苦悶の怒号が沸き起こり、幾体かの魔物は消えた。残りの敵も力尽きる手前なのが見て取れる。感謝の視線もそこそこに、二人の赤騎士は剣を握り直して更なる闘いに身を投じて行った。
激烈なる交戦の狭間に事態を憂いていたマイクロトフだったが、そんな光景を目の端に映して高揚に四肢を震わせた。己の剣に希望を託す仲間たち、何としても彼らの信頼に応えねばならない。
軒昂として振り下ろした大剣が魔物を一撃したとき、金色の光が走った。待ち望んだ紋章の発動の瞬間である。これまで幾度となく刃で体躯を抉られても怯まなかった敵が、初めて獣じみた咆哮を上げて後退った。
「まだだ……まだ、足りぬ。今少しばかり魂魄の力を削らねば───」
遠く呟くクロウリーの独言が届いたように、マイクロトフはいっそうの祈りを込めて追撃の刃を落とす。『魔力吸い』は二度続いて死霊に襲い掛かった。
「団長殿、『火炎』だ。いつでも放てるように備え置け」
低い厳命がカミューを戦慄かせ、奮い立たせた。素早く詠唱を開始し、発動の直前で文言を留めると、行き場なく蓄積された炎の魔力が体躯を巡るようだった。
ファントムは二度の攻撃で明白な疲弊を窺わせていた。それでも立て続けに剣を振るい、収束に向かいつつある赤騎士らの闘争領域へとマイクロトフを押し遣ろうとしている。
時折間近に迫る他の敵を右に左にと打ち倒しながら、マイクロトフはファントムの肩口に痛烈な一打を見舞った。もはや運のすべてを引き寄せたかが如く、宿した紋章はまたしても彼に味方した。神秘の輝きが両者の間に燦然と煌めく。
「退け、青いの! 領域から逃れよ!」
端的な、だが十分に意図は通じる鞭のような厳しき一声。マイクロトフは飛び退って距離を取り、すかさずクロウリーが杖を振り上げた。
「ゆくぞ、団長殿!」
カミューは焔を解き放った。精神の堰で留められていた攻撃魔法は、未だ嘗て知らぬ峻烈を纏って天高く舞い上がる。老魔術師が魔力の拘束を緩めるのと同時に、紅蓮の槌と化した火炎は上段から魔物の体躯を打ち据え、周囲の土を巻き込みながら踊り、広がっていった。
ほぼ時を同じくして闘いを終えた赤騎士たち、そして灼熱の余波の伝わる位置に立ち尽くすマイクロトフは、明々とした輝きに焼かれる甲冑の影を固唾を飲んで見守った。炎が招いた土煙の乱舞で視界が利かなくなり、完全にファントムの姿が見えなくなっても、構えを崩さぬまま慎重に待った。
最初に言葉を吐いたのは離れたところで睨んでいたクロウリーだ。
「……おのれ」
憤懣遣る方ないといった口調にカミューがぎくりと向き直る。
「失敗、ですか?」
ただでさえ弱まった魔力を消費するなとの忠告を退け、我を押し通した結果なのか。そんな彼の自責を察したのか、老人は弱く首を振った。
「御主の咎ではない、要らぬことを考えるでない」
死霊をファントムという形代に閉じ込めておくために施すクロウリーの術は、ファントムを外部からの攻撃より守ってしまう表裏一体の技だ。膨大な力と化した死霊の念を抑えようとすれば、最大級の魔力の檻で応じねばならない。ここへ『烈火』を使ったところで、敵は完全防御魔法を用いているのと同義だった。
だから『魔力吸いの紋章』によって拘束の術ごと死霊の力を吸い取る策に出た。抑え込む対象が弱体化すれば、檻が強固たる必要もなくなる。そこで炎の魔法を放ち、瞬間的に敵を逃さぬギリギリまで拘束の術を弱めれば、攻撃魔法は思念を直撃するに等しい───それがクロウリーの目算であったのだ。
赤騎士団長の『烈火』が第二レベルまでしか使えないのは計算外だったが、ただでさえ死霊に精を吸われて衰弱した青年だ。戦いの場に立つこと自体が酷であるのに、そこを求めたところで無い物ねだり、ならば彼の持てる力で死霊を葬れるようにと十分に見極めを量ったつもりだった。
カミューは良くやった。放った『火炎』は満足出来るだけの威力があった。疲弊した身で呼んだとは思えぬだけの、気高き輝きに満ちていた。
だが、死霊の力が上を行ったのだ。霧散させまいと抑えるクロウリーの魔力の檻が『火炎』の多くを弾いてしまった。形代ファントム、そして更に内部の魂魄にまで到達した炎だけでは目的を果たし切れなかったのである。
無念そうに顔を歪め、クロウリーは続けた。
「三度の『魔力吸い』発動でも足らぬか、何とも凄まじき魄の恐ろしさよ」
「魄?」
「俗に魂魄と一口に言うが、魄とは陰の精気……彼奴は御主から精を奪い、それを魄として己を強化したようだ。それはもう、我々の想像の域を超える力に」
もっとも、と鋭い瞳が魔物を見据える。
「打撃を与えたのも事実だがな」
