カミューが覚醒したのは、移動魔法の終了時における衝撃によってだった。
殆ど反射で目を開けた彼は、自らを覗き込む見知らぬ顔に息を飲んだ。皺ぶいた厳つい老人は穏やかに目を細め、宥めるように告げる。
「そうは痛まなかった筈だが……一応、寝台に落とすよう配慮はしたのだぞ」
深遠を湛えた瞳に気付くと同時にカミューはゆるりと力を抜いた。本能が味方の匂いを嗅ぎ取ったのだ。
続いて彼は老人の背後に目を向けた。先ずは忠実なる二人の部下の姿を認めた眼差しが、最後に止まった青騎士の許で暗い影を過らせた。
ひとたび目を伏せ、それから彼は老人に視線を戻す。
「ここは……? あなたは……」
「街外れの宿屋だ。わしはクロウリー、この地でもそこそこ名は知られておるらしい魔術師よ」
「クロウリー、殿……?」
身を起こそうとしたカミューを老人が静かに押し止めた。
「回復魔法は施したが、倦怠までは癒せぬ。四肢が思うようになるまい、本復には時が要る」
暫し老人を見詰めてからカミューは横臥のままで礼を取った。
「カミューと申します。このような形での御拝謁、痛み入ります。トランの解放戦争は終結したのですね……御無事で何よりです」
するとクロウリーは背後の赤騎士らを窺いながら破顔した。
「流石は連中の指揮官よな、団長殿。疲弊しながら斯くも回転が早いとは見事よ。話は出来そうだな、大概はこの者らから聞いたが、幾つか確かめたいことがある」
著名な魔術師が死霊との戦いに参戦の意を示しているらしいと知ったカミューは、幾分怪訝な面持ちで切り返した。
「世俗に立ち交わるのを厭われる御方だと伺っておりましたが……解放戦争はいざ知らず、何ゆえに……?」
「この街に下りたのは止事無い事情だ、後で青い騎士にでも聞くが良い。それとも、わしが手を貸そうとしている理由を訝んでおるのかな?」
無言の肯定に老人は背を正す。
「一道を極めるは孤独な戦い、他者との関わりは無益に過ぎぬ───長くそうして生きてきたが、久方ぶりに外界に立ち、解放軍での日々を経て少々考えを改めた。まあ、言ってみれば縁とやらだな」
一の目的のために集った者たちが信頼をよすがに荒波を進む。解放軍の姿は孤高を貫く男の胸に忘れ掛けていた焔を呼び覚ましたのかもしれない。
無論、未知なる敵への挑戦といった気概も多分に加味されているけれど、今は寧ろ損得抜きの感が上回るらしいクロウリーであった。
「さて、他に疑念なくば本題に入ろう。先ず、最初に死霊と遭遇したときのことだが」
「───お待ちを、クロウリー殿」
慌ててランドが遮った。
「その……、我らは席を外した方が宜しいかと。次の間に控えておりますゆえ、何かございましたらお呼びいただけましょうか」
魔術師の質疑が恥辱の核心に触れるであろうことを予想しての申し出だった。部下の進言に安堵して息を吐くカミューをちらと眺め遣ってから、老人は首を傾げた。
「成程、配慮を欠いたか。では寝ておれ」
「は……?」
「よもやわし一人に全てを任せるつもりはあるまい? 戦いに備えて、休めるときは休めと言うておるのだ」
一同は納得して頷き、またしても老人への深い畏敬を新たにした。
連れ立って隣室に引き取る間際、マイクロトフだけは心を残した眼差しで振り向いたが、結局無言のまま赤騎士らの後に続いて扉の向こうに消えた。
横目でそれを窺っていたクロウリーは、寝台脇に椅子を引き寄せて腰を落とし、長い髭を扱いて呟く。
「良い仲間を持っているな、団長殿。御主も苦しかろうが、あの者らも負けぬほどに胸を痛めておる。御主は一人ではない。それは不運の中の幸いだ」
「───はい」
「先程の質疑に、もう一つ答えがある。青い騎士に助力を懇願された。生涯の尊崇とか言うておったな……。あの大男に泣いて頼まれては、応ずるよりあるまいて」
愉快げに忍び笑う老人をまじまじと見詰め、カミューは眉を顰た。
「……泣いて? マイクロトフが?」
「印象よ。諾と言うまで離して貰えまいと確信した。迫力負けと言ったところかもしれんな」
束の間カミューも口許を緩めたが、温かな心持ちはすぐに霧散した。彼の誠実に値せぬ暗部を抱えている自身に思い至ったのだ。
「さて。答え難いこともあろうが、怖じず恥じず、包み隠さず話すが良い。斯様に枯れた爺相手ならば頓着なく答えられよう?」
そのような、と苦笑してからカミューは弱く頷いた。
「過ぎた事実は消せません。恥じるよりも先へ進まねば、……そう覚悟しております」
「潔い。騎士とはまこと、快いものたちだ」
賛辞の後、魔術師はマイクロトフから得た情報を補足していくかたちの聞き取りを開始した。
赤騎士ヘインが生前からカミューに恋情を抱いていたこと。次第に狂気を孕んだ葛藤が渦巻き、それを文字に記すことで辛うじて均衡を図っていたこと。
やがて抑え切れなくなった願望が不運な少年に対して爆発したこと、そして断罪───。
狂気が我が身を襲ったあたりまでくると、自らを励ましながらも流石にカミューは声を詰まらせた。暫し状況を聞き進めた後、もういい、といった素振りでクロウリーは述懐を制した。
「亡者が初めて現れたのは一昨日の夜と聞いたが、昨夜は?」
