力を呼び覚ましてくれたのは、この男だったのだ。
如何なる手段であったのかなど、分からなくて構わない。さながら呼応するかのように、またしても火照って疼く右手の『烈火』に勝る真実はない。
体内に侵入した魔性と闘いながら、マイクロトフの心は自らに向けられていた。立ち向かえと鼓舞し続けてくれていた。不意に迫り上がる感情の波が、雫となって閉じた眦を焼く。
「カ、カミュー?」
狼狽えた声が呼ぶが、止めようもない涙が立て続けに頬を伝った。意志による制止の及ばぬ涙があると、このときカミューは初めて知った。
「好きだよ、マイクロトフ」
身体を巡る熱に浮かされたまま虚ろに零す。
「おまえが好きだった……ずっと」
何を意地を張っていたのだろう───求めてしまえば手の届く場所に在ったのに。告白が、自らの恋情にすら疎い男の鍵となって、心の門を開かせたであろうものを。
想いを伏せてきたのは怯懦でしかない。マイクロトフが気付くまでは、そう自身に言い訳して、実際は怖かったのだ。先に踏み出すことによって変わる何かを恐れ、それをマイクロトフに押し付けようとしていただけなのだ。
何も変わりはしなかった。どちらが先に恋慕を口にしたところで何一つ失われるものはなく、ただ友愛に新たな色が添えられるだけだったかもしれないのに。
躊躇は取り返しのつかぬ汚辱となってカミューを凌駕した。マイクロトフは、その目で見てしまったのだ。この世のものならぬ異形と交わった浅ましい姿を。凌辱者にマイクロトフの影を重ね、歓喜すらした忌まわしい肉体を。
両手で顔を覆ってしまいたい慟哭を、だが強い手が拘束して許さない。目を閉じていても突き刺さる視線を感じて、カミューはひたすら項垂れていった。
───ふと。
打ち震える唇に温かな感触が走る。反射的に開けた目に映るものを、一瞬カミューは判別出来なかった。呼び掛けようとして漸く、男の唇が自身のそれに触れているのに気付く。
忍びやかに、そしておずおずと滑り込んだ舌先に弄られるうちに思考が追い付いてくる。知らず身を退こうとしたカミューを、マイクロトフは伸び上がるようにして押し止めた。
うなじに回った大きな手に退路を阻まれ、強張りながらもカミューは力を抜いた。躊躇いがちに許した舌を、マイクロトフは熱を込めて絡め取り、吸い上げる。束の間だけ離れた唇が呻くように言った。
「だから、過去形にするな。今も、これからも、共に在ると言っただろう?」
「え……?」
マイクロトフの表情を窺おうにも、その激しさに叶わない。飢えた獣が捕えた獲物に向かうが如き勢いで与えられるくちづけは、カミューから考える余裕を奪った。
煮え滾る熱が注ぐようだ。決して巧みとは言えぬ接触が、意識を締め上げ、麻痺させる。必死に自らを励まし、もがいたカミューは息を弾ませながら訴えた。
「待て……待ってくれ」
やっとのことで拘束を解いたマイクロトフの瞳をまじまじと凝視する。幾度か言葉を飲み込み、カミューは弱く尋ねた。
「昨夜……、傍に付いていてくれたかい?」
今度はマイクロトフが眉を顰る番である。カミューは更に戦慄きを強めて続ける。
「こうして手を握っていてくれた……?」
「何を言っているんだ?」
今更、と笑うのを見て呆然とした。
僅か一晩で目覚ましい回復ぶり、と呆れ混じりに口にしていた老人の感嘆が漸く理解出来た。
マイクロトフが触れている箇所に温かな波動を感じる。死霊との交合によって奪われた精気といったものが、再生している、あるいは注がれているようだ。第三レベル魔法の封印が解かれたときと同じ、それは空の器に水を満たしていくような力強い奔流である。
「夢、じゃなかったのか……」
ならば幻と信じて口にした恋慕も、当人にしっかりと聞かれた訳だ。つい今し方、切羽詰った告白を遂行したのも忘れて、カミューは呆けるばかりである。
後れ馳せながらマイクロトフも彼の放心に気付いた。不機嫌きわまりないといった調子で憮然と唸る。
「寝惚けていたのか? それはあんまりだぞ」
「ち、違う。夢だと思っていたんだ」
それに、とカミューは唇を噛んだ。
「今朝、おまえは何も言ってくれなかったじゃないか」
「クロウリー殿たちがおられるのに、何が言える?」
「わたしの顔を見ようとしなかった」
「当たり前だ」
マイクロトフは断固として言い放った。
「おれから言おうとしていたのに、先に言われてしまった。だが、嬉しくて……まさか相愛だったとは思わなかったから、嬉しくて舞い上がりそうだった」
昨夜、老魔術師に促され、せめて回復の手助けにと寝所に向かった。訪いを悟ったように伸ばされた弱々しい手を握り、横たわる青年を見守った。
突然開始された懺悔にも似た告解を黙して聞き、カミューの抱いた暗澹を知った。
彼が、死霊の愛撫に自身を重ねていたというのには驚いたが、それが不快になろう筈もなく、寧ろ歓喜した。
極限にあって、カミューが自身に救いを求めてくれたのは、同じ想いを抱いていたからだ。無惨な凌辱の跡を目の当りにしながら欲情するほどの、マイクロトフの内に存在していた狂おしい情愛が、カミューにも宿っていた証だったからである。
好きだった、そう続いた呟きに未来を求めた。
そうして言い換えたカミューに永劫を約す最大の誓詞を口にした。共に在る───身も想いも、ずっと変わらず傍らに寄り添う、と。
これは夢だな、とカミューは虚ろな口調で洩らしていたが、本気で夢だと考えていたとは予想外だ。マイクロトフは崩れ落ちそうな脱力を覚えて、恨めしげに青年を睨み据えた。
「これから大事な一戦だというのに、浮かれている場合ではなかろう?」
「…………」
「おまえの顔を見たら心が抑えられなくなりそうだったから、今朝は堪えて目を逸らしていたのに……分からなかったのか?」
「……分からないよ」
無理を要求しないでくれ、そんな心境でカミューは呻いた。夢と信じ込むことで初めて素直に告白を果たせた自分の意固地を思い、こういうときばかり分かり難いマイクロトフの反応を思い、溜め息ばかりが溢れ出る。
「何てことだ、相愛だったのを励みに戦いに臨んだというのに……譫言だったとは酷いぞ、カミュー」
次第に陰欝だった心地に笑いが込み上げてくる。終に破顔したカミューは、するりと抜き取った手でマイクロトフの頬を包んだ。
「でも、さっきのは譫言じゃない。それで勘弁してくれ」
目許を緩めた男はすかさず返した。
「ならば今度はおれから言おう。好きだ、カミュー。今も、これからも」
「───ずっと変わらず、共に在る……?」
唇を綻ばせて続ける青年にマイクロトフは苦笑した。
「そこまで覚えていながら、どうして夢だと思うのだろうな、おまえは……」
次のくちづけは、カミューが身を投げることで果たされた。安らいだ吐息と鼓動を間近に感じた刹那、マイクロトフの脳裏には揶揄混じりの老人の激励が甘く揺れていた。
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