それは奇妙な浮遊感だった。
                乾いた清潔な敷布の上に投げ出した四肢は、まるで我がものとも思えぬほど重く、思考は不鮮明に揺れて定まらない。
                感覚が半端に研ぎ澄まされていた。
                周囲の冷気に肌を刺される穏やかな痛みは感じながら、それでいて視覚が覚束ない。ただ、巡らせる視線に映る周囲は仄かな燐光を含んでいるようにも見え、それが老魔術師の施した安息の術の余波なのだと長い思案の果てにカミューは悟った。
                偉大なる魔術師の名は聞き及んでいた。名が知られている割には実像が伝わらず、故に伝承上にて創造された人物ではないかとも囁かれてきたほどの傑物。
                そんな彼を共闘に誘った。出会いは偶然であっただろうが、改めてマイクロトフの運気の強さを思う。
                『泣いて頼まれた』と老魔術師は誇張したが、あながち想像出来なくもない。彼はそういう男なのだ。味方に得たいと思った相手を前に、形振りに頓着する男ではない。矜持を欠くという訳でなく、ただ一途な情熱をもって彼は魔術師の心を揺さぶったに違いない。
                だが、それは何のためだろう。
                親友のため───マイクロトフはそう言ったのだろうか。
                カミューは弱く息をつく。
                冷えた愛撫に身を捩り、あまつさえ暴行者を友に置き換えて歓喜した。大切に護り続けた温かな想いを、自ら冒涜する真似をした。そんな男のために、彼は老魔術師の前で膝を折ったのか。
                 
                ───仕方がなかったのだ。
                カミューの中で何者かが囁く。
                いっそ血肉を持った相手ならば、むざむざと屈したりはしなかった。何程の恥辱に染められても、喉笛を噛み裂く一瞬を計って己を叱咤し続けられた。
                けれど、剣も魔法も及ばぬ淫猥の牙に晒されて何が出来ただろう。為すすべもなく踏みつけられる悲嘆は、身に受ける痛みにも況して胸を裂いた。何よりも、人ならぬもの相手にすら高まる己が許せなかった。
                あのとき、想う男を過らせねば心が先に崩れただろう。だからあれは身を護るための手段だったに過ぎない。
                 
                本当にそれだけか───また別の何彼が問う。
                真に恥辱を厭うなら、舌を噛み切れば事足りた筈。
                誇りよりも命を惜しんだ。
                焦がれた男の肌を知らず、なのに魔性に抱かれて潰えるさだめを痛んだ。
                命尽きるときは彼の傍らで、そう願った日々を愛おしんだ。
                だから逃げたのではないか。最も安楽で幸福の中に。
                幾たびも望んだ未来、目前に広げられるマイクロトフの温かな腕を思い描いて。
                 
                胸中で責め苛む声に呼応して、慣れた自室が脳裏を過ぎり、死者の愛撫を蘇らせ始める。
                肌を這い廻る形なき指、それが戯れのように爪痕を残す一瞬。極限にて放った攻撃魔法の影響か、青白く虚ろな像を結んだ死霊が眼前に迫り、口元が動く様。忌むべき凌辱の刹那刹那が、茫とした思考に割り込むように、妙に鮮明に浮かび上がってくる。
                赤騎士ヘインの生前の声を聞いた記憶はなかった。
                一騎士に過ぎぬ男は、だが何かの機会でカミューに語り掛けていたかもしれない。報告、陳謝、そんな有り触れた日常で名を呼んでいたかもしれないのだ。
                声なき死霊の唇がそうしたように、内なる劣情を抑えたまま、気高き騎士の面を纏って───カミュー様、と。
                死霊の形なき欲望に刺し貫かれていたカミューには、部屋に飛び込んできた友と部下を意識する余裕などなかった。彼らによって死霊が退けられたのだと知ったのは、すべてが終わってからのことだ。
                斬り裂かれた天蓋の布が目撃者らの激昂を物悲しく伝えていた。
                彼らは見ただろう。
                死霊は目に映らなかったかもしれないが、あられもなく脚を割られ、死に掛けた獣のように身悶える己の痴態を。
                あるいは耳にしたかもしれない。
                遂情の刹那に堪え切れず洩らした呼び声、狂宴のさなかに胸の奥で叫び通した唯一の名も。
                 
