無謀を制止しながら赤騎士隊長へと駆け寄って行くランドを見送っていたカミューが、鋭く息を飲んで硬直した。気付いた魔術師が肩を支えようと慌てて手を伸ばす。
「如何した、団長殿?」
「───マイクロトフが」
喘ぎながらカミューは老人を見詰めた。
「いえ……、その……」
「良い、言うてみよ」
励ますように揺らされて、琥珀の瞳が遠い青騎士に注ぐ。
「とても嫌な感じが……、説明は出来ないのですが……」
クロウリーは蒼白になって戦慄く青年を注意深く検分し、同様に青騎士にも眇めた目を向けた。
「親友殿の窮地を感じるか」
「分かりません。ただ、彼が呼んでいるような……」
「十分だ」
彼はたっぷりとした袖をはためかせて杖を打ち振るった。素早い詠唱の後に放たれた光の矢がランドを追い越し、正にファントムを迎え撃たんとするローウェルの背後、踞る男の上空で円を描いた。
複雑な文様が刻まれた輪がそのままマイクロトフ目掛けて落下して、体躯を微かに弾ませる。蘇生魔法の一つ、破魔の紋章が司る『気合い』だった。
初め無反応だった男は、だが光の雫が空に溶け入るにつれて、のろのろと顔を上げた。攻撃に転じようとしていたローウェルが、幽鬼のように立ち上がった青騎士に気付いて呆然とする。
僅かな隙を衝こうとしたファントムだが、駆け込んだランドに攻撃を阻まれ、逆にじりじりと後退し始めた。敵が二人になったためというよりも、寧ろマイクロトフの動きに怯んだらしい所作だった。
やや離れたところで足を止め、様子を窺うように立ち尽くす魔物。迎撃の態勢を整えた赤騎士たち。得も言われぬ緊張に満ちた両者の間を、強い風が吹き抜けていった。
体重のすべてを負わせられて、一気に呼吸を奪われた。
もがいても、締め付ける万力は微塵も緩まず、かろうじて縄の上部を掴んだ手で身体の重みを逃がすのが精一杯の抗いだ。
カミュー、と狂おしい情念が叫ぶ。
こんなところで終わるのか、無様に負けてしまうのか。
笑顔を守れず、想いすら伝えぬまま、このまま敗れ去ってしまうのか。
───駄目だ。
ここで負ければ死霊が身体を乗っ取る。己の代わりに、己の身体で、ヘインは再びカミューを蹂躙する。清廉な心を傷つけ、侵しがたい矜持を踏みしだき、彼を絶望へと誘うのだ。
「……っ、カミュー」
名を呼べば、力が込み上げる気がした。自らを吊るす縄に縋り、少しずつ、少しずつ上昇を試みる。その先に唯一の青年が待つかのように、マイクロトフは隣り合わせた滅却を蹴り付け、一縷の望みにしがみつく。
だがしかし、救済もまた突然だった。
足掻く身を、何処からともなく飛来した光の輪が叩き付け、次には足場となって支えてくれたのだ。それが『気合い』と呼ばれる魔法の象る文様だと気付くには時間は要らなかった。
精神下で闘う自身の危地が仲間たちから見えるとは思えない。だが、魔術師は舌を巻くほど的確に、援護の術を施してくれた。感謝を噛み、温かな神秘の輪を踏み締めて死者に向き直る。
「おれはカミューと共に在る。彼と共に闘っているのだ。仲間もいる。同じ志を持つ、心から信頼出来る気高き仲間たちが。退くのはおまえだ、ヘイン」
剣を握り直し、怯んだ男に詰め寄ろうとするマイクロトフの前に、またしてもまやかしのカミューが現れた。先のような淫猥な挑発ではなく、打って変わった懇願を浮かべて訴える。
『何故だ? 何故、抱こうとしない? わたしを好いているなら、どうして己の心に従わない?』
けれどマイクロトフは強く首を振った。
「おれは心に従っているぞ」
あれほど触れることを恐れた肌に、今は躊躇いなく手が伸ばせた。開き掛けた唇を指先でなぞり、白い頬を片掌で包む。
「おまえが好きだ。だから、支える。常におまえがそうしてくれたように……今度はおれがおまえの力になる」
幻影とも思えぬ切ない表情が真っ直ぐにマイクロトフを見詰めていた。
「ミューズから帰ったときに言ってくれたな、『戻ってきてくれて良かった』と。どんな戦場からでもおれは戻るぞ。おまえの許へ、おまえと共に在るために」
『……マイクロトフ』
「今度も戻る。この想いを伝えるために」
そのまま優しく掌を滑らせて、彼はカミューの手を握った。欲望とは無縁の、崇高な誓いによる触れ合い。死者が作り上げた筈の幻が、おもむろに美しい涙に濡れた。
「あっ……」
低く呻いて剣を取り落とした赤騎士団長にクロウリーは息を飲んだ。そのまま両膝を折ったカミューが、我が身を抱えて痙攣する。
「団長殿!」
徒ならぬ異変を、だが聡明な瞳は一目で咀嚼した。騎士にしては細身の体躯に激しい波動が渦巻いている。クロウリーには馴染み深い、それは魔力の奔流だ。死霊に精を食われて憔悴し果て、その輝きを探すのさえ困難となっていたカミューの身に、ふつふつと熱が滾っている。
カミューには、己の身に何が起きているのかなど理解し得なかった。ただ、紋章を宿した右手が焼けるように疼き、そこから身体中に広がる痛みめいた感覚だけが彼を支配するすべてだった。
青年を取り囲む大気が薄紅く色を違える。そこまで見届けたクロウリーは、ファントムに対峙する男たちに向けて完全防御魔法『守りの天蓋』を放ち、続けて怒鳴った。
