PHANTOM・14


小卓上の燭台のみを残して明かりを落とした室内では、穏やかな息遣いが続いていた。
既に二人の赤騎士は眠っている。とても休んでなどいられなかったマイクロトフに比べ、彼らはもう少し現実的だったようだ。来たるべき真の戦いに備えて心身を休める、それが上官への何よりの忠節と弁えたのである。
マイクロトフも、己に問題を抱えていなければそうしただろう。如何なる状況に在っても己の最善を尽くす、それが騎士の教えだったから。
揺れる炎の下で死者が記した記憶を手繰り、疲れた目を押さえて嘆息する。赤騎士隊長が素読すら禁じた理由が分かるようだった。殴り書いた文字の狭間から饐えた欲望が露出している。狂った妄想の中で辱しめられる友が痛ましく、忌まわしさの連続だった。
鈍痛を覚えて頭を振っていたとき、続き部屋へと通じる扉が開いた。
「何だ、寝ているようにと言うただろう」
憮然とした老魔術師の声音が昏い自責の渦に落ち込んでいる心に優しく触れる。未だ嘗てない非日常に困惑するばかりのマイクロトフにとって、この老人は唯一現実を実感させる礎となり始めていた。
クロウリーはちらと室内を窺った。
二つある寝台の一つを空けているのを自らへの配慮と悟ったのだろう、厳つい顔に仄かな笑みが広がる。もう一つの寝台に眠る赤騎士団副長、長椅子に身を投げた第一隊長を見遣ってからマイクロトフに向き直る。
「少しはこの深慮を見習え、青いの。読みものなど後でも良かろうに……。断固寝つけぬと言うなら、いっそ団長殿の手でも握って夜明かしするが良い」
「は? 手……?」
困惑して問い返すと老人は肩越しに隣室を見遣り、それから掌を目前に翳した。
「人は常に掌から幾許かの精気を放っておる。痛む場所に掌を当てると痛みが和らぐように感じることがあろう? 『気』が癒しの力としてはたらくからだ。窮地に臨んで己が手を握り締めるのも、『気』の放出を抑えて体内に貯えようとする無意識の自衛からよな」
「な、成程……」
感心するマイクロトフを一瞥した後、クロウリーは続けた。
「団長殿は危惧した以上に精気を奪われておる。自力での回復には時間が掛かるゆえ、寧ろ外部から取り込む方が早かろう。手っ取り早い手段が無いでもないが、これはちと障りが……」
「……?」
言い淀んだ先を計りかねて小首を傾げるマイクロトフである。老人は幾分語調を変えた。
「───ともあれ、どうやら御主は『気』が余り余っているようだ。分けてやったら良かろうて」
朗らかな調子に何と返したものか躊躇い、マイクロトフはただ項垂れた。そこで老人も並ならぬ怪訝を誘われたようだった。
「……少なくとも、事は収束に向けて動き出したと言えよう。何をそう浮かぬ顔をしている?」
それでも無言を通すと彼は腕を組んでマイクロトフに歩み寄った。
「妙だとは思うていた。御主、最初の勢いはどうした? たかだか言葉の綾でわしに食って掛かるほど大事な友なのだろうが。それを……真面に顔も見ようとせず、避けておる。得体の知れぬ化物と交合ったのを穢れとでも思うか」
違う、そう叫び掛けてマイクロトフは呻いた。その様を見詰めていたクロウリーが、ふと視界を巡らせる。すると周囲に濃い霧のような白濁が張り出して、眠る赤騎士らが見えなくなった。驚いて瞬く合間に老人は囁く。
「壁を作った。御主の声は彼らに届かぬ。思うことがあるなら吐き出せ、半端な心では親友殿は救えぬぞ」
束の間呆け、魔道の神秘に見入っていたマイクロトフであるが、やがて胸苦しさが堰を切って零れ出た。
「カミューとは……騎士に叙位された頃からの付き合いでした。あいつは……剣も礼節も、他者の追従を許さぬ立派な騎士です」
未だ掴み締めたままの冊子が両手の中で緩やかに握り潰されていく。
「誰よりも誇り高く、厳しく……それでいて優しい。おれが知る最も毅き騎士なのです」
同意するように老人が頷いた。
「友であることが誇らしかった。あいつに追いつきたい、並びたいと願って……傍に居るだけで目指す己に近づくような気がして。一番近しい存在なのだと……生涯変わらぬ、掛け替えのない友だと思ってきたのに」
絶句した男を不思議そうに見詰めていた老人が控え目に言葉を挟む。
「……訳が分からん。そうではなくなった、とでも?」
「───おれはカミューを穢しました」
慚愧が声を震わせた。冊子を投げ捨て、呆気に取られるクロウリーに取り縋らんばかりに身を乗り出して続ける。
「あの暴力を心から嫌悪したのに……死霊への怒りを燃やしながら、おれはカミューを得たいと思った。忌むべき死霊と同じ浅ましい欲望を抱いた! 自分がこんな……、彼の信頼に値しない男だったなんて……!」
罪を告白し終えたマイクロトフは老魔術師の長いローブの足下に崩れるように両膝を折った。抑え切れぬ憤怒の涙が滲んで瞼を焼く。
失意の慟哭を見守っていたクロウリーが、やがて微かに口元を緩めた。
「……やれやれ。ここまで歳を重ねたとは言え、わしには縁遠い分野なのだが」
そう言い置いて、ゆっくりと椅子を引き寄せる。
「それで……御主は逃げたいのか? 命と尊厳を懸けて戦おうとしておる親友殿から?」
不意を衝かれたように上がった顔に浮かぶ否定。それを見届けた魔術師は笑んだ。
「これは団長殿にも言ったが、御主が相対したのは妄執の化生……要は、歪んだ恋情の塊。攻撃されて逃げ去ったように見えても、思念とは得てして一体とは言えぬものよ。御主は謂わば、周囲に残った思念にあてられたのだ」
解釈を必死に噛み砕いていたマイクロトフは、やがて幾許かの希望を閃かせた。
「と言うことは……つまり、あれはおれの願望ではなく、ヘインの望みが作用しただけだと……?」
幽鬼となって彷徨い出るほどの情念が、傍近く寄った者を支配しただけなら───そんなマイクロトフの淡い期待を、だがクロウリーは苦笑して一蹴した。
「生憎だな、取り憑かれでもしたならいざ知らず、たかだか残留思念の如きにそこまでの力があろうか。心を暴かれたのだ」
「で、では、やはりおれは……」
再び愕然とするマイクロトフに向けて身を乗り出し、彼は穏やかに続ける。
「青いの、己の心に耳を澄ませてみるが良い。起きたこと一切をひとたび忘れ、己にとって最も大切なものを見定めてみよ」
葛藤に荒れ狂う胸に染み渡るような声であった。椅子に腰を落としたまま風景さながらに気配を消した老人の視線に励まされ、マイクロトフは自己の深淵へと足を踏み出す。