魔術師には余人の感じ得ぬ魔の波動が感じられる。未だおさまらぬ粉塵に身を隠したファントムは確実に力を殺がれていた。
幸い、赤騎士団長は再度の攻撃魔法使用に耐えるだけの精神力を保っている。手痛い読み違えも次の糧と転じれば良いのだ。クロウリーは息を吐き、励ますようにカミューの背を叩いた。
策が破れたのは見守る騎士らにも分かった。ゆるゆると消えていく土煙の中、ファントムは依然として地を踏み締めている。指示を仰ごうと振り向く三者にクロウリーは叫んだ。
「怯むな、騎士らよ! 功は奏しておる、今ひとたびで事は終わろうぞ!」
だが、檄が飛ぶか否かの隙にファントムは戦法を一転した。マイクロトフの刃を潜り抜け、離れて見守る魔術師とカミューに向けて突進を開始したのだ。
ちょうど間に挟まれていた赤騎士らが弾かれたように応戦の構えを取る。思いがけぬ成り行きに虚を衝かれたマイクロトフも、魔物を追って地を蹴った。
見る見る距離を詰めたファントムは、繰り出されたローウェルの攻撃が身を襲う直前に掻き消えた。空を斬った刃が一同を困惑させる間に、転移を果たした敵がカミューらの目前に迫る。
反射的に歩を進めて杖を構えたクロウリーが『炎の壁』で足止めを図ったが、ファントムは更に転移を重ねて炎を掻い潜った。魔物が着地したのはクロウリーの眼前、彼はファントムの一閃で薙ぎ倒された。
「クロウリー殿!」
絶叫が夜空を劈く。だが、カミューには老人を案じる一瞬も与えられなかった。
それは二人の赤騎士ら、更に背後のマイクロトフの位置からも見えた。あまりにも突然、間近に出没した敵。剣を構える暇もなく、甲冑に包まれた魔性の手に、なすすべもなく白い首を鷲掴まれるカミューの姿が。
「カミュー!」
呼び声は、遥か遠くに響いた。
ファントムの手に捕えられた途端、カミューは四肢から力が零れ落ちていくのをはっきりと感じた。血が引くような感覚に膝が崩れる。別の手が腕を取ったことさえ、彼には理解出来なかった。
ふっと視界が揺れる。覚えのある、移動の衝撃。次に目に入ったのは獲物を逃した手で空を掻くファントムだ。魔術師の転移魔法が、辛くもカミューと魔物を分けていた。
「あ……」
未だ腕を取られたまま、膝を折って喘ぐ彼を、駆け寄ってきた副長ランドが支える。
「カミュー様! クロウリー殿も……大事ありませぬか?」
「……『大事』あったわ。彼奴め、魔性と成り果てながらヒトの知恵を失っておらぬとは忌ま忌ましい」
老人はざっくりと破れた衣服を眺め下ろしながら唸った。残る騎士らが、同じ手を二度は許さぬとばかりに壁のかたちで布陣したのを一瞥し、げんなりと首を振る。
「足止めなど考えず、ささと転移魔法で逃げれば良かった。こちらに攻撃が向けられておらんかった分、勘が鈍った」
「お、お怪我は……」
ランドの腕の中から弱く問うたカミューには憮然とした声が応じた。
「運良く『おぼろの紋章』が発動して目測を誤らせたわい。仮にも元・騎士が老体に無体をはたらくとは……誇りとやらは捨てたと見える」
それから今度は気遣わしげにカミューを窺う。
「御主は大事無いか、団長殿」
「は、はい……」
ファントムは騎士らとの交戦を再開していた。上官に心を残す様子ながら、合流しようと腰を上げたランドを一瞥した魔術師が言う。
「折角用意した回復薬を使う暇もないな、副長殿」
溢れ出た魔物たちとの激烈な戦いに身を染めた男は満身創痍の様相だ。あちこちに血を滴らせた副長ランドは、けれど穏やかに笑む。
「騎士なれば、これしきの傷で音を上げたりは致しませぬ」
「……しかし、辛かろう」
「戦いを終えたときに命があれば十分にございます」
ほくそ笑んだクロウリーは、そのまま礼を取って歩き出そうとするランドを止めた。
「待て、今のような攻撃をされては叶わぬ。ファントムは二人に任せ、御主はわしと団長殿を護れ。正直、これ以上は余計な魔法を使いたくないのだ。不測の事態に備えて、な」
ファントムは魔法による攻撃を持たない。だが、先程のように転移を自在に操る。もし再び同じ手を使われても、剣で闘える者が最初の刃を止めれば、残る騎士らが追い付く。それでも危ういときには転移で逃げることも可能だ。
ランドは魔術師の考えを理解し、二人を背後に庇うように屹立した。
「申し訳、ありません……わたしがもっと闘えれば……」
消え入るような赤騎士団長の苦渋。改めて視線を移したクロウリーが眉を顰め、短い沈黙の後、険しく顔を歪めた。
「おのれ、不覚を取ったわ」
「クロウリー殿?」
憤怒混じりの呻きに、ランドは肩越しに僅かに振り返ったが、魔術師はカミューに当てた瞳を動かさぬまま続けた。
「感じぬか、団長殿。御主、またしても精を吸われた。もはや『火炎』は使えぬ」
