青味を帯びた早暁の空が遠く広がっている。
街路に面した窓から差し込む頼りない光に覚醒し、寝台に身を起こした赤騎士団副長ランドは、床に座り込んだ影に気付いて目を細めた。
目前に翳した大剣を睨み付ける若き青騎士。穏やかにすら見える姿は、だが刻々と闘志を磨ぎ澄ませてゆく開戦前の騎士のそれだ。やや疲労を滲ませてはいるものの、張り巡らせた緊張の強靱に陰りはない。
それからランドはもう一つの寝台に目を向けた。予感めいたものはあったが、やはり魔術師は不在であった。計り難い深淵の存在たる老人が、雑魚寝に参加するとも思えない。何処か人気のない場所に一夜の眠りを求めたのだろう、そう考えた。
そうして改めて視線を戻し、ふと眉を顰る。
長い、長い夜だった。
驚愕と憤怒、更には暗澹を舐め尽くした夜だった。
魔術師に休息を命じられ、赤騎士らは諾と従ったけれど、ただ一人マイクロトフだけは何事か胸に痞えているように眠りを拒んだ。『そのうちに休む』といった返答を最後に、敢えて懸念を意識から外したランドだが、それからの数刻が驚くほどにマイクロトフを変貌させていたのである。
昨夜、彼が漂わせていた気配を名付けるなら、それは消沈といったものが近かった。目の当りにした親友の悲劇に怒りを掻き立てられるのが彼に相応しき反応であろうに、何故こうまで───そんな怪訝を覚えるほど、マイクロトフの憔悴ぶりは著しかったのだ。
けれど、今はそれがない。愛剣に当てる真っ直ぐな視線には、葛藤を超えて決意を掴み取ったものを想起させる凛然が溢れている。
寝起きの思考を励ましても、ランドには青騎士隊長の変容の理由など量り得なかった。ただ、何を切っ掛けとしたかは別にしても、こうしたマイクロトフは信頼に叶う男だと認めずにはいられない。
「早いな、マイクロトフ殿」
声を掛けたのは、長椅子で横になっていた赤騎士隊長ローウェルである。彼もランド同様、少し前から同位階者の静かなる鍛練を見守っていたらしい。初めて気付いてマイクロトフは頬を染めた。
「お起こししましたか、申し訳ない」
「いや、目が覚めたのだ」
赤騎士らは微笑んで個々の寝床を抜け出した。
「クロウリー殿は別の場所で休まれると言い残して行かれました」
歩み寄る二人が最も気にしているであろうことを伝えたマイクロトフは、そこで窓の外の明け具合を確かめる。
「そろそろ戻られるのではないかと……」
そうか、と応じてランドは続けた。
「君があの御方の信を得てくれたお陰で、漸う真面な戦いが望めそうだ。心から礼を言う、マイクロトフ殿」
「まったくです」
生真面目に頷いたローウェルが続き部屋への扉を見遣る。
「知識に厚い人物の助力は何ものにも替え難い。昨夜のカミュー様の衰弱ぶりには肝が冷えました。精などといったものを吸われたとは思いも寄らなかった」
「もっとも、懇切に説明されても今一つピンと来ないところが弱いが、な」
嘆息した後、ランドは二人を交互に見た。
「わたしは一度城に戻ろうと思う。カミュー様の御不在、第一部隊の本日以降の任については昨夜のうちに根回しを果たしたが……マイクロトフ殿、君の方をうっかり失念していた」
言われて瞬くマイクロトフは、続く言葉に呆然とした。
「君は留守にする画策を為していまい? クロウリー殿の御言葉からしても、そう長く現状が続くとは思えぬが、一日でも部隊指揮を放棄するとなれば……」
「───そうでした」
事態の発覚後、直ちに参戦を決めたマイクロトフだが、そのあたりは意識の外だった。休暇を申請するにしろ、こう突然では齟齬を来す。途方に暮れていると、ランドは薄く笑んだ。
「よって、手を打って来よう」
「御手を煩わせるには及びません。出頭し、何とか許可を得て……」
慌てて首を振るが、彼は鷹揚に一蹴した。
「それには及ばぬ。古典的ながら、穏便に任を放棄出来る策は限られているからな」
「仮病、ですな」
ローウェルが苦笑を堪えながら言う。
「鬼の攪乱とでも騒がれそうだが……確かに最も穏便な理由だ、マイクロトフ殿。こうした仕儀はランド様にお任せするが一番だぞ」
「は、はあ」
それも道理だと頷きつつ彼は壮年の赤騎士団副長に叩頭した。
「では……宜しくお願い致します。宿の厩舎におれの馬が繋いであるので、お使いください」
「助かる。こんなかたちでここを訪ねるとは思ってなかったのでな」
転移魔法に飛ばされた瞬間でも過らせたのか、ランドは顔をしかめた。それから、隣室を窺って低く呟く。
