───マチルダ領民の魔術への知識の浅さを笑える身などではなかった。
                マイクロトフはくらくらと目眩を起こしながら、唖然とした面持ちで見詰める赤騎士団要人らに対峙した。
                 
                 
                幸いにも未知なる敵との共闘を承諾してくれた稀代の大魔術師は、ひとたび心を決めると実に行動が早かった。城へ向かうと促され、『では案内を』と立ち上がるや否や、魔道の力を発動させたのである。
                マイクロトフは未だ嘗て転移の魔法を体感したことがなかった。マチルダ騎士の殆どが同様だろう。魔法紋章を宿す騎士もいるにはいるが、その多くは五行の紋章、あるいは回復魔法紋章といった、店に並ぶような品に過ぎない。
                戦いの手法の一つとして得難い効力を発揮するであろう転移魔法も、だから書物の中に存在する画期的な魔術でしかなかったのだ───今、この瞬間までは。
                突然視界がブレた後は何が起きたのか分からない。
                気付けば数刻前に退出した筈の赤騎士団長私室に立っていた。傍らに老人が並んでいなければ、長い自失に陥っていたと錯誤したかもしれない。
                彼の放心は赤騎士らのそれでもあったようだ。長椅子から腰を浮かせ、呆気に取られた顔のまま、赤騎士団副長が搾り出した。
                「マ、イクロトフ殿……今、何処から……?」
                それから見知らぬ闖入者に目を移し、利き手を剣の柄に掛ける。同じように赤騎士隊長も臨戦の構えを見せたが、老人の悠然、そして隣に立つマイクロトフの存在が抜刀を躊躇わせているらしい。
                漸く人心地ついて声を出せるようになったマイクロトフは慌てて一歩進み出た。
                「おれです、戻りました」
                言ってから、何と間抜けた一声かと恥じ入る。
                「その……、ランド副長の指示された宿屋で、この御方にお会いしました」
                激しい混乱を必死に整理しようと努めているのか、一応は剣から手を離したものの、依然赤騎士らは緊張を隠せない。だが、老人の名は二人の胡乱を四散するだけの力を持っていた。
                「魔術師のクロウリー殿でおられます」
                「何と? かの御高名な……?」
                副長ランドが目を見張る傍ら、第一隊長ローウェルが口を開く。
                「大魔術師クロウリー殿……、トラン解放戦線に立たれておられるとの御噂を耳に致しましたが……」
                飽く迄も慎重な口振りが老人を微笑ませた。自身の名を騙り、弱みに付け入って金品を巻き上げる不届きな手合いの存在は知っている───そう言いたげな面持ちであった。
                相変わらず情報収集に余念のない赤騎士団に感嘆するマイクロトフの横、クロウリーは言う。
                「良い耳をしておるな、赤いの。ならば数日も経たぬうちに聞こえてこよう。赤月帝国の終焉、更に耳聡ければ終戦直後に消えた魔術師の噂とやらも、……な」
                マイクロトフ同様、二人も内乱終結の報に驚きを浮かべた。優れた諜報の力を逆手に取るような老人の挑発からは、身の証を立てるに相応しい自信が読み取れる。即座にローウェルは頭を下げた。
                「御無礼を……。お許しいただきたい」
                部下に代わって丁寧に陳謝を言上したランドを魔術師は軽い会釈で往なす。
                「見えぬ敵相手に気を尖らせておるのだ。慎重など、幾ら期しても足りぬだろうて」
                それを聞いてランドは表情を曇らせた。
                「子細を?」
                「この青い騎士にな」
                「然様でしたか……。ここまで足を御運び下さったと言うことは、御力添えいただけると理解して宜しいのでしょうか」
                「この者にも言ったが、わしは祓い屋ではない。力になれるか否かは試みてみねば分からぬが」
                闇中の光明に等しい申し出である。赤騎士らは手柄を賛美するかの如き眼差しでマイクロトフを見詰めた。二人の表情から、強大な味方を得た幸運を改めて痛感するマイクロトフだ。
                「それにしても行き違いにならなくて良かった。こんな戻り方をしようとは、おれも思わなかったので……。すぐにも出立出来ますか?」
                言うなり、ランドが複雑そうに眉を寄せる。
                「それが……不測の事態でな」
                沈痛な瞳が奥の寝台に向かうのを見て、息詰まる不安が込み上げる。
                「まさか、また死霊が?」
                いや、と首を振りながら彼は応じる。
                「そうではない。君が去った後、ひとたびは意識が戻られたのだ。宿で籠城するにも色々と準備を要す。その間、御休みいただいていたのだが……今度は目覚められぬ」
                黙して会話を聞いていたクロウリーがゆっくりと部屋を横切り始めた。一同の注視が追う中、厳しい瞳が寝台の周囲を睨み据える。
                真っ先に意識を止めたのは天蓋の布地だった。丁度寝台に半身を起こしたあたりの高さで切断されているそれを手に取り、騎士らを窺う。
                「これは?」
                何と説いたものかマイクロトフが思案する間に赤騎士隊長が切り出していた。
