マイクロトフは突如として起きた異変に思考を奪われていた。周囲の一切が消え、彼は一人、何処とも知れぬ虚空に放り出されたのだ。
間近に剣を揃えていた赤騎士隊長は見えず、まして死霊を封じたファントムの姿もない。見渡す限り茫漠とした色のない世界、そこへ汚穢が雪崩れ込む。泥濘色に渦巻く圧迫がマイクロトフを囲み、奔流のように辺りを巡り始めた。
足下は底すら見えぬ漆黒だ。揺らめく闇は、体躯を繋ぎ止める鎖の如く冷たく、自由を許されず喘ぐ身を嗤っているかのようだった。
けれど脅威に易々と屈するほどマイクロトフの闘志は脆弱ではなかった。闘いが新たな局面を迎えた、自身らの奮迅が敵に戦法を改めさせたのだとばかりに、いっそう意識を磨ぎ澄ますことに努めた。
やがて圧迫の濁流は終焉した。あたりに広がるのは静まり返った汚泥の海。
ひっそりと影が凝る。それは見る間に型を整え、最後に人となった。見慣れた装束、忌まわしくも首から絞首の縄を下げたままの死者、ぽつねんと虚空に佇む赤騎士であった。
マイクロトフにとっては初めて見る敵の顔。年の頃は自身と同じ、あるいは少し下かもしれない。特に鮮やかな印象がある訳でなく、かと言って醜悪という訳でもなく、彼はごく普通の、おとなしげな男だった。
仲間の騎士と向き合っているとしか言いようのない感覚を、ただ一つ、首の装飾が裏切る。偉大なる魔術師が語ったように、ヘインは己が命を摘んだ絞首の縄に捕われた姿でマイクロトフに笑んでみせた。
「初めまして───と言うべきでしょうか」
死者は言う。
「ヘイン、だな」
確かめるように呼んで、マイクロトフは辺りを素早く見回した。
「ここは何処だ、おれに何をした」
するとヘインは穏やかに答えた。
「何処、と申されても……ここはあなたの中、あなたの心の世界です」
揶揄されているのかと束の間カッとしたマイクロトフだが、そこで己が『魔力吸いの紋章』でヘインを攻撃してきた事実が過った。吸い取ったヘインの思念が自身を侵食したらしいと思い至ったのだ。
「分かっていただけたようですね。わたしはあなたの中に招き入れられたのです、……あの老人の策によって」
くす、と嘲笑が洩れる。
精神という世界の中で、互いの思考が互いの姿を象って対峙しているのだ、マイクロトフはそう理解した。それがこうも現実味を帯びているのに些か驚きながらも、迷いはなかった。
「消えろ、ヘイン。おまえは留まってはならぬ身だ」
きつく命じると、赤騎士は薄暗い笑顔で彼方を見遣った。
「───あなたにはお分かりになる筈だ、マイクロトフ様」
言葉が終わらぬうちに、灰色の海面が跳ねた。胎動を繰り返すように波打って、突如マイクロトフを覆い尽くす。刹那、死者の思念が彼を貫いた。
わたしはカミュー様が欲しかった。
無論、初めは純粋な尊崇のつもりだった。だからこの想いが恋情だと悟ってからも、あの方の部下である身を幸福と思うよう、己に強いた。
けれど、わたしは気付いてしまった。
どれほど見詰めても、どれほど想っても、あの方にとってわたしは騎士の一人。
あの方の微笑みは誰にでも与えられる笑みの一つ、あの方の御声は誰にでも掛けられる声に過ぎない。
すべてを捧げても、あの方には届かない。
恋慕を口にするなど、わたしの立場には許されず、まして受け入れられよう筈もない。
わたしは奪われ続けたのだ。あの方は何一つわたしに与えてくださらず、ただわたしから奪い続けたのだ。
「違う」
息も出来ぬ苦悶の狭間に、やっとそれだけを呻く。だがマイクロトフの思考は再度の侵略に苛まれた。
踏み止まろうとはしたのだ。
あの方にとって、わたしの唯一の価値は騎士であること。だから、そうあろうと努めた。
どす黒く渦巻く感情を抑え、表面を繕った。
そう───繕ったのだ。わたしは騎士を演じて、長く暗い夜を耐えた。
でも、あの日、あの少年を目にしたときに箍は崩れ去ってしまった。あの方の歳月をそのまま遡ったような面差しに、欺瞞で築き上げた軛が切れたのだ。
死罪となるのは分かっていた。
けれど、この先どんなに長らえても、わたしは永遠にあの方を腕にすることはない。虚しさを噛み締めて生きる未来に何の意味があろう。
だから、だからわたしは───
声ではない。けれど、耳を塞いでマイクロトフは絶叫した。見たくない光景が閉じた眼の裏に映る。
慕わしい友に酷似した少年が、引き倒され、押し潰されて蹂躙されていく悲惨な図が。
抱いたのだ、あの方の代わりに。
あの方を思い、あの方を重ねて犯したのだ。
奪われただけの歳月を埋めるため、忍従を解き放ち、舐め続けた痛みの日々をぶつけた。
そうしてあの方を辱しめたなら、長い恋情に終わりを告げられる、そう信じてわたしは非道に堕ちたのだ。
だが、謬りだった。
どんなに似ていても、誰も代わりになろう筈がない。
瞳の輝き、微笑みの優美、何もかもが違う。締め上げた喉頸が洩らした喘ぎも、決してあの方のものではなかった。
だから終えられなかったのだ───吊るされ、肉体の未来が断ち切られても。
