指示された通り、マイクロトフが赤騎士団副長の名を出すと、宿の主人は──半ば放心気味だったが──直ちに部屋の用意に走った。
主人の配慮は満足のゆくものだった。二間続きの寝室を持った其処は廊下の最奥に位置していて、周囲に他の部屋はない。これならば秘密も十分に守られるだろう。
礼を言って主人を引き取らせると、同席の依頼に渋々と応じた魔術師に向き直った。
「改めてお伺いしたい。あなたは本当にクロウリー殿でおられるのか? あの、百の紋章を持つという……」
その存在は、もはや伝説とも言える。デュナンの民はおろか、遠い諸外国でも知らぬものはないだろう。
如何なる手法か、身に百もの紋章を宿し、稀代の魔術師の名を恣にする人物。あまりにも著名でありながら、その実像に向き合った者の話は聞かず、一説には実在しない幻とまで囁かれる人物だ。
騙りとまでは言わずとも、同名の魔術師かと訝しんだマイクロトフだが、相手は超然としたものであった。物珍しそうに室内を物色して回りながら軽やかに応じる。
「御主が言う『あの』か否かはともかく、確かに紋章は百ばかり宿しておる。ふむ、これを貰うぞ」
老人はキャビネットに納められていた酒と杯を取り上げた。
「こうした品には縁のない暮らしが長かったのだが……如何せん、一度箍を外すとなかなか元には戻らぬ」
暫し芳香を楽しんだ後、彼は杯を干した。言葉を探しあぐねているマイクロトフを一瞥し、にんまりと笑む。
「世事を嫌って何処とも知れぬ地に潜んでいる……御主の知る大魔術師とはそうした者であろう?」
「はあ、……その……」
「確かにわしは長く世事を避けて暮らしていた。ここより遥か南、クロン寺院近くの洞窟でな」
近頃解放戦争で揺れているトランの地。そこに在る有名な寺院の名がマイクロトフを瞬かせる。
「俗世と切り離された暗い洞穴で魔道と向き合い、己を琢磨しておった。あのような地を訪ねる酔狂な者はおらぬと確信して、な」
嗄れた声に可笑しげな調子が混じった。
「だが……来たのだ、わしの力を求める者が。闇の回廊を潜り抜け、外へと誘う強大な光───解放軍を率いるマクドールの坊が」
「解放軍……」
独言のように呻いてマイクロトフは乗り出した。
「では、クロウリー殿は解放軍の一員として赤月帝国との戦いに臨まれておられたのですか?」
「赤月帝国は、もうない」
老人は淡々と返した。
「解放軍が勝利した。トランに新たな国が生まれる」
これには呆然として押し黙るマイクロトフだ。
常にジョウストン都市同盟と対立してきた帝国の崩壊。騎士団内でも、そう遠くない未来に政権の交代が行われるだろうと予想されていたが、こんなかたちで終戦を伝えられるとは考えてもみなかったのである。
「赤月帝国が滅んだのか……」
様々な感慨が、無意識に呟きとなっていた。老人は髭を扱いて続ける。
「必衰のさだめよ。ともあれ、わしは役目を終えたのでな、元の洞窟に戻ろうとしたのだが」
そこでクロウリーは苦笑した。
「……折角外に出たのだし、広いところで研究を重ねた魔法でも試そうと考えたのが間違いだった。この地には滅多に人の訪れぬ、魔物の棲む山があるな」
「洛帝山ですね」
「然様。戦後で混乱するトランの地を騒がせるのも憚られたのでな、そこならば良かろうと考えたのだが……久々に使った転移魔法が目測を誤った。うっかりこの宿に飛んでしまったのだ」
それまで孤高の威風に満ち満ちていた老人の告白に、堪らずマイクロトフは吹き出した。
「成程、猿も木から……という訳でしたか」
「猿呼ばわりは釈然とせんが」
憮然と返す魔術師も、終始礼節を通すマイクロトフに好感を募らせたようだ。冷徹な瞳に親愛がちらつき、近寄り難い威光は影を潜めた。
「しかし、そうした理由だったならば先程の者たちは大丈夫でしょうか?」
「勘は戻った、連中の最も縁の深い家屋を探り当てて送っててやったわ。まあ……、一人くらいは余所へ飛んだかもしれぬが」
含み笑って続ける。
「顔を合わすなり人を魔物呼ばわりしおって……ここの者共は魔道に対する認識が低過ぎる」
「仰る通り、ここは騎士団の膝元、街人が魔法を目にする機会は少ないのです。代わってお詫びする、御容赦ください」
するとクロウリーは眦を緩めた。
「無礼者の集まりかとも思うたが、流石に騎士は行き届いておるな。良い、もう忘れた」
