四方を壁に囲まれた空間から、突如として広大な大地へ。
穏やかな風そよぐ平原に人影はなく、ただ三つ子のように似た枝振りの樹が屹立している。
幸いにも、目標に過たず到着したらしい。赤騎士隊長ローウェルは腰を折って息を吐いた。
「な、慣れぬ……この転移魔法とやらには、どうにも……」
「同感です」
間近に上がった呻きにぎくりとし、声の方向を見遣った男は、安堵と苦笑を噛み殺した。マイクロトフが四つ這いになって腰を擦っていたのである。
「別の場所に飛ばされなくて幸い……と言いたいところだが、無事とは言えぬか、マイクロトフ殿」
「尻から落ちました」
憮然と唸ったマイクロトフは、漸う立ち上がった。
世界とは様々な空間が絡み合い、縺れ合って構成されるもの───魔力によって時空に歪みを生じさせ、隔たれた地を一瞬で繋ぎ合わせる。
『瞬きの紋章』の効力は騎士団の座学で学んでいたが、その理屈は今も理解し難い。ただ、机上における知識と現実の間に著しい開きがあるのだけは確かである。座学で使用した教本には船酔いじみた酩酊感を伴うとは記載されていなかったし、『着地時に注意』との添え書きもなかった。
預かった剣の無事を確かめたマイクロトフは、改めて数奇を痛感する。
知識として知るだけだった魔力による移動を、僅か一日にも満たぬ間に三度も味わった。こんな切迫した事態でなければ、珍しい経験をしたと素直に喜ぶことも出来ただろうに。
「昨夜よりも手荒かったような気がしませんか?」
同じ心地からか、ローウェルが首を傾げた。
「確かに、ロックアックス城から宿への移動は今よりも楽だったような……。あるいは、術者の同行が弊害の軽減に働くのかもしれない」
それに、と幾分声が沈む。
「昨夜はカミュー様がおられたからな。厚遇も不思議ではない」
精気を吸い取られ、立ち枯れた樹木のように力を失っていた青年。白く儚げな美貌を前に、あの飄々とした老魔術師も憐憫を覚えたのかもしれなかった。
言葉にされなかった部分がマイクロトフの胸にも浮かんでいた。一刻も早くカミューを侵す脅威を退けねば、と奮い立たずにはいられない。
早速二人は死霊の形代となる魔物を捕えるべく、行動を開始した。集結の目印となる三本の木を目視出来る範囲を、歩き回って捜索する。しかしやがて、彼らは与えられた任の至難を認めねばならなくなっていった。
この近隣に出没する魔物は生命力が強く、鍛えられた剣腕にあっても一度で撃破するのは難しい。まして二人はいずれも豪腕で知られる騎士、微妙な力加減に卓越しているとは言い難かった。
その上、マイクロトフは借り物の剣に四苦八苦している。自らの愛剣とは比較にならない軽さのそれは、努めて力を抑えないと大振りになるばかりだ。そうして開いた防御の隙に、敵は容赦なく牙を剥く。そうなれば、身を護るために確実な痛打を浴びせねばならない。結果、魔物は死して消滅してしまうのである。
何より彼らにはこれまで魔物を生きたまま捕える必要がなかった。領民を害する魔性に向ける刃は屠るためのもの。捕獲のための加減など働かせたことはなかったのだ。
殺さぬ程度に痛手を負わせて動けなくする。魔物相手とは言え、残酷な仕儀に思えなくもない───そんなふうに考えていた二人は、大きな落とし穴に落ちた心地だった。
魔物は片端から塵と化していた。刻一刻と天空を昇り詰めていく陽光が、地に映る男たちの影を虚しく削ってゆく。
やがて正午も近くなった頃、騎士たちは疲労を道連れに最初の地点へと戻った。木の根元に座り込んだローウェルが未だ周囲を睨み据えているマイクロトフに呼び掛けた。
「焦ったところでどうにもならない。君も少し休め」
「しかし、クロウリー殿が『形代の確保は策の初手』と……」
「分かっている。認識を改めねばならぬな、魔物の捕獲如きと侮っていたが……これは存外、難しい」
言っても詮無きだが、と小声が付け加える。