わたしはこうして留まってしまった。真なる人を腕に抱きたい、ただその一念がわたしを悪鬼に変えたのだ。
「……ヘイン」
唐突に、全身を締め付けていた力が霧散した。
マイクロトフは愛剣を支えに、崩れるように闇の虚空に膝をついた。反射で零れた名に応じるかの如く、再び人型に戻った騎士が口を開く。
「わたしはカミュー様を己が手にするためだけに留まったのです。誰に理解出来ずとも、あなたにはお分かりになる筈だ」
「何、だと?」
息を弾ませるマイクロトフに、死者は陰湿に嗤った。
「わたしはカミュー様を犯した。肉体は持たずとも、情念という新たな力を体躯として、あの方の肌に触れたのです。素晴らしかった……ご存じないでしょう、苦痛に臨むあの方の艶美、愉悦に染まるときの輝きを」
「───黙れ」
「そうして清廉を装って……知らぬとでも思われますか、あなたがわたしと同類であると?」
そこで世界がどす黒い蒼に染まった。
マイクロトフの胸を叩き付けるのは、あの夜の激情だ。
凌辱されて傷ついた友を前に、耐え難い欲望を過らせた。心の裏に押し遣り、見ないように努めてきた望みを突き付けられた忌むべき瞬間。
誰よりも大切な友を、気付かぬうちに違う想いで見詰めていた。彼を穢した死せる男に、憎悪と同じだけの妬心を覚えた。
「あなたもまた、あの方を欲しておられる。しなやかな背を抱き寄せ、くちづけ、秘められた貌を見たいと……あの方を奪い尽くしたいと思っている。あなたは同じだ、ただ踏み出すのが遅れただけで、カミュー様を求めておられる!」
「……そうだ」
ヘインの言う通りだ。
誰も知らぬ、闇夜に咲く気高き花を愛しみたいと切望している。
「おれは……カミューが欲しい」
だが───だが。
「けれど、奪いたいのではない。意志を問わず、従わせたい訳ではない。おれが欲しいのはカミューたるカミューだからだ」
赤騎士は怪訝そうに目を細めた。
周囲に漂う蒼色の闇を切り裂かんばかりの激しさで、マイクロトフの胸に焔が吹き荒れる。長い歳月で育んできた穏やかな情愛を超えた、それは恋情の灼熱だった。
「おれの知る、最も毅く、最も優しい……今の、有りのままのカミューが欲しいのだ! 我欲で歪め、力で屈伏させても得たことにはならない! 与え、与えられて初めておれの願いは叶うのだ」
いつしか彼は立ち上がっていた。大剣ダンスニーを真っ直ぐにヘインに向け、声高に言い放つ。
「肉体の欲望などは幾度でも殺してみせる。おれにとって何よりも大切なのはカミューの心だ」
「…………」
「同じ言葉を返してやろう、ヘイン、おまえにも分かっている筈だ。おれたちは決して相容れない。一点を共有していても、選ぶ道が異なる。だからおれが邪魔なのだろう、おまえが選び得なかった道を進もうとする、このおれが!」
胸中に、老魔術師の激励が蘇っていた。相容れぬ決意がヘインを脅かし、戦うための力となる。気圧されたように黙したヘインに確信を強めたが、勝利感は一瞬だった。
死者の腕がゆらりと上がる。首から垂れ下がった縄が命を得たように蠢き出して、見る間に長さを増していった。彼と並んで空に浮かんだ縄は蠕動を重ね、やがて張り付け台のかたちを組み上げた。
虚構の海が吐き出した新たな人型を見た途端、マイクロトフは衝撃と憤怒に目が眩んだ。伸びた絞首の縄が宙に戒めたのは、愛しき唯一の人だったのだ。
「カ、ミュー……」
マイクロトフを襲う闇が、またしても様相を変えていた。今は真紅、彼の人の纏う荘厳と同じ色彩がうねりとなってマイクロトフを飲み込もうとする。
彼は抗った───全身全霊で。戒められた人の瞳が緩やかに向けられるまでは。
濡れた琥珀。淫靡な艶に支配された、恐ろしいほど扇情的な眼差しに射竦められてマイクロトフは狂乱に陥った。
形良い唇が柔らかく問う。
『わたしが欲しいのだろう、マイクロトフ?』
忍び込むような絶対の誘惑。
『混じり合い、溶け合い……身も心もひとつになって、快楽に溺れたい筈だ』
───違う、カミューではない。
これは死霊の攻撃だ、非道に踏み出せと誘っているのだ。
マイクロトフは激しく首を振って、魔性の囁きから逃れようとした。
不意に、美貌の青年が間近に寄った。戒めの縄が供物を捧げるようにマイクロトフへ向けて伸びたのだ。
『わたしを奪え、この闇の底で……望みを掴むがいい』
「カミュー……」
震えながら当てた視線の先で、赤騎士団長は淫らに微笑んだ。赤い舌先がちらりと覗き、くちづけを誘うように揺れる。
「……カミュー」
思考が霞み、四肢が硬直する。剣を握る手が戦慄き、力が抜ける。強靱な意志で抑え込んだ恋慕と欲情に支配されていく。
見守る凡庸な面に冷笑を浮かべた死せる騎士が、ひそと呟いた。
「望みを手になさいませ、マイクロトフ様」
続きはマイクロトフに届かなかった。
そして、消えてください───その身をわたしに明け渡して。
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