「青い騎士の動向に留意せよ、騎士らよ!」
「あ───ああ!」
苦悶とも愉悦ともつかぬ声を上げてカミューは身を捩った。未だ唱えたことのない文言が譫言のように口を吐く。紅を溶かした琥珀が前方を見据えた一瞬、その力は解き放たれた。
幾筋もの流れとなって甲冑の魔物を目指す紅蓮。『烈火の紋章』第三レベル魔法、火龍の進撃である。牙を剥く焔の獣が軽やかに空を飛翔して、立ち尽くすファントムへと急降下した。
旋回しながら甲冑を抉って体躯を貫き、勢いのままに再び空を舞っては次の牙を突き立てる。防御魔法の幕内に守られる騎士らは、縦横無尽に駆ける焔の龍に呆然と見入るばかりだ。
衰えぬ猛火が魔物の角を圧し折り、鎧を剥ぎ取る。燃え落ちた甲冑の内に人型の影が浮かび、なおも貪欲に襲い掛かる炎に呑まれていった。
騎士たちには確かに聞こえた。それは魔物の声なき悲鳴、長き妄執の断末魔の叫びであった。
泣き濡れた頬のすべらかさを残して幻影の赤騎士団長は消滅した。先とは異なる、ひっそりと消え入る静かな退却であった。
マイクロトフはヘインに向き直った。眼前で大剣の切っ先を天に捧げ、穏やかに問う。
「これでもまだ、勝機がないと言うか?」
「…………」
「分かっている筈だ、おまえは勝てない」
おとなしげな顔立ちが激しく歪んだ。
「何を……」
「おれに、ではなく……カミューに勝てないのだ」
虚像の青年が消えたときにそれが分かった。
ここは精神の奥底、思念が築き上げた世界。具象する眺望や色彩、感覚のすべてが意思の力によって導き出されたものなのだ。
精神を直に食い破ろうとするヘインの策は諸刃の剣だ。この戦場は、より強い意思を持つものに味方する領域なのである。
同じ欲の道に引き摺り落として思念を溶け合わせるため、ヘインはカミューの姿を用いた。魅惑を吹き込み、マイクロトフの弱みを突いて陥落を目論んだ。
彼が言うように、マイクロトフには意思をかたちとして結ぶような真似は出来ない。それはヘインが肉体の殻を捨てて現世に留まった妄執の化生だからこそ可能なのだろう。
けれど、闘えぬ訳ではなかった。
敵の描いた偽りの影を、己の知る本当のカミューで塗り染めるだけなら、強靱な心を持つマイクロトフにも及ばぬ範疇ではない。
それを阻めなかった死者は意識の外で敗北を悟っている。カミューが抱えた真実をヘインは理解しているのである。
「おまえはカミューの心を、想いを知っている」
「や、め……」
「非道に苛まれても、その想いを支えに耐えたカミューを、おまえは知っている」
「やめ……ろ……」
ぐらりとヘインはよろめいた。何処からともなく取り出した剣の柄に手を掛け、畏れの眼差しでマイクロトフを凝視する。
「抜けるか、ヘイン?」
詰め寄って、いっそう強く畳み掛けた。
「騎士である誇りを忘れたおまえに、剣が抜けるか!」
「黙れ! 黙れ───黙れ!」
礼節をかなぐりすてた狂乱が絶叫する。無様に戦く腕が、かろうじて得物を抜き放ったが、ヘインは既に敗北を認めたような顔色だった。
「わたしはすべてをカミュー様に捧げた! 身も心も……命さえ擲った! 求めて何が悪い? これほどを費やしても、あの方を我がものにしてはならぬと言うのか!」
「……一つだけ、おれにも分かる」
マイクロトフは短く瞑目して、ダンスニーを上段に振り翳す。
「真の情愛は代償など求めない。傷つけたり、服従を望んだりはしない」
渾身で打ち下ろした大剣が、防ごうとした剣ごとヘインを裂いた。砕け散る白刃が宙を舞い、同時に世界が一変した。
汚泥の海であった光景に亀裂が入り、壁が剥がれるように零れ落ちてゆく。その裏から現れたのは一切の汚れなき純白、ロックアックスの雪景色さながらに輝く世界だ。
袈裟懸けに斬られたヘインの傷からは、血潮の代わりに、どす黒い煙が噴き出していた。けれどそれもマイクロトフの周囲に漂う清涼なる風に煽られ、白き世界に溶けていく。
「去れ、おまえの在るべき世界へ。少しでも人の心が残るなら、死なせた少年に詫びるがいい。それがおそらく、カミューがおまえに望む唯一だろう」
赤騎士は、そこで初めて見せる表情で笑んだ。悔恨、あるいは諦念ともつかぬ複雑な笑みだった。
「愛して……いた」
虚ろな声が噛み締めるように呟く。
「どうしようもないほど、あの方を……」
マイクロトフはそっと頷いた。
「ならば騎士として、最後の道を行け」
───弱き命を摘んだ我欲、理不尽への贖罪の道を。
「カミュー、様……」
すべての妄執を吐き出し切った男の輪郭が薄れて、清浄に包み込まれるように消えていった。後にはただ、上も下も覚束ぬ閉ざされた純白の檻にマイクロトフが残るのみ。
何処へ向かえばいいのか、けれど彼には分かっていた。心を澄ませて聴覚を働かせれば、遠くに懐かしい声が聞こえる。共に闘った仲間たち、そして唯一絶対の青年の声だ。
マイクロトフは微笑んで、『気合い』の足場を蹴った。
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