いきなり身体に質感が生じる感覚は、転移魔法の着地時に似ていた。
見開かれた眼に色が戻り、視力が機能し始める。
最初に意識に留まったのは、自らに向けられた剣先だ。不穏に光る白刃の奥には赤騎士団・位階者二名の深刻な顔があった。
「ランド副長……ローウェル殿」
震える声で呼び掛けると、二人は安堵に顔を歪ませて剣を下げ、次いでランドが飛び込むように傍らに膝を折った。
「大丈夫か、マイクロトフ殿」
「はい……何とか」
こうして現実に立ち戻れた以上、そう答えるのが妥当だろう。マイクロトフは、けれどすぐに強張って目を瞠った。
「ファントムは?」
それにはローウェルが親指で背後を示した。
「終わったとも、マイクロトフ殿」
見遣れば、未だ草を舐める小さな火が点々としている。火魔法発動を察して、カミュー、と弱く独りごちながら凝らした目には、遥か風の向こうに踞る青年と、同じく屈み込んで気遣うように寄り添う老魔術師が見えた。
「案じずとも良い、マイクロトフ殿」
赤騎士団副長が穏やかに切り出す。
「カミュー様は勝利なされた、『烈火』で見事ヘインを摂理に戻されたのだよ」
力強い宣言は、それでも些かの怪訝を帯びていた。
一瞬の隙を衝かれてファントムの接触を許し、またも精気を奪われた筈のカミュー。魔術師による、第二レベル魔法すら放てまいとの見立てを覆したのは如何なる奇跡であったのか。
過った疑問は、ゆるゆると身じろぐ若い青騎士によって中断されたようだ。念入りに観察し終えて、ランドは漸く心からといった眼差しで笑んだ。
「君も勝ったのだな、良かった……」
一同とは異なる世界で闘いに臨んでいた青騎士。マイクロトフが敗北していたら、何もかもが変わっていた。こうして穏やかに言葉を交わすどころか、剣刃で殺り合わねばならなかったのだ。
短く説いたランドを凝視して、マイクロトフは束の間の怯懦に襲われた。カミューたちを護っていた筈の赤騎士団副長が間近に在る、それは余程の窮地が呈されたからなのだろう。
「急に動かなくなるものだから……まったく、生きた心地もしなかったぞ」
脇からローウェルの揶揄も飛ぶ。
行動の自由を止められるだけならまだしも、あの精神世界で敵に屈していたなら、乗っ取られた身体は一同の災禍と化していたのだ。マイクロトフは赤騎士らの焦燥を思い、恥じ入らずにはいられなかった。
「御心配をお掛けして───」
申し訳ない、と慎ましく詫び掛けたところで屹立する赤騎士隊長の肩口に目が止まる。戦場にて医療班の手が足らぬときなどに自らで処す、間に合わせの応急手当であった。
平然とはしているが、無造作に巻かれた布切れに滲む血は少なくない。マイクロトフは蒼白になって膝を進めた。
「ローウェル殿、その傷……まさかおれが……?」
すると男は一瞬だけ呆け、くつくつと笑い出した。
「君に斬られた訳ではない。君を庇って斬られた訳でもないから、そう深刻な顔をされると困る」
よくよく留意してみると、マイクロトフ自身の下衣にも血が飛んでいる。しかしながら、紅の下に外傷らしいものはない。動かなくなった自身を案じる最中に敵の攻撃を許してしまったのだろうと思い至り、またしても暗澹と唇を噛むマイクロトフだ。
「……だから、深刻になるなと言っているのに」
赤騎士隊長が苦笑する合間にランドが我に返ったように慌ただしく懐を探り出していた。
「そうであった。ローウェル、早く回復せねば」
「───待て待て、副長殿」
不意に声が割り込み、驚いた一同の前に影が揺らぐ。転移魔法を使ったクロウリーが、蹲ったカミューの腕を掴んで笑んでいた。
「それは回復薬か?」
取り出された品に軽く眉を寄せて老人は問うた。
「はい。札、にございますが……」
これではまずいのか、といった面持ちで請われるまま札を差し出す。クロウリーはしげしげと検分した後、それを戻した。
「成程、紋章を宿さずとも魔法が発動するよう、力を封じてあるのか。トランの解放戦争では使われなかったが……デュナンでは有益な品が出回っておるな」