                「彼が……マイクロトフ殿が死霊を斬ったのです。いえ、正しくは死霊の影、といったものですが」
                影、と喉の奥深く呟いて老人は考え込む。
                「見えたのか、御主らには?」
                内に在った異質の存在を薄ぼんやりとした陰影として映し出した天蓋の布。男の姿に見えるそれが小刻みに蠢く様を蘇らせ、事情を説く間にも騎士らの憤怒は募る。
                そのうちに死霊の影の首と思しきあたりに認められた縄について言及が至ると、魔術師は強い関心を示した。
                「今も尚、吊るされているように見えた……ふむ、成程」
                独りごちて、先を促す。
                何を知り得たのかを語られず戸惑った顔を見せたものの、ローウェルは続けた。
                激昂したマイクロトフが剣を振るったこと、そのまま影が消え去ったこと───
                クロウリーは斬り付けた当事者であるマイクロトフをしげしげと凝視し、何事か納得したように頷いた。
                「分かった、もうよい」
                短く言われて肩透かしを食った心境の一同だったが、その眼差しが眠る人へ向かうのを見ては沈黙を守るしかない。
                「……若いな」
                半ば独言じみた呟きは騎士たちには届かなかった。
                部下の資は、それを束ねる者の力量をも語る。先の遣り取りから知れる赤騎士らの礼節と聡明、そして才覚。そんな年長者から上官と仰がれる人物、今は力なく横たわる青年の真価を、老人は一瞬にして余さず読み取ったようだ。
                「成程、優しげな風貌をしておる。邪心に魅入られるとは不運なことよ」
                努めて心の隅に押し遣っていた痛みを抉られた気がして、マイクロトフは微かに戦いたが、気付くものはなかった。
                引かれたように寝台脇に集まる騎士らをよそに、魔術師の観察は続く。杖の先で慎重に襟元を掻き分け、覗いた暴力の傷痕に忌ま忌ましげに吐き捨てた。
                「実体も持たぬ魂魄の分際で爪や歯跡を残すか。呆れた執着の強さよな」
                痛々しく紫に変色した痕跡から目を逸らすしかない騎士たちは憤りに拳を震わせるばかりだ。
                ふと、老人の口調が変わった。
                「この者……、『烈火』持ちか。悪くない」
                「しかしクロウリー殿、カミュー様も攻撃魔法による撃退は試みた御様子でした。けれど効力は……」
                無念を滲ませた指摘に薄い笑みが浮かぶ。
                「火は滅びと再生を司る力。穢れを無に帰し、清浄を生み出す───故に、魔道では浄化に通じる力と考える向きもある。尤も、このような室内で解放された力など『烈火』の切れ端にもならん。撃退どころか、足止めが精々といったところであろうな」
                それより、と笑みを消して眉を顰た。
                「やはり相当に精を食われたと見える。どれ、気休めにしかならぬだろうが、回復を掛けておくか。肉体の傷はそれで癒やせる」
                言いさして、杖を翳す。これは騎士にも馴染みのある水の魔法のようであった。昏睡を続ける蒼白の頬に僅かな朱が注したように見え、一同は仄かな安堵の息を洩らした。
                「精、というのは……? 食われたとは如何なる意味でしょう?」
                おずおずとローウェルが問うと、術を終えた魔術師は低く答える。
                「精気、即ち生命の源泉たる力。この者は死霊との交情によってそれを奪われた」
                瞬間、忌むべき光景が視界を過ぎったように顔を歪めた赤騎士隊長だが、現場を目撃しなかった副長は辛うじて冷静を貫いた。
                「御命に障るということですな?」
                「事が重なれば、確実にな」
                「死霊から遠ざけるためにも、一時的に居所をお移ししようと考えておりましたが……如何思われましょうか」
                「賢明な判断だ。疲弊するこの者とは逆に、糧を得て魔性は力を増す。わしも霊魂を相手にするのは初の試み、この者からも直に話を聞かねばならぬ。周囲に異質なる気配を感じぬ今のうちに場所を違えておくべきだろう」
                そしてクロウリーは三者を見据えた。
                「ここに居る者、すべてあの宿に移して良いのか?」
                今し方目の当りにした怪異を思い出したのか、ランドは心許なげに尋ねた。
                「それは……『瞬きの紋章』とやらによる魔法でありましょうか」
                「多少の知識があるか。然様、帰還魔法と組み合わせて使っている。先程は、この青い騎士の意識から此処を探り当てて移動した。なまじ数を宿していると紋章の純正を忘れてくるものでな、今や正統なかたちで使う魔法の方が少ないほどだ。己に適った使用法を編み出す……それが我が長年の修錬の目的と言える」
                尤も、と老人は小さく嘆息した。
                「如何に修錬を重ねても使用回数は限られる。纏めて飛ばすぞ、必要な品があれば零すでない。戻り道は自力と心得よ」
                 
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