騎士は如何なる敵にも無慈悲たるべからず、そう訓戒がさだめている。どうあっても斃さねばならない相手と向き合ったときには、無駄に苦しませずに一気に黄泉路へと送る、それが美徳の一つであった。
敵の衰弱を観察しながら攻撃を加算していくといった戦術は、相手が魔物であっても気分の良いものではない。その僅かな感情の揺らぎが剣に現れてしまっているのかもしれなかった。
ローウェルは溜め息を洩らしながら首を振る。
「……が、そうも言っていられぬ。こんなところで体力を使い切っては本末転倒だ。この先は浅めの攻撃を小刻みに繰り出すことだけを考えよう」
「そうですね……」
マイクロトフも幾許か張り詰めたものを解いた。
焦燥は変わらぬだろうに、沈着を通そうと努める赤騎士隊長。悪戯に疲弊して真の戦いに齟齬を来さぬよう、最善の道を模索しているに違いない。そう思い至ると、自らの未熟に恥じ入るマイクロトフだ。
最愛の友の身の一部を借り受けながら、思うに任せず、塵芥ばかりを生じさせている。
戦場ならば、不慣れな得物で戦わねばならない状況に陥るときもあるだろう。借り物の剣だからなどとは言い訳にならない。己の腕が卓越していれば、瑣末な障害など捩じ伏せられる筈なのだ。
マイクロトフは赤騎士隊長の横に腰を落とし、心を鎮めて思案し始めた。脳裏に魔物の像を浮かべ、目的を果たすに有効な攻撃手法を展開する。暫しそうして沈黙が下りたが、ふとローウェルが切り出した。
「わたしの忠告は聞き入れられなかったようだな」
「は?」
「ヘインの雑記を読んだだろう」
赤騎士たちが眠りに落ちたのを見届けてから取り上げた冊子の束。明ける前に纏めて卓の上に戻しておいたものの、激情に駆られて握り潰した一冊を、男の観察眼は見逃さなかったらしい。
「……申し訳ない」
「別に謝って欲しい訳ではないのだが」
彼は苦笑い、肩を落とした。
「わたしは恥じている。あれほどの狂気を何故に見過ごしてきたのかと……」
沈痛は、マイクロトフの胸にも突き刺さる。
「部隊長と言えど、すべての騎士の心理を把握するなど不可能だ。人はそこまで万能にはなり得ぬ、それは分かっている。しかし、よりによってあんな───」
腕に包み込んだ剣の鞘を撫でながら、マイクロトフは項垂れた。
赤騎士ヘインの雑記を読んだときには確かに胸が煮えた。向かう先を過った恋情が、子供殺しの大罪を犯すまでに辿った軌跡を、冊子は克明に描き出していた。
清廉で、何ものにも侵し難いカミューへの冒涜に満ちた紙面。妄想の中で青年を撓め、くちづけを注ぎ、割り開いて汚濁を埋めて。
あるときは至高の快楽で、あるときは苦悶で、跪いて許しを請わされた赤騎士団長。如何なるときも支配者はヘインであり、カミューは隷属する供物だった。
文字によって伝えられた男の願望は醜悪に歪み果てていた。
けれど、もし。
もし、一歩間違えたなら、マイクロトフも同じ闇に足を踏み入れていたかもしれないのだ。それを思うと、胸は冷えた。あのとき老魔術師に諭されなければ、怒りから転じた恐怖に飲み込まれていただろう。
おそらくはヘインも同じだった筈なのだ。カミューに魅せられ、焦がれるところまでは。
膨れ上がった渇望を、似た少年に向けた時点で彼は死すら恐れぬ狂気の淵に沈んだ。もはや現世では遂げられぬ想いと諦念を抱いたまま絞首台に立った。ヘインの今際の述懐は心からの叫びであったのだろう。
自らのカミューに対する想いを認識した今、マイクロトフには僅かな憐憫も兆していた───無論、憤怒と隣り合わせの感情ではあったけれど。
どれほど近しくとも、人の心を余さず掴むなど叶わぬ話だ。こうして並んで座っていても、マイクロトフには赤騎士隊長の胸のうちさえ量ることは出来ないのである。
「……部下の不始末の責は負うつもりだった。だが、カミュー様は『咎に及ばぬ』と仰せになられた」
ローウェルは苦々しげに唇を歪め、それから真っ直ぐにマイクロトフを凝視する。
「それでもわたしには覚悟がある。刻限に至っても目的が果たせなかったなら、そのときは───」