「襲撃から逃れようと部屋に戻らなかったのです。今宵は……その、まだ宵の口でしたので」
成程、と魔術師の深遠なる瞳が煌めく。
「陥り易い錯誤よな。死霊も魔物同様、世の理から外れた異端。そうした括りで見れば、夜歩きばかりとは限らぬ」
ヒトは陽光を糧として、輝きの失墜と共に休息に入る。最も消耗している時間帯だからこそ、神経が自衛の網を張り巡らせるのだ。
深夜、長い廊下で背後に気配を覚えて総毛立つ者は多かろう。けれど同じ状況が昼日中に用意されても、多くは気付かぬまま過ぎ行く。即ち『感じよう』とする力が内在するか否か、それが分岐なのだとクロウリーは説いた。
「まあ、それが此度の死霊に当てはまるかどうかは分からぬがな。明かりを忌んだというからには、やはり闇が何らかの力として作用するに相違ない」
そこで老人は束の間押し黙った。情報を整理・分析しているのだろうと察してカミューも沈黙を守る。鋭い魔術師の目が上掛けに無防備に投げ出された手に止まった。
「火を放った際、死霊はどう───いや、見えぬのだったな、怯んだようには感じられたか?」
我が身に伸し掛かる圧迫へ守護の炎を向けた一瞬。追い詰められ、祈りを掻き集めた必死を蘇らせてカミューは喘ぐ。
「見えたのです、炎に包まれて苦悶するひとがたの影が。焼け焦げた灰を纏ったような……目鼻立ちを伝えるほど明瞭に凝って、あれは……あれは───」
「心を鎮めよ、団長殿」
「ヘインだった! わたしは法議会の場で唯一、彼の弁護の権利を持っていた。罪状から死罪は免れずとも、減一級で斬首を進言することも出来たのです。けれど、わたしはそうしなかった。無力な子供への暴行、扼殺……弁護の余地など認められなかった」
「道理よ、御主は己の信義に基づく選択を果たしただけだ」
「騎士として最も屈辱的な死を与えたわたしを恨んだのなら、復讐の刃を下せばいい! 何故あんな……あのような恥辱を……わたしを想っていたというなら、何故……!」
不意に、枯れ枝のような細い指が白磁の額に押し当てられた。反射的に目を閉じたカミューは、そこから溢れ出した清涼な癒しの風が全身を包み込んでゆくのを感じて戦き震えた。
「……この世に留まったときから、既に人ととしての理など消え失せている。末期まで恋情に溺れ、今は執着が凝っただけの思念の化生よ。触れたいと願うゆえに、思念が四肢を模る。己の存在を留めんがために歯を爪を模り、跡を刻む。それはもう人の意識とは言えぬ。魔性と化した思念の暴走、道理が通じる相手ではない」
音曲のように周囲を巡る声が、激昂に駆られたカミューの思考を鎮めていく。
「けれど唯一死霊に弱みがあるとすれば、御主を置いて他にない。生前の恋情が、あるいは亡者を理の輪に繋ぎ直すための楔となるやもしれぬからだ。ゆえに、御主は戦わねばならぬ。どれほど理不尽なつとめに思えようとも」
空に溶け入るように言葉が途切れた。カミューは瞬きながら幾度か息を吐いて小さく陳謝した。
「……申し訳ありません。自制を欠きました」
それから微笑もうと務めつつ付け加える。
「つとめを果たすのは騎士の責務、ましてヘインは赤騎士団を束ねるわたしの部下。戦います───彼を在るべき場所へ戻すために」
「御主は強い」
クロウリーは破顔した。トラン解放軍で共に戦ったものたちを過らせ、同じ輝きを目前の青年に見出した、そんな温かな眼差しであった。
「最後に……非常に訊き難いが、御主、死霊と幾度交わった?」
「え?」
俗事を嫌う老人にとって最も気鬱を誘う質疑であるようだ。幾分しかめた顔に、だが好奇や侮蔑の影はなく、真摯な懸念ばかりが満ちていた。
「……おそらく、仰る意味では一度だと……思います」
低く答える。
最初の夜、確かに暴虐な死の愛撫になすすべもなく全身を撫で回された。けれど死霊は結合までは試みようとしなかったのだ。
「つまり、今宵が初めてか」
深々と考え込む横顔を眺め遣り、カミューは躊躇した。
こればかりは自ら進んで告白する気にはなれない。けれど真剣に策を模索する魔術師の誠実の前に、問われれば答えざるを得ないだろう。
かたちなき腕で抱き締め、弄り、肌を吸い上げていた氷温の魔性。その汚辱が終に体内にまで及んだのは、侵し難い唯一の男の名を昇らせたときだったのだと。
からだを抉ったのは死した騎士の妬心ではなかったか。
押し開かれた激痛の中に、自らのものとは異なる痛みを覚えはしなかったか───
更なる追求を覚悟して身を堅くしていたカミューだが、クロウリーはゆっくりと首を振った。
「ただの一度で斯くも精を吸うか。次は立ち枯れた樹木の如き廃人となるか、悪くすれば死に至る。わしが付いている以上、させぬがな」
立ち上がり、彼は再び杖を高々と掲げ持った。見る間に白く澄んだ空気が室内を覆ってゆく。
「煩わせたな、休むがいい。奪われた精は食と眠りによって癒すしかないのだ。術を施したゆえ、たとえ追って来ようと死霊に御主の居場所は突き止められぬ。ゆるりと眠れ」
見守っていたカミューは弱く頷き、今一度小さく礼を取った。
「感謝……致します、クロウリー殿」
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