え、と呆然とする青年に彼は説く。
「彼奴は接触するだけで精を吸い取ったようだ。今の御主には『火炎』を放てるだけの魔力が残っておらぬ」
同様に顔色を失ったランドがすかさず問うた。
「接触しただけで、……とは何ゆえにございましょう? 拘束の術によって外からの攻撃が無効となるなら、あちらからの干渉も不可能なのでは?」
「……普通はそう思われるのだがな」
クロウリーは不本意そうに続けた。
「この術は魔道学の書物から得たものだ。つまりは『学問』に過ぎず、実戦に使われた経緯があるかすら定かではない。だからわしにも、術書に記された以上のことは分からぬ」
ただ、と深い思案に耽る声が続けた。
「どうやら、彼奴と団長殿の間には路のようなものが生じているらしい」
───ひとたびとは言え、死霊と交わったがためだろう、といった見解を魔術師は寸前で飲み込んだ。言葉の先を察したランドは、それ以上の言及を押し止めるように頷いて見せた。
「補わねばならぬほど死霊の力が消耗した、つまりは策が適っていると考えられる訳ですな」
「そうさな、ただ……触れただけで精を吸えるという読みがあったとまでは思えぬな。団長殿を質にでも取ろうとした、そう考えた方が良いかもしれぬ」
要するに、敵は僥倖を手にしたに等しい。『魔力吸い』の攻撃と火魔法によって受けた打撃を回復するという、思いがけない僥倖を。
失意の衝撃にカミューは唇を震わせた。代わりとばかりに忠実なる副官が更に糾した。
「しかし……この先、如何すれば? 火魔法なしに、ヘインの浄化は果たせましょうか?」
クロウリーは首を振り、難しい顔で応じる。
「果たせぬとは言わぬ。団長殿も、何とか第一レベル魔法は使えそうだ。それで滅せるほどまでに『魔力吸い』で彼奴を弱体化させるしかない」
「…………」
「幸い、青い騎士は運を味方につけておる。紋章の発動率は驚くほどだ。生粋の魔物とは違って、あのファントムは思念の力によって動いている。つまり、ああして転移・分散を繰り返すたびに力を消費しているのだ。死霊の力は決して無限ではない。団長殿から奪った精を割り引いても、あと数度ファントムが転移か分散を試み、更に二度ばかり『魔力吸い』がはたらけば、第一レベル魔法でも斃せると見た」
知らず呻いてカミューは騎士隊長らを見遣った。
今は一対二の対決、彼らはカミューたちを背後に庇って敵と対峙している。ローウェルが敵の攻撃を止める隙にマイクロトフが剣を打ち込むといった連携が取られていた。
傷だらけの副官と同じだけの痛手を受けているであろう男たちを思い、カミューは胸を疼かせた。然しも勇猛なる二騎士にも、今では疲労の色が隠せない。クロウリーの見立てに適うほど、二人は持ちこたえられるのか。
「……御案じなさいますな」
だが、そこで副長ランドが静かに言った。
「マイクロトフ殿、そしてローウェル……何があっても屈しは致しませぬ。カミュー様の御為にも、彼らは誇りを貫きましょうぞ」
ローウェルの剣がファントムの手首を狙う。せめて一時でも得物を失わせて、その間にマイクロトフの体力を回復させようとする思惑だった。
しかし、気遣われる当人の闘魂は束の間の休息も要していない。真っ直ぐに突き進むマイクロトフの生き方が乗り移ったが如き剣先が、一合、二合とファントムを襲う。幾度かの交戦の果てに、またも大剣ダンスニーは光り輝いた。
ふと。
ふと、これまで思いも寄らなかった不安が雷火の速さでカミューを襲った。
「クロウリー殿……敵の魔力を奪って己の第一レベル魔法を回復させる、それが『魔力吸いの紋章』本来の力です。けれどマイクロトフは魔法紋章を宿していない。吸い取った死霊の魔力はどうなるのです?」
それは副長ランドにも内在する疑念であったらしい。構えを崩さぬまま魔術師を振り返る。仁王立ちになって戦況を見守っていたクロウリーの瞳に微かな痛みが走るのをランドは見た。
「───無論、青い騎士に蓄積される」
それは総毛立つような愕然だった。カミューは戦慄きながら問い募った。
「敵は思念、魔力そのものと仰せになられた。思念は一体にあらず、たとえ分かれても存在が消える訳ではない……ならば、ならばマイクロトフは身体に死霊の念を取り込み、溜めているのと同じなのでは?」
「…………」
「それは、形代がファントムからマイクロトフへと移るのと同じではないのですか!」
闘争の嵐が唐突に静まった。
大上段に振り翳した剣を振るうことなく、マイクロトフが大地に両膝をついて微動だもしなくなった。
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