「では、行ってくる」
主君を頼む───視線に込められた無言の懇願を的確に悟り、二人が同時に礼を取った刹那。
「待て待て、騎士とは何と勤勉な連中だ」
何処からともなく声が響き、続いて室内に一陣の微風が揺れる。何度目撃しても慣れない突然の出現に息を詰める騎士らを前に、大魔術師が渋い表情で立っていた。
「日の出と共に行動開始とは……早目に戻ったつもりが、危ういところだった」
老人らしいぼやきを吐くクロウリーに副長は丁重に礼を取った。
「雑事を済ませるため、一旦帰城しようとしておりました。不都合がありましょうか?」
「否、寧ろ具合が良い。色々とやって欲しいことがある」
それから彼は生欠伸を噛み殺して椅子に座り込んだ。その様を見届けたローウェルが案じる口調で切り出す。
「失礼ながら、御疲れの御様子で……」
まあな、とクロウリーは肩で息を吐いた。
「調べものに忙しかったのでな。流石はクリスタルバレー、魔道に関する蔵書も他とは比べものにならん」
そこで騎士らは仰天した。魔術師の口にした地はデュナンを起点としてハイランドを挟んで更に北、ハルモニア神聖国の首都である。転移魔法を体感する前であったなら、大法螺吹きとしか思えなかっただろう。
「神殿に忍び込むには少々難儀したが、策は捻り出した。成功するか否かは別として、試してみる価値はある」
髭を扱きながら呟く老人にマイクロトフが問うた。
「クロウリー殿……それでは昨夜は御休みになられなかったのですか?」
「確かに魔力の回復には休息が必要。なれど、わしは長年この道の鍛練を積んでおるからな、余人ほどは眠りを要さぬのだ」
胸を反らしての言のうちに確固たる自負が溢れている。自身らが休んでいる間にも着々と動いていた魔術師の方が余程勤勉に思え、騎士たちは狼狽と羞恥を覚えた。そんな一同を一瞥した老人はにんまりする。
「適材適所という言葉があろう。御主らが働くのはこれからだ。さて……、わしとしては今日のうちにでも死霊を葬ってしまいたいのだが」
不意に笑みが曇る。
「……問題は団長殿。あの者が動けぬとなると、話は変わってくる」
そう言い掛けたところで、計ったように続き部屋の扉が開いた。軽易な服装に身を包んだ青年が、壁に伝いながらも真っ直ぐに一同に目を当てている。
「御案じいただかずとも、わたしならば戦えます」
澄んだ声で宣誓するなり、カミューは歩を進めた。幾分覚束なげな足取りではあるけれど、常に劣らぬ優美を秘めた騎士団長の姿に、騎士らは無論のこと、魔術師もまた目を見張る。それから彼は感嘆を抑えた調子で呟いた。
「僅か一晩で然迄回復したか。まったく見事な精神力よな、団長殿」
青ざめた頬で笑んだカミューは、だが一同の輪の直前でよろめいた。砕けた膝は体躯を支え切れず、あわや転倒というところで逞しい腕が滑り込む。脇から助けた男が低く慰撫した。
「だが、まだ本調子ではないのだから無理はするな」
束の間、カミューは信じ難いものを見る瞳で精悍な横顔を凝視した。与えられた温もり、以前と変わらず傍らに存在する友。マイクロトフは相変わらず目を合わせようとせぬまま、けれどしっかりとカミューを抱き支えている。
「あ、……ありがとう」
いや、と小さく首を振ると、マイクロトフは彼を椅子に導いた。侭ならぬ足を休められたことに安堵しつつ、カミューは微かな困惑を抱え続ける。そんな二人の機微に構わず、魔術師は満足げに頷いて再び口を開いた。
「では、諸兄。先ずは考えてみるが良い。敵は実体を持たぬがゆえに、目視も能わず、剣で痛手を負わせることも出来ぬ。斯様なる魔性を滅するには如何するか?」
思案の無言、期待の注視。
もたらされたのは至極単純、且つ至難と思しき結論であった。
「手段は一つ。目に映り、攻撃が有効となるよう、身体を与えれば良い」
短い沈黙が下りた後、最初に背を正したのは副長ランドであった。
「……つまり、誰かが形代となって死霊に肉体を供与するという訳でありましょうか?」
「ならば、わたしが」
すかさず赤騎士隊長が身を乗り出す。
「元よりヘインは我が部隊が与る騎士、上官としての責を果たします。わたしを使っていただきたい」
魔術師の意味するところを悟れぬ一同ではない。それは即ち、形代となるものの犠牲を指しているのだと。それでもローウェルの面差しに何ら揺らぎはなく、自身が担うべきつとめへの崇高なる決意だけが溢れていた。