                 
                もうやめてくれ、カミューはきつく目を閉じた。
                思うに任せぬ腕が上がるなら、顔を覆って一切を退けたかった。
                『精気を吸われた』と魔術師は言っていた。精とは即ち生きる力、魂の力。そこに欠損を生じたから、こんなにも心が疲弊しているのか。
                立ち向かう、そう誓った。
                死者に犯された恐怖を忘れるなど到底出来ない。ならば、超えるしかないのだ。カミューが立ち向かわねばならないのは決してヘインの亡霊ではなく、己自身なのである。
                夜が明ければ戦いが始まる。自らの尊厳を護り、異端と化した男を摂理に戻すための戦いが。
                だが、今は。
                今だけは。
                失われた何かを埋めるだけの力が欲しい。
                戦うため、先へ進むための赦しの光が───
                 
                「……マイクロトフ」
                虚空を探って僅かに蠢かせた手を、ふと温もりが包んだ。開いた瞳が映す世界は、相変わらず幻のように朧に霞んでいる。そこに認めた眼差しを、カミューは麻痺した笑みをもって歓迎した。
                「これは……夢、だな?」
                この宿屋で覚醒したとき、真っ先に気付いた。友が、真面に目を合わせようとしないことに。
                無理もない。凌辱の後始末を請け負わされ、挙げ句、愉悦の痕跡まで目の当りにしてしまったのだろうから。
                彼の本質とも言える一本気な気性からして、友愛は揺らがぬと信じられた。それでも、多少の変質があったとしても不思議はない。カミューとて、今は彼と正面きって見詰め合える自信がなかった。
                けれど、目前の男は真っ直ぐカミューに瞳を当てていた。以前と変わらぬ眼差しで、否、寧ろ以前よりも豊かな情愛を湛えた瞳で。
                しなやかな指を包み込んだ大きな両の手に、励ますかのように力を込める男。揺らぐ視界の中で照れ臭げに微笑んでみせる、カミューにとっての唯一の光。
                 
                そうか、夢か。
                明日に踏み出せと命じる心が生み出す、これは救いの幻影なのだ。
                だったらすべてを吐き出してしまおう。幻に向けて胸に澱む非を明らかにし、そして誇りを取り戻すのだ。
                 
                「おまえ、だったんだ……」
                不明瞭になりがちの声を励まして切り出す。弛緩した指に渾身の力を送り、男の手を握り返した。
                「肌を合わせているのはおまえだと……そう思い込むことで逃げたんだ」
                男がどういう表情を浮かべているのか、霞んだ目には良く見えない。それがもどかしく、ありがたかった。
                「愚か、だな……必ず悔やむと分かっていたのに」
                包み込む大きな掌に熱が増したように思えるのは、赦しを求める心が為せる奇跡なのだろう。
                 
                「好きだったよ、マイクロトフ」
                同じ想いを抱いていると確信していた。
                でも、彼がそれに気付くまではと胸に納め続けてきた。
                もっと早く告げていたら、何かが違っていたのだろうか。
                「好きだった」
                幻が、低く問う。
                 
                ───過去形か?
                 
                まったくもって容赦ない男だと苦笑せずにはいられない。
                人の夢の中でまで疑問を糾そうとするなんて、真っ正直にも程がある。
                「今も、だよ」
                悪夢から逃れるために死を選ぶのは容易かった。
                けれど、確かにあのとき生に執着した。屈辱を舐め、夢想に逃げても、同じ世界に在りたいと求めた。
                その切望が弱さなら、それでもいい。
                弱みを抱えたまま生き抜けばいい。
                穢してしまった想いは命を懸けて購う。共に生きるため、彼と真っ直ぐに向き合うために、何があろうと足掻き続ける。
                「……これからも」
                 
                熱い風がふわりと唇を掠めた。
                重ねられた温もりは、意識の朦朧とは裏腹に不可解なまでに現実味を帯びている。おずおずと忍び込む舌先の感触に打ち震え、やがてカミューは目を閉じた。
                柔らかく絡み合った熱が名残惜しげに去る頃には、いっそう深い眠りの淵に転げようとしていた。
                静かな呟きを聴いた気がした。
                 
                ───ずっとおまえと共に在る。
                 
                「そう悪い夢ばかりではないな……」
                微笑む間に、最後の感覚が燃え尽きた。
                 
                 
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