「はい、騎士団では回復魔法の術者が然程多く在りませんので……貴重な品にございます」
ならば、と魔術師は朗らかに言った。
「ここまで温存した貴重な品を使わずとも良かろう。纏めて癒して遣わそうぞ」
言いさして杖を翳すと、夜陰に忍びやかな輝きが生じて慈雨が降り注いだ。濡れたと感じたのはほんの一瞬で、闘争の果ての痛みが消えると同時に湿り気は掻き消える。回復を確かめるように腕を回す赤騎士を見遣りながらクロウリーは大きく頷いた。
「賞賛に値する副長殿の律儀に免じて、大盤振舞いだ」
「は……?」
賛辞は意外であったらしい。不思議そうに瞬いた副官に、崩折れたままの青年が柔らかく笑む。
ひとたび戦闘から離脱し、機会はあった筈なのに、ランドは戦いの渦中にある二人を慮り、自身にだけ回復を施そうとはしなかった。あるいは再び敵に立ち向かうときのため、独りでも万全を計るべきだったかもしれない。けれど、それが出来なかったランドの心根を魔術師は『律儀』という言葉で褒めているのだ。
「カミュー、おまえは大丈夫なのか……?」
おずおずと、初めてマイクロトフが向き直る。回復魔法は肉体の傷は癒すけれど、消耗した体力にまでは及ばないというのが通念だ。相変わらず立ち上がろうとする努力を放棄したままの青年を案じて、彼は膝を折った。
「少しばかり力が入らないけれどね」
カミューは明るく返す。
「大丈夫だよ、何とか与えられた責務も果たすことが出来た」
「初めて見る魔法でしたな」
感慨深げに首を傾げるローウェル同様、ランドも説明を求めて魔術師を見詰めた。コホンと咳払い、彼は我がことのように胸を張る。
「第三の封印が解けたのだ。正に起死回生よ、正直わしも驚いた。火事場の何とやら───とは、この現象を言い当てた格言よな」
「……と言うより、『何とやら』で火事を起こした、といった感じでしたが」
吹き出したカミューは己の右手に目を細める。ローウェルがしみじみと述懐に耽った。
「それにしても、『大爆発』とは良く言ったものですな。防御魔法を施していただいてはいたが、防御の内側に居ても身が竦みましたぞ」
「いずれ『最後の炎』で更に戦くが良いぞ、赤いの。御主らの団長殿は滅びと再生を司る猛火の担い手ゆえ」
破顔しながら揶揄う老人は、身に宿す魔力の脅威を十二分に知っている。そして、それを正しく使えるか否かが術者の心次第とも知っている。
どうやらカミューは老人の眼鏡に適ったようだ。己の信念に従って、いつか最大レベル魔法をも自在に駆使するようになれ、との遠回しの檄であるらしかった。
「……さて」
ふと、クロウリーは何処とも知れぬ彼方を見た。
「死霊を滅した、闘いは終わった。ここで別れるとしよう」
驚いたカミューが慌てて腰を上げる。ふらつく足を認めたマイクロトフが、すかさず脇から手を伸ばす。今朝とは異なり、頓着なく身を預けてカミューは琥珀を煌めかせた。
「お待ちください、まだ何も御礼を───」
「仰せの通りです」
副長ランドもまたクロウリーに詰め寄った。
「クロウリー殿の御助力あってこその勝利、暫しロックアックスに御滞在いただけぬものでしょうか」
「無用だ、持て成しなどいらぬ」
「しかし、それではあまりに……」
けれど魔術師は断固として首を振り、それから幾分表情を和らげる。
「わしが力を貸したのは、ただ御主らの無欲なる誠を好ましく思うたからだ。礼を尽くさねば義理が通らぬといった心情も分かる。だが、世間は御主らのような者ばかりではない」
遠い記憶に思いを馳せるように、彼は静かに言い募る。
「なまじ名が広まると好悪だけでは動けぬようになる。一所に留れば、素性を知って、我が力を利用せんと目論む者が出ぬとも限らぬ。わしが長く洞穴に籠もってきたのは、そうした俗な世界と隔絶されたかったからなのだ」
───それは、大いなる力を得たがための孤独。
