赤騎士隊長ローウェルは混乱の渦中にあった。並んで剣を振るっていたマイクロトフが突然動かなくなったからである。
彼もローウェル同様に傷だらけだ。しかし、それは負傷による戦意喪失といった単純なものではなかった。見開かれた漆黒の瞳は宙を凝視し、だが呼び掛けにすら応えない。心だけがそこにないとしか形容のつかぬ異変であったのだ。
「マイクロトフ殿!」
叫ぶ傍ら、ファントムに目を遣れば、こちらも凍りついたように動きを止めている。対処に苦慮し、ともかく様態を見定めようとマイクロトフを覗き込んだと同時に、魔物が息を吹き返したように剣を振った。かわそうとしたが、僅かに遅く、ファントムの一撃はローウェルの左肩を斬り裂いた。
「……っ!」
これまで受けた中で一番の痛打である。さすがに怯んだローウェルだが、魔物が今一度攻撃に出ようとしているのを察知するや否や、踞ったままのマイクロトフを抱き込み、地を蹴った。ファントムの剣は丁度マイクロトフがいたあたりの地面をざっくりと削っていた。
勢い任せに数度転がり、魔物から離れたところで男は青騎士を揺さぶった。
「マイクロトフ殿、しっかりしろ!」
傷ついた肩から溢れた鮮血がマイクロトフの下衣を染める。それでも、彼は何ら反応を見せなかった。
どうすれば、とローウェルは唇を噛んだ。青騎士の手にあるダンスニーに目を落とし、瞬時で解する。
代わるしかない。マイクロトフが戦えぬ以上、自身が『魔力吸い』を発動させるほかない。
───だが、ここで分散されて無防備な彼を襲われたら?
大きな手傷を負った身で、マイクロトフを護りながら戦えるだろうか。
「……果たしてみせる、それがわたしのつとめだ」
自らに言い聞かせるように言葉にして、剣を取り上げようとした。しかし、全身は真綿のように力を失っていながら、マイクロトフの指先は些かも弛緩しておらず、譲らぬとばかりに柄を掴み締めたままだ。
「マイクロトフ殿……」
騎士が剣を手放すのは、戦いを終えたとき、あるいは役目を果たせなくなったとき。
こうして頑強に剣を握る以上、マイクロトフは未だ戦う意思を手放していないと判断出来る。それを強引に奪い取るのも憚られ、またも困惑に襲われたローウェルだが、ファントムの接近を知って我に返った。自剣を構え、マイクロトフを背後に庇い、息を整える。
───突きだ。魔力の防壁に阻まれても、甲冑のどこかに剣先を引っ掛ければ事足りる。そのまま駆けてファントムを押し遣り、マイクロトフとの距離を空ける。
転移で逃げられるかもしれない。分散されるかもしれない。だが、自らの動きが騎士団長らの警護に回ったランドを呼び寄せる筈だ。彼がマイクロトフから剣を譲り受けてくれるまで、ただそれまでを持ち堪えれば───。
突きを繰り出し易いように刃を構え、夥しい出血に眩む視界を励ましながら立ち上がる。
「……部下の不心得、我が命を賭してでも止めずにはおかぬ」
剣呑とした顔立ちに、譲れぬ矜持が走った。
片や、離れたところから見守る一同も成り行きに衝撃を覚えていた。がっくりと膝を折ったマイクロトフの姿を見て日頃の沈着を失ったカミューが魔術師に取り縋る。
「クロウリー殿!」
「騒ぐな、吸い取った思念が青い騎士の意識に干渉するに至ったのだ」
淡々とした応えに慟哭が勝った。
「御存じだったのですか? こうなると……こうなる恐れがあると、最初から分かっておられたのですか!」
「そうだ」
慄然と打ち震える青年を見据え、老人は教え諭すように言い募った。
「あの男にしか戦えぬ。言うたであろう、似て非なるもの、死霊が畏れる唯一の男……絶対の意志を持つあの青い騎士にしか勝てぬのだ」
そこでマイクロトフ同様、彫像のように静止していたファントムが身を翻した。攻撃がローウェルを襲い、ランドは反射で数歩進んだ。更なる刃から青騎士を護りながら地を転げる部下を目の当りにし、騎士たちは息を詰める。