で、と不意に口調が変じた。
「そろそろわしを留め置いた真の理由を話すが良い」
「…………」
「どうした、言えぬか。ならば代わりに言うてみるか。剣の道には余る苦境を負い、途方に暮れておる。マクドールの坊と同様、わしの魔道の力を欲している───」
刹那、マイクロトフは老人の足下に崩れ落ちた。床についた両拳を戦慄かせ、苦悶が唇を吐く。
「偉大なる大魔術師クロウリー殿、騎士の名と剣に懸けて生涯の尊崇をお誓い申し上げる。我が友を救うため……、どうか御助力いただきたい!」
「───死霊」
長椅子に沈んだ魔術師は胡乱な調子で呟いた。
「死んだ騎士が御主の親友に仇為している、と」
重苦しい確認の声音に改めて事態の困窮を知り、マイクロトフは項垂れた。老人は首を傾げて腕を組む。
「ふうむ……まったく知識がないとは言わぬが、生憎と祓いの術は専門外よな。寺院に頼る方が早道なのでは?」
しかし、と必死に顔を上げた。
「このデュナンにクロンほど格式ある寺院は……。それに、彼の地を訪ねる時間も人的余裕もないのです。悠長に手を打っている間にも、また死霊が……」
するとクロウリーの眼差しがきつくなった。
「すべてを明かさず助力を求めようなどとは思わぬ方が良いぞ、青いの。助力を望むならば、先ずは包み隠さず語るのが礼というものであろう」
マイクロトフは固く掌を握り合わせた。
よもや魔道で心を読んでいるとも思えないが、歳を経た魔術師の洞察は恐ろしく的確だ。事実の核を伏せたままでは切迫した心境も伝わるまい。観念して口を開いた。
「死霊が現れるのは、……友の寝所なのです」
薄闇の中でカミューに覆い被さっていた魔性の影が脳裏にちらつき、声が乾く。それ以上はとても言えず、力なく俯くと察したように老人は瞳を眇めた。
「つまり、御主の友は死霊との逢瀬を重ねておるのか」
「……違う!」
激昂してマイクロトフは叫んだ。
「逢瀬などではない、あれは……あれは暴力だ! 亡者が一方的にカミューを苛んでいるだけだっ!」
一気に言い放つなり息を切らせて戦慄く騎士を、慈悲深い声が諭した。
「愚か者、言葉の綾ではないか。騎士が冷静を欠いて良いのか?」
「う……」
たちまち恥じ入り、頬を染めて頭を下げる。
「も、申し訳ない、つい……」
「無二の友の窮地とあっては致し方ないか。ともかく、落ち着け。その者、執着ゆえに魂が迷ったのであろう。死後の世にも行かずに留まり続けるとは凄まじき邪念の塊よ」
自らを納得させるように頷いた老人を凝視しながらマイクロトフは問うた。
「死霊と戦った経験がおありですか?」
「専門外と言うただろう。まあ……、確かに魔道の括りには入るであろうが。実体を持たぬという意味では、魔物の類よりも質が悪い」
落胆を隠し切れず嘆息したマイクロトフだが、続く言葉に目を見張る。
「死霊を滅するのも肝要だが……実際に死霊と褥を交わしたとなると、親友殿が危険だな」
「どういうことです?」
忌まわしい欲望の餌食にされたことでさえ耐え難い苦痛であろうに、更なる弊害があるというのか。知らず震えた唇を痛むように見遣り、魔術師は短く答えた。
「精を吸われる」
「……?」
「その道における通説だ。生ける者が死者と情を交わすと、その精気を吸い取られる」
愕然として声も出なかった。憐憫めいた視線を逸らし、クロウリーは続ける。
「長く逢瀬を重ねれば、いずれ精は尽きる。一刻も早く死霊と断絶せねば命にかかわる」
「ど、どうすれば……」
混乱して思考も覚束ず、マイクロトフは唸った。
「……そうだ、ランド副長が仰っていた。死霊は視界が利かぬ、と……カミューを隠せば良いのか、そうすれば……」
譫言のように呟き続けていると、老人が再び苦笑した。
「一人で走るな、青いの。何のためにわしを留め置いた?」
それから彼はゆったりとした衣を撥ねて立ち上がる。
「魔術の求道は俗人には理解し難きもの。だからわしも極力世事に関わらぬよう生きてきた。然れども、大きな戦に手を貸した今、多少の寄り道もまた一興。どれ……、城へ赴き、死霊相手に我が術がどれほどの力を持つか、ひとつ試してみるとするか」
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