「我々の気配を察知するとは、御主も魔力には見所がありそうだな」
打ち付けた後頭部を擦りながら半身を起こした壮年の赤騎士団副長ランドは、クロウリーの賛辞へ放心気味に会釈する。抱き止められたかたちのカミューが、心持ち表情を堅くして覗き込んだ。
「怪我をしなかったかい?」
「危うく剣を抜くところでした……」
「部屋の真中なら安全と思うたのだがな」
首を傾げて魔術師は苦笑っている。ランドは転移の魔法の不可思議と有益に感じ入った。もっとも、洛帝山の麓へと向かった騎士隊長らと同じく、彼もこの術をたいそう苦手に感じてはいたが。
カミューを支えて立ち上がり、躊躇いがちに問う。
「カミュー様こそ、お怪我は?」
「おまえの犠牲のお陰で無事だよ」
そうしてカミューは柔らかく微笑んだ。無体な暴力に苛まれた青年とは思えぬ、常と変わらぬ優美な笑顔。その清廉なる毅さにランドは戦慄いた。
傷つき、打ち菱がれても不思議のない状態で、だが彼は立ち向かう道を選んだ。騎士らを魅了して止まぬ、何ものにも侵し難い矜持は健在なのだ。あれこれと思い悩んでいた己を恥じて、ランドは改めて恭しき敬慕の礼を取った。
老魔術師が室内を見回して背を正す。
「ともあれ、形代の準備は整った。先の手筈は騎士たちに伝えてある。後は御主を飛ばし、我らはここで死霊を待つのみ」
「それなのですが……」
ランドは不安そうに切り出した。
「まこと、今宵のうちに死霊は現れましょうか?」
するとクロウリーは断固として頷いた。
「来る。杞憂は捨てよ、御主のつとめは他にある。品々は揃っておるな?」
即座に引き締まる副官の顔を見て美貌が綻ぶ。どうやらこの魔術師は、騎士にとって『つとめ』の一言が何よりも重きを為すと弁えてしまったらしい。ランドは急いで命じられた品を纏めた荷袋を机上から取り上げてみせた。
「よし。連中に伝えよ、我らは団長殿の剣を目指して転移するゆえ、戦いの場より少々離れたところへ置いておけ、とな。では、後程会うとしよう」
ちらと一瞥するなり低く言った老人が杖を翳すと、何事か言いたげに口を開き掛けていたランドの姿が掻き消えた。トレイの置かれた卓と副官の残像とを交互に見遣ったカミューが、ポツと呟く。
「クロウリー殿、少々性急過ぎたのでは? 彼は食事を終えたばかりだったようです」
老人は眉を顰た。
「それは少々気の毒だったか。まあ……酔うたとしても、向こうで仲間が介抱しよう。斯様な気など回していないで、御主は速やかに寝所で休め」
それから幾分表情を引き締める。
「いや……、配慮を欠いたか。あの場を厭うなら、長椅子にでも───」
そのとき、既にカミューは寝台に近づいていた。琥珀の瞳が部屋の隅に纏められた寝具や天蓋の布に注ぎ、穏やかな笑みに染まる。
部下たちにとって、今のカミューと以前と変わらず接するのは決して容易くない筈だ。それが性的な問題を含むだけに腫物に触れるような心地を抱いているに違いない。
それでも彼らは最善を尽くそうと心を砕いている。そんな誠意を前に、後退りなど出来ようか。
「……いい加減、横になるのも飽いたのですが」
呟いて、清潔な上掛けを捲り上げる。柔らかな抗議を耳聡く聞き止めた老人が片目を眇めてカミューを睨んだ。
「確かに目覚ましき回復ぶりは認めるが、御主は未だ完全とは言えぬ身なのだぞ。逐一ぼやくでない」
それには素直に頷くカミューだ。実際、昨夜とは比較にならないほど楽になっている。しかし魔術師の言う通り、依然四肢が重いのは事実だった。今、敵と対峙しても剣を振るうのは難しいだろう。カミューは忠告に従い、枕で背もたれを拵えて寝台に沈み込んだ。