「あれでは不利です、クロウリー殿」
苦悩も顕にランドが呻く。
「敵は動けぬマイクロトフ殿を狙っておりますぞ」
「否、あれは策よ」
魔術師は冷静に説いた。
「今となっては青い騎士の身体は第二の形代、彼の精神を抑えて肉体を奪取するのが死霊にとっての最善。青い方を襲うと見せ掛け、その実、先に赤いのを排除するのが真の狙いだ」
それは、と絶句してカミューは彼方の戦いを見遣る。ここからでは負傷の詳細は窺えないが、先の攻撃はマイクロトフを気遣って注意を逸らせた赤騎士隊長を直撃したように見えた。
相変わらず崩折れたままのマイクロトフ、彼を背に庇って迫り来るファントムに対峙するローウェル、どちらも抜き差しならぬ窮地である。
「斯様な策、ローウェルには気付きようもない……彼は己を盾にしても敵の刃からマイクロトフ殿を護ろうと致しますぞ」
行かせてくれ、そんな懇願が赤騎士団副長の声音に溢れていた。カミューも問いを重ねる。
「せめてマイクロトフを移動させられないでしょうか? あのままではローウェルが満足に闘えません」
「それも考えた。しかし……」
クロウリーは口籠った。
あってはならない、考えたくはない。
けれど、最悪が生じたら───もしもマイクロトフの精神が屈したら。
そのときは終わりだ。
死霊は精悍なる騎士の精を喰らい尽くし、肉体を得て復活する。一方で魔物に封じたままの思念も残るとあっては、二体の敵と立ち向かうに等しい。
疲弊した味方に、勝機は失われるだろう。
蘇生──完全なる死亡ではなく、所謂『魂魄』が抜け切らぬ状態にて施す──魔法、そして撤退のための転移魔法、それらを可能にする魔力だけは何としても温存しておかねばならないクロウリーなのだ。
カミューは悟った。葛藤に険を増す老人の横顔に、もはや取るべき道は一つだと。
「行け、ランド!」
はっと頬を引き攣らせる副官にきつく命じる。
「行ってローウェルを援護しろ」
「待て、団長殿」
苦しげに遮る魔術師に首を振り、彼は信頼する部下を凝視した。
「たとえファントムが分散してこちらを狙おうと、ユーライアに懸けて止めてみせる。行け、ローウェルを徒死させるな!」
打たれたように硬直したランドは、終に第一隊長が決死の構えに入ったのを見て取った。一度だけクロウリーを窺って、そして彼は戦局へと向き直った。
「……拝命致します、カミュー様」
僅かな休息を与えられた副長は軽やかに駆け出した。見送る老人の眼差しは、この場に似合わず苦笑を含んでいた。
「団長殿、御主……存外に熱い質だったのだな。これでは青いのと大差ないわ」
愛剣を突っ支い棒に膝を起こしたカミューは、剣先の土塊を払い除けながら返した。
「申し上げました。騎士団長には騎士を護る責務があります。ましてこれはわたし自身の闘いでもあるのです。彼らの犠牲の上に勝利しても意味がない」
「使えるか、剣が?」
「命ある限り、騎士は剣を振るいます。それが叶わぬときには、身をもって敵を止めます」
だから、と艶然たる微笑みが魔術師に告げた。
「もしものときは蘇生をお頼み申し上げます、クロウリー殿」
老人は吹き出した。
「……良かろう。『大魔法使い』の名に懸けて、決して死なせはせぬ」
固まっていた足が、一歩、また一歩と進み出た。絞首の縄に絡め取られ、柔らかく身悶えながら待ち受ける青年の許へと、情念が呼び寄せられる。
躊躇いがちに差し伸べた手が触れる寸前、だがマイクロトフは身のうちに叫ぶ声に押し止められた。
やめろ。
こんな攻撃に負けてはならない、こんなかたちでカミューに触れたくはない。
ああ───けれど。
何という蠱惑か。
揺れる琥珀、くちづけを請うが如き唇の淡き色、衣服から覗く白い肌。荒縄に束縛されて震える肢体のしなやかさ、腕に包み込めば甘く薫り立つであろうカミューの体臭。