「マクドールの坊と出会い、解放軍の一員となった。そして今、御主らと共に戦って多少は考えを改めた。だからこそこのままで在りたいのだ。人が、私欲のためばかりに動くのではないと信じたまま、再びさだめがわしの力を欲するまで、平穏に刻を過ごしたい」
「クロウリー殿……」
それでもなお未練を残すカミューを、老人は慈愛混じりの眼差しで凝視した。
「良き友、良き部下に恵まれた御主なら、この先、如何なる苦難も乗り越えて行けよう。己が持つ輝きを忘れるな。いずれ御主は時代に必要とされる存在となるだろう」
それから深々と頭を垂れて随従する赤騎士らにも温かな声で言う。
「無比なる信頼と忠誠、実に善きものを見せて貰った。これ以上の持て成しはない。御主らが在る限り、団長殿の輝きは護られるに相違ない」
「……勿体無い仰せにございます」
二人は感極まった様子で礼を取った。あれほど渾身で助力してくれた老人に何一つ返せぬ困惑も溶かされたような、偏に純粋な感謝の礼であった。
最後にクロウリーはマイクロトフに目を止めた。何事か躊躇うように少し考えてから、軽く手招く。マイクロトフはカミューをランドに預け、急いで歩を進めた。
そのままてくてくと歩き出した老魔術師を困惑気味に追ったマイクロトフだが、騎士らからかなり離れた位置で停止して振り向いた顔の真摯に首を傾げた。何か失態を犯しただろうか───そんな懸念を老人の低い呟きが衝く。
「一つ、確かめておきたいのだがな」
「な、何でしょうか」
「御主、体内に取り込んだ死霊と闘ったのであろう?」
言われて初めて援護の礼を述べていなかったのに気付く。マイクロトフは熱っぽい調子を揮った。
「失念していました、『気合い』の魔法による援護、心から恩にきます」
「時宜は適しておったか」
「それはもう。御蔭で命を拾ったようなものでした」
「そうか……」
何やら上の空といった様相で続きを促す。
「否、別に礼を言って欲しかった訳ではないのだ。それより闘いの詳細を知りたい」
探究熱心な魔術師の神秘への追求なのだろう、そう弁えてマイクロトフは可能な限りに状況を伝えた。
奇妙な空間で赤騎士ヘインと対峙したこと、思考が彼の思念と混じり合ったような不快な攻撃に曝されたこと。
決して巧みな描写とは言えなかっただろうが、クロウリーには十分らしく、ふむふむと同意の首肯を洩らしながら聞き入っている。
どのみち恋情を知られた相手とばかりに、敵がカミューの姿を象って陥落を誘ってきたのも口にした。すると老人は食い入るようにマイクロトフを凝視した。
「……御主、その団長殿に何ぞしたか?」
媚態に惑わされそうになったのを見透かされたようで、狼狽えのあまり声が上擦る。
「な……、何も。ああ、でも───」
「でも?」
詰問口調に大きな身体を縮めて白状した。
「ほんの少しだけ……頬や手に触れてしまいました」
敵が作った幻影ならば、触れては危険と分かっていたのに。
だが、あの一瞬、何故か幻のカミューがそれを望んでいるような気がしたから───それまでの誘惑の手管を失って、寧ろマイクロトフの側に在るかのような表情を見せたから。
「成程、な」
大きく息を吐いてクロウリーは腕を組んだ。
「……まずかったのでしょうか?」
しかし老人は暫し黙して応えなかった。やがて静かに切り出す。
「援護の時宜が的確だったのは、団長殿が御主の窮地を察したからだ」
「カミューが?」
「彼にも説いたが、死霊との間に感応の道筋が出来ていたようでな。いや……と言うより、心通わせた者への本能的な直感だったのか」
もぐもぐと唸ってクロウリーはじろりとマイクロトフを見据えた。
「それで得心がいった。ファントムの奇襲で精気を絞り取られ、団長殿には二度目の『火炎』を放つだけの余力がなかった。にも拘らず、第三の封印を解いたのは御主の力ゆえだったのだな」
おれの、と疑問の独言を零す男に淡々とした解説がもたらされる。
「昨夜も教えたろう、人は常に掌から幾許かの『気』を放っておる。御主に触れられて団長殿は『気』を得て、仲間を護らんとする一念で膨らませて封印を打ち崩したのだ」