たとえ非はないと慰されても、部下の狂気を見抜けず、主君を危地に陥れた男の苦悶は消えないのだ。もたらされた魔術師の言は、彼を困却から解き放つに足る策であったらしい。
決然は見届けたものの、到底賛意を示せる筈もない。断じて認められぬ、そうカミューが異を唱えようとしたと同時に老魔術師は微苦笑した。
「心意気は立派だが、それでは死霊を滅したところで各々の心は晴れまい。副長殿、城へ戻る道中にて封印球は求められるか?」
唐突な転換に瞬いたランドは、首を傾げながら頷いた。
「紋章師の店はありますが、扱っているのは武器用の紋章のみになります。御求めに叶いましょうか」
ふむ、とクロウリーは嘆息する。
「やはり騎士の街か。五行の封印球が必要なのだが……何処かで手に入れてくるべきであったな」
「五行と申されますと、火・水・風・土・雷でしょうか。高位紋章でなくとも構わないのでしたら、騎士団に備えがありますが」
品々の入手に思案を巡らせていたらしい魔術師は、それを聞いて表情を緩めた。
「数は如何程を御望みに?」
「五種の封印球を一つずつ。次に、鍛冶屋を訪ねて欲しい」
立て続けの命にランドは眉を寄せている。聡明な赤騎士団副長は、困惑しながらも状況を整理しようと必死であるようだ。
「剣を鍛えるのでしたら、これも城に専門の者がおりますが」
「剣に紋章を宿せるか?」
はい、と彼は慎重に応じた。
「騎士団員の剣のみを扱うというだけで、技は巷の鍛冶屋と同じにございます」
納得したのか、老人は初めてマイクロトフに視線を向けた。痩せた手を突き付けられ、きょとんとする男に傲然とした声が命じる。
「御主の剣が良い。寄越せ」
意図を量れず、けれどマイクロトフが魅入られたように自剣を鞘ごと差し出す。魔術師は懐から取り出した小さな球体と共にランドに大剣を差し向けた。
「宿してきて貰おう」
「これは……?」
「手には入れたものの、これまで使う機会は無かった。此度は役立つ、『魔力吸いの紋章』だ」
それは武器にのみ宿せる紋章である。攻撃的中時に一定の確率で第一レベル魔法の使用回数が復元するといった効力を持つ。
魔法紋章を宿していないマイクロトフとしては、いよいよもって不可解が募る。それは赤騎士らも同様らしく、狐に摘まれたような面持ちで互いを見遣っている。そんな中でただ一人カミューだけが白い貌を真っ直ぐに老人に当てていた。
稀代の大魔術師は淡々と続けた。
「副長殿の用足し中、青いのと赤いの、御主らには一戦交えて貰わねばならん。余人を巻き込まぬ、戦いに望ましい地はあるか?」
形代の役割を一蹴され、けれど何ら説明も与えられず途方に暮れていたローウェルは、老人の思惑に添おうと必死であった。短い考慮の末、彼は答えた。
「……やはり、洛帝山付近が宜しいかと」
「ここに居る全員が知る、目印となるようなものは在るか」
「目印、ですか?」
「……『三本木』はどうだろう……?」
独言じみたマイクロトフの呟きを、カミューが補足した。
「麓から僅かに南下した平原に、似た枝振りの木が三本並んでいる地があります。騎士団では『三本木』と呼んで魔物討伐の折などの集合の目印としているのですが」
含み笑ったクロウリーが騎士隊長らに向き直る。
「其処で良かろう。どんな種でも構わぬ、日暮れまでに魔物を一体、仕留めよ」
但し、と口調が変じた。
「魔物は死と共に砂塵に還る。それでは意味がない。生きたまま捕えるのだ。これより御主らを飛ばすゆえ、彼の地を思い浮かべるが良い」
これまでの魔術師を顧みて、即刻行動に移ると察したマイクロトフは、空の両手を見据えて狼狽えた。
「し、仕留めよと言われても、剣が───」
「団長殿、剣を貸してやれ。今の御主には必要ない代物ゆえ」
そこまでは何とか持続したマイクロトフの自制も、終に霧散した。苛立たしげに黒髪を掻き毟る様子を眺め遣ったカミューが静かに言葉を挟んだ。
「恐れながらクロウリー殿、今少しだけ詳細なる御説明をいただけましょうか。己が役割の熟知は騎士の力を幾倍にも高めます」
喉元に蟠りつつも言葉に出来ずにいた二人の赤騎士が心から同意するように頭を垂れる。一瞬眉を寄せた魔術師は、柔らかく笑んでいる赤騎士団長をちらと窺い見た後、やれやれと溜め息をついた。
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