 

 

最初に浮かんだのは、もう随分前のように思える語らいだった。
一戦をも覚悟して向かったミューズ領から帰還した己を迎えた温かな笑顔。闘いにならなくて良かった、聞こえるか否かの小声で呟いたカミューの優しい横顔。
何気ない遣り取りのさなかに時折感じる甘やかな疼きを、交わす眼差しに覚えた切ない痛みを、ずっと友愛の一言で片付けてきた。
若くして地位を極めた友への想いは信仰にも似た清浄の鎧に守られてきたけれど、果たしてそれは真実だったのか。
城下の乙女との恋愛の噂に募らせた焦燥や、触れ合う肩先に過った戸惑いから、敢えて目を逸らしてきたのではなかったか。

抱いてはならない筈の想いだったから。
受け入れられよう筈もない想いだったから。

変質を恐れ、隔てを恐れ、喪失を恐れた。
意識の外に広がる自衛の檻が、だから無意識に想いを封じ続け───

 

 

「……おれは」
始まりなど分からないほど長く。
「おれは、カミューを……」
倫理も及ばぬほど深く。
「カミューを……」
譫言のように呻くマイクロトフを、老人が静かに遮った。
「……理解したようだな。御主は死霊の残した思念に触れて、内なる真実に向き合っただけのこと。その根源が何処にあるかこそが重要なのだ。それが死霊の逃げた理由にも繋がる」
困惑げに瞬くマイクロトフから再びカミューの眠る部屋の方向へと視線を移した老人が淡々と説く。
「剣を振るうだけで死霊を退けられるなら、団長殿もむざむざと陥ちはしなかったろう。御主の刃がそれを為したのは、死霊が感じ得たからよ。極めて己に近しく、だが決して相容れぬ想いの質と力に怖じたのだ」
「…………」
ふわりと袖口を翻して彼はマイクロトフの胸に杖を突き付ける。
「どうだ、青いの。御主には親友殿の心を無視して願望を遂げるなど出来ぬだろう。わしには御主が死霊と同じとは思えぬな」
「クロウリー殿……」
「想うておるなら力を尽くせ。誠を貫けるか否かで想いの価値が決まる。御主に為せることを果たすのだ」
「おれに出来ること……」
独言のように呟いたマイクロトフは毅然と顔を上げた。
「戦います」

 

己の心と真っ直ぐに向き合った今、すべてに勝るのは唯一だった。

 

「死霊の脅威を退けるため、カミューと共に戦います」
よし、と言わんばかりに頷いたクロウリーがゆっくりと立ち上がった。杖を一閃すると同時に、辺りに広がっていた靄が薄らいでいく。
「……団長殿の回復だが」
ポツ、と彼は切り出した。
「手っ取り早い方法があると言うたが、いずれ教えられるかも知れぬな」
「クロウリー殿?」
「まあしかし、これは団長殿次第と言ったところか」
謎掛けのように呟くなり、窓の外に目を向けた。
「悩み多きも若者の特権よな。時間を取られた、わしは休むぞ」
転移魔法の発動を察知したマイクロトフが慌てて立ち上がる。
「何処へ行かれるのですか?」
「身を休めるときは一人が良い。朝には戻る」
それだけ言い残すと、魔術師の姿は煙の如く掻き消えた。幾分慣れたとは言え、相変わらずの消失ぶりに息を飲まずにはいられないマイクロトフだった。
赤騎士たちの息遣いのみが漂う静寂の中でカミューの眠る部屋の扉を見詰める。

 

何と愚鈍だったのか。
己の心にさえ気付かずに今日まで過ごしてきた。
親友に欲情した、その驚愕によって先んじるべき真実を誤った。想いがあって衝動が生まれる、そんな大切な順序すら忘れていた。
何よりも重いのはカミューの存在。彼が生きて在る、それは自身の恋の成就への願望など及びもつかぬ絶対なのだ。
たとえ想いが受け入れられずとも、騎士として生きる限り、二人の道が完全に分かたれることはない。長い交友の果てに結び得た絆を踏まえての、それがマイクロトフの確信だった。

 

胸を覆っていた自責や沈痛が大いなる力によって塗り潰されたような心地で窓辺に向かった。何処とも知れぬ地へ消えた老魔術師に対する敬虔な礼を取る。
───もう、何も恐れるものはなかった。

 

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自分で書いておいてアレですが。
老魔術師はこんなに親切な人ではないと思う(笑)

 

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