己の身を餌に死霊を招き寄せる。策への懸念は皆無だったし、覚悟もあった。だが、クロウリーは青年に潜む微かな緊張を見逃さなかったようだ。寝台の端に腰掛けて、彼はカミューを凝視する。
「不安か、団長殿」
反射的に否と上らせ掛けて、だがカミューは弱く笑んだ。
立ち向かってみせると誓った。けれど、屈従の辛酸を舐めた身には紛れもなくクロウリーの言った感情が燻っている。偉大な魔術師の助勢を得た今も、未だ嘗て相対したことのない敵への怖気が完全には消え去らない。
───けれど。
「昨夜、夢を見たのです」
唐突な切り出しに老人が眉を寄せる。寝台の背にもたれたまま、カミューは穏やかに続けた。
「あのときわたしは死霊を恐れ、命を惜しみました。恥辱の生よりも誇り在る死を尊ぶ───そんな騎士の信条に背いても生きたいと願ったのです。けれど、そんな弱さがあっても良いのだと……赦されるような夢でした」
文字通り悪夢のような体験をして、もはや安息の刻は訪れないと思っていた。けれど闇は、慕わしい男の面影を優しく映し、甘やかな温もりまで蘇らせてくれたのだ。
「仰せの通り、今も竦みは残っています。けれど、弱みを抱えた身であっても戦えるのだと信じます」
昨夜から一転して活力を取り戻したように振舞う青年の応えを認めて、老人は口元を綻ばせた。
「成程な、闘気もまた『気』の一つ。目を見張る回復も頷けるというもの……、さては恋しき者の夢でも見たか?」
揶揄の調子で言った途端、カミューは苦笑し、窓の外へと視線を投げた。
「……遠からず、といったところかもしれません。あまりはっきりとは覚えていないのですが……共に在る、と……そう言われたような気がします」
今度はクロウリーが黙り込んだ。深々と刻まれた眉間の皺がひくつき、それから弛緩する。
「どうかなさいましたか?」
控え目な問い掛けにも無言を通した後、彼はひっそりと顔を背けた。
「ふむ、これは……いや、参った」
「クロウリー殿?」
いっそう困惑を深めるカミューを見ようとせぬまま、魔術師は尚も考え込んでいたが、不意に語調を改めた。
「───わしは一眠りするぞ、団長殿。御主も休め。眠れそうになければ、何も考えぬようにしておるだけでも構わぬ。剣は預っておく」
「しかし……」
「案ずるな。たとえ眠っていても、わしの感覚の網が魔性の接近を余さず察知する。後は手筈通りに、な」
不敵に笑んだ老人は寝台の奥へと移り、カミューが差し出した細身の剣と己の杖とを支えにして壁にもたれた。次の刹那には静かな寝息が零れ出す。
立ったままでの鮮やかな寝つきに呆気に取られていたカミューだが、すぐに得心がいった。魔道の鍛練を重ねた老人は、こうして一瞬のうちに眠りに入ることで使用した魔力を回復し、常に万全の状態を保つのだ。常人には真似出来ぬ、これがクロウリーを稀代の魔法使いと言わしめてきた技の一環であるのだと。
何も考えずにいるというのは難しい作業であった。一度だけ策の概要をなぞり、己の右手に目を落とす。
薄く浮かび上がる炎型の陰影───浄化し、清浄を築き上げると聞かされた神秘の力。
これまで配下の騎士を護るためにのみ使ってきた焔は、此度自身を護ってくれるだろうか。彷徨い出た悪霊を秩序の檻へと封じることが出来るのか、それがヘイン自身の救いに繋がるのか。
ふと、幸福な夢が蘇る。唇に残された優しい熱に叱咤されたような気がして、カミューはそれ以上の思案を放棄した。
何程の刻が経った頃か。
身じろぎもせず、唇だけで老人が呟いた。
「───心せよ、団長殿」