きりきりと体躯を締め付ける、それは紛れもない雄の欲求。狩り立て、貪り食わんとする獣の本能───
『抱け、マイクロトフ』
慕わしき青年が淫蕩に誘う。
『わたしを意のままに苛め。犯し、踏み躙じり、跪かせるがいい』
妖婦と化したように吐息混じりに囁くカミュー。細身から、違えようのない情欲を立ち昇らせて。
『さあ……』
周囲は灰色、蒼、真紅と刻々と色彩を変えて惑乱を煽る。やがては色の認識さえ覚束なくなって、命じられるまま、更に一歩を進んだとき。
茫とした脳裏に声が過った。
───剣と誇りの加護があらんことを。
はっとするのと同時に、霞む思考に一条の光が注す。
あれは闘いに臨む身に与えられた一言、疲労を漂わせながらも凜と背を正した青年が口にした最大の信頼。
別なる声も聞こえた。
心配させてすまなかったね。
既に死霊に脅かされ、それでも隠して微笑もうとした優しい嘘。
彼はいつも毅然として、決して弱さを見せようとはしなかった。そんなカミューを、もどかしい思いで見詰めてきた。彼に頼られる男、彼の支えとなる男でありたいと、常に願っていた。
苛みたいのではない。
踏み躙じり、跪かせるのが望みではない。
共に歩み、共に生きる、己の衝動の根底は一つなのだ。
「───カミューではない」
絞るように吐き捨てる。間近で小首を傾げる白い貌を睨み据え、マイクロトフは絶叫した。
「カミューでは有り得ない! あいつはそんなふうにおれを惑わせようとはしない……消えろ!」
刹那、弾けたように幻影の青年は四散した。
マイクロトフは息も荒く、拘束物を失って虚ろに彷徨う縄を掴んで赤騎士を睨む。
「こんなことをしても無駄だ、ヘイン」
「……随分と消耗された御様子ですが?」
嘲笑が囁く。
「己を欺くのも限界でしょう。あなたはカミュー様を我がものにしたい、だからそうして苦しまれるのです。いい加減に認められたら如何ですか」
「だから何度も言っている。おれはカミューが欲しい。だから幻影にすら心乱される。だがな、ヘイン。如何なる苦しみも妨げにはならない。カミューのため、そしておれ自身の想いに懸けて、おまえを斃す。カミューと共に在る───おれは誓いを遵守する!」
漆黒を蹴って、一気に間合いを詰める。愛剣が鋭く一閃した。辛くも退って逃れたヘインは、そこでまた膝をついた青騎士隊長を表情もなく見下ろした。呆れ果てた、あるいは感嘆ともつかぬ口調で言う。
「決意は御見事ですが、あなたの負けです」
「何だと?」
「そうまで疲弊なさった身に何が出来ましょう。ここはわたしの領域、あなたの心の中に、わたしの思念が作り上げた世界でもあるのです。不慣れな地での闘いは絶対の不利、もう満足に力が入らないのではありませんか?」
余裕たっぷりに会釈してみせる男に否定は叶わなかった。過去に過酷な闘いは幾らでも経験してきた。だが、これほどの消耗を味わった記憶はない。
脈々と力が零れ落ちていくような感覚だ。呼気は乱れ、鉛を抱いたように四肢が重くなってきていた。慣れた大剣の重みさえ唾棄したいほどの倦怠感。痺れが指の先まで染み渡り、ともするとダンスニーを取り落としそうになる。
「退いてください、マイクロトフ様」
奇妙に明るい笑顔で死者は告げた。
「現し身に未練はなく、魂だけの存在は実に都合が良かったけれど……今のわたしにはあの方の肌の温みも感じられないのです」
「黙れ!」
握ったままだった絞首の縄が、するりと指を擦り抜ける。それは空を裂いて、マイクロトフの首に幾重にも巻き付いた。
「───退いて、あなたの身体を御譲りください。今度こそわたしは、血の通った肉体でカミュー様を抱き締める」
足下の闇が、不意に支えを放棄した。
絞首刑場に吊るされる罪人さながら、マイクロトフは虚空に投げ出された。
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