「冗談ではない」
思い詰めた口調を一蹴して、睨み返す。
「分かっておられる筈です。『魔力吸いの紋章』が死霊の力を弱めるまで攻撃し続けねばならない、最後は炎で焼かねばならない。形代となれば、その時点で命は失われるも同然です。その上、死霊に肉体を譲り渡したあなたに、そんな真似が出来ると本気で思われるか?」
黙り込んでしまった男の腕を捕え、強く揺さぶる。
「おれやランド副長のみならず、カミューに消えぬ疵を負わせるおつもりか?」
ぎり、と唇を噛んだ赤騎士隊長に薄く笑み掛けた。
「カミューはあなたを必要としている。埒もない自責を抱えて欲しいなどとは望んでいない。我ら騎士隊長は多くの部下を与っています。ヘインのために、他の多くを捨てることが隊長職に在る者のつとめとは、おれには断じて思えません」
束の間、ローウェルは眩しげに瞬いていた。だがそれは枝葉からの木漏れ日の所為ばかりではないようだった。
やがて、瞳に鋭い熱が走った。
「……君の言う通りだ。生きてあの御方の傍に在る、それがわたしのつとめだ。マイクロトフ殿……闘気を抑え、急所を突かぬようにな」
マイクロトフもまた、はっとして細身の剣の柄を握り直して頷く。
「今度こそ成し遂げます。カミューが待っている」
背を預けた樹木の後ろから忍び寄る複数の魔性の気配。二人は合図を交わし、左右から同時に飛び出した。正体を確かめる間もなく、互いに目前の敵を一閃し、痛手を量るために一旦剣を引いて。
それは鎧甲冑に覆われた二体の魔物、ファントムであった。剣戟を浴びると同時に霞のように掻き消えて、少し離れたところに再び姿を現わす。
双方の騎士の手には確かに手応えが残っていた。しかし、改めて対峙した敵は一体に減っている。
「分散攻撃だったのか……」
独言を洩らしたマイクロトフの傍ら、ローウェルが満足そうに呟く。
「運が味方に付いてきたようだな、見るがいい」
攻撃武器である太い剣を払い回して臨戦の姿勢を見せていた魔物は、そうしているうちにぐらぐらと揺れ始め、最後にはばったりと地に倒れたのだ。一体であるとは知らずに放たれた二撃を合わせると、行動不能に陥らせるには絶妙であったらしい。
慎重に歩み寄ってみたところ、魔物は瀕死の様相で蠢いている。哀れを誘う姿ではあるが、今は安堵が勝った。ローウェルが目を細めた。
「万一の際には形代となるのを覚悟していたのは本当だ。だが、避けられるならば越したことはない。正直わたしは、まだまだカミュー様に御仕えしたいのでな」
艶やかなる騎士団長に心から跪いた男の告白。知らず浮かんだ互いの笑みは、割り込んだ嗄れ声にいっそう深くなった。
「───丁度良い頃合であったな。御苦労、無事に形代を手に入れたか」
薄紫のローブを翻し、何時の間にか老魔術師が控えていた。鋭い眼差しが並び立つ三本の木を一瞥し、成程といった表情を見せる。
「これはそうそう違えようもない目標物よな。仕留めたのはファントムか……これまた狙ったような形代だ。名に、実体を持たぬ虚ろなる幻といった意味がある。死霊の器には相応しかろう」
そこで騎士らは魔術師が片手に下げた包みに気付いた。怪訝が顔に現れたのか、老人は含み笑った。
「宿の主人が寝台の数だけ朝餉を用意していた。団長殿が御主らの断食を気にしておったのでな、折詰にさせて持参した」
「べ……弁当、ですか……」
呆けたのはマイクロトフばかりではない。赤騎士隊長も目を丸くして、差し出された包みを凝視する。
昨夜の変事から食欲などは一度として過らなかった。が、言われてみれば疾うに昼も過ぎている。目的を遂げたのも相俟って、唐突にひどい空腹感が二人を襲った。
「まこと若さに似ず、何処までも気の回る人物よ。大事にするが良いぞ、御主ら」
大きな弁当の包みを受け取った騎士隊長らは、半ば泣き笑いのような面持ちで叩頭した。
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