言う間に彼の周囲に霧が広がり、目視出来なくなった。『守りの霧』と呼ばれる防御魔法を、魔守の力を極限まで引き上げることによって強固な防壁と化し、内包者を隠匿する術として完成させたのだと魔術師は語っていた。
続いて、寝台脇に波動が生じた。洛帝山の麓で待つ騎士たちに向けて、死霊の到来を告げる合図のユーライアが放たれたのに違いない。
見えぬとは言え、間近に心強い味方が控えている。終に逃れられぬ対峙が整えられたのだ。カミューは両の拳を握り締めて呼気を整えた。
窓の外は薄い闇、日暮れて然程時間は経っていない。確かに『亡霊は深夜現れる』という認識は誤りであったらしい。カミューにも異質の訪いが感じられた。急速に室内が冷え、重苦しい圧迫に襲われ始めたのだ。
最初の夜、そして昨夜と、この世のものならざる死の気配と直面した。けれど今、馴染んだ自室に漂うそれは、これまでとは比較にならない凄まじき汚濁である。魔術師が説いたように、生者との交合が魔性の力の増幅に一役買ったのは紛れもない事実らしい。寝台の上から睨み据える先には、陽炎にも似た朧なる白い影が揺れていた。
「……来たか、ヘイン」
一切の情感を押し殺して呼び掛けると、影はいっそう人のかたちを強めた。
「まだ足りないか。それほどまでにわたしは味わい深いか」
挑発を秘めた声音を受けて、今や騎士の装束すら認められるほどにくっきりと具象化した死者は、その場で身悶えるように蠢いた。
「成程、思念と化したおまえにわたしは抗うすべを持たない。けれどヘイン、おまえは永遠にわたしには勝てない」
さながら生きた人間のようだ。死霊の影は不思議そうに小首を傾げてみせる。
「この先、幾度おまえがこの身を辱しめようとも、わたしの心は屈しない。決して受け入れず、まして想いを返したりもしない。脱け殻を欲すなら、それも良かろう。心の不在を噛み締めながら、骸を抱き続けるがいい」
ふと、死した赤騎士の顔が歪んだ。体当たりを食らったような衝撃を覚え、カミューは胸元を押さえて呻く。それが死霊の感情といったものの渦であると察するよりも早く、全身を押さえ付ける圧力に動きが取れなくなった。
目を開ければ、ひとがたの白濁が覆い被さっている。失意とも憤怒ともつかないヘインの表情が、あたかもくちづけを奪わんとするが如く間近に迫った。
カミューが唇を噛んで顔を背けた刹那、傍らから別なる白靄が沸いて、瞬時にしてカミューと死霊を分けて滑り込んだ。
時置かず部屋全体を伝い覆った力は『守りの天蓋』と呼ばれる術。外部からの魔法攻撃を防ぐそれは、逆を返せば小さな結界で内部を守り固めるとも言える魔法だ。魔力の檻に囚われた死霊が竦む間もなく、転移魔法が発動した。
「飛ぶぞ、団長殿!」
防壁を解いて姿を現わしながら叫んだ魔術師の声に叱咤され、カミューは必死に目標を思い描いた。忠実なる部下たち、そして慕わしき男の待つ地、洛帝山の麓に聳える三樹の図。そこに鎮座する己が愛剣、ユーライア───
次には考える余裕がなくなった。同地までの道程が一瞬で視界を過るような錯覚が襲い、巨大な掌で身を絞られているかの如き苦悶が広がる。
はっとしたときには、風景が一変していた。暮れ行く大地の数箇所に灯された松明と三人の騎士。そこから少し離れた位置で、愛剣を足元に、カミューはかろうじて転倒を免れて立ち尽くしていた。
横に立つ老魔術師は峻厳たる瞳で、前方へと杖を翳したままだ。杖の先に視線を移したカミューが見たものは、騎士らの間にゆっくりと立ち上がる魔物の姿であった。
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