「し、しかし……あのカミューは死霊が作った幻───」
だから、とクロウリーは語調を強めた。
「道筋が出来ておったと言うたではないか。少なくとも団長殿は感じたのだ。御主の温みを感じ得て、力と化したのよ」
マイクロトフは呆然と戦慄いた。たとえ死霊が開いた道の恩恵であっても構わない。それは、カミューとの間に結ばれた絆が為した奇跡ではないか。
触れた刹那、幸福そうに涙を伝わらせた青年。あのとき、幻は幻であって異なものへと化していたのだ。彼はマイクロトフの誓いに応えて束縛を解き放った。地に立ち尽くす、肉体を持ったもう一方の敵を浄化の炎で葬ったのだ。
「……カミュー」
襲い来る恋慕の荒波を堪える彼を、魔術師はまたしても無言で見守っていた。それから、ボソリと訊く。
「失われた精気の回復に手っ取り早い手段があると言うたのを覚えておるか?」
同意を認め、何とも複雑そうな面持ちが続けた。
「───うむ。良いか、わしは俗世を好まぬ。斯様に俗な物言いは、金輪際速やかに忘れるのだぞ」
「……? はい」
大仰に咳払いを重ね、終に意を決したのか、外方を向きながら老人は言った。
「青いの、団長殿の閨に潜り込め」
「は!?」
素っ頓狂な叫びは、離れた赤騎士らにも届いたようだ。怪訝そうに見詰める面々に頬が焼けた。
「な、何を───クロウリー殿!」
「死者と生者は相容れぬもの、故に交情は生者にとって負にしか働かぬ。だが、生ける者同士ならば話は別だ」
「………………」
「闘いの直後というに、御主の気力は鬱陶しいばかりに漲っておる。その力、団長殿に分けてやれ。手を握るより遥かに効果的な手段だぞ。もっとも、団長殿からすれば体力的に厳しいやもしれぬが……あの者の憔悴は精気の欠落に拠るもの、体力以前の問題だ。今はそちらを満たす方が先決よな」
あんぐりと口を開いたまま呆然とする男をちらと窺い、更に冗舌に付け加えた。
「傷心の団長殿に無体になっては、と昨夜は黙したが……今なら教えても良かろう。という訳で、団長殿の体調をいたわりつつ、励めよ、青いの」
そうして自失したままのマイクロトフを残し、クロウリーはすたすたと踵を返す。騎士らに歩み寄り、明るく言った。
「さて、団長殿。心構えは良いか、部屋へ飛ばすぞ」
「はい」
カミューは副官の腕から零れ出て、優美なる最敬礼を払った。
「偉大なる大魔導師クロウリー殿……御身に賜った御厚情の数々、たとえこの先お会い出来ずとも、終生忘れは致しません」
依然、予想だにせぬ一撃によって魂を抜かれたようだったマイクロトフも、別離の到来を知って一同の輪に駆け寄った。
「お……、おれも心から感謝しています。無作法な頼みを快く容れてくださった温情に応えるためにも、道を違えず、誇りに背かず、騎士道を邁進します」
半ば強張りながらの必死の言上が魔術師の失笑を誘う。
「───そうさな。気負らず、何事も程々に、……な」
暗喩を察してマイクロトフが耳まで紅潮した瞬間、転移の魔法が発動した。とっぷりと暮れた洛帝山の麓の地より、カミューとマイクロトフは掻き消えた。取り残されて戸惑う赤騎士らに向けて、楽しげな調子が言う。
「実はな、今ので魔法の使い納めだ。トランの洞窟に戻るにも、少しばかり休んで魔力を回復せねばならぬ。が、魔物が跋扈する野原で眠るのも不用心というもの」
クロウリーは地に座り込み、杖を支えにゆっくりと目を閉じていった。
「そうした訳で、騎士の礼節とやらに期待したい。御主ら、わしが目覚めるまで警護を頼むぞ」
騎士らは顔を見合わせて微笑み合った。
どれほど持て成しの贅を尽くしたところで返せぬであろう恩義。礼は要らぬと口にされても、やはり心苦しさは残る。そんな彼らの心を、魔術師はこうして慮ってくれているのだ。
「……どうか、ごゆるりと御休みくださいますように」
二人は敬虔な礼を取り、稀代の魔術師を護るために闇の彼方に視線を投げた。
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