唇に柔らかく冷たい感触を覚えた。
ゆっくりと開いた目に映ったのは間近で揺れる琥珀の宝玉だった。喉を伝い落ちていく水に、マイクロトフは幾度か瞬いた。そこで再び唇を覆う甘い吐息。少年が口移しに水を流し込んでいるのだとようやく気付く。
「良かった」
離れた唇が濡れた声を紡ぐ。
「カミュー……?」
起き上がろうとして泥のように重い身体にままならず、顔だけを傾けると、傍らに座り込んだ細い身体が小刻みに震えていた。与えておいた青い上着は横たわるマイクロトフに掛けられていて、カミューは夜着一枚だった。見渡せば周囲は薄暗い。未だ消えずに残っている焚き火だけが心許ない暖である。
半日以上も意識を失っていたのか、と朧げに考えてからぎくりとした。ならばカミューはこの薄着で付き添い続けていたのだろうか。
「ずっと其処にいたのか?」
カミューは小さく首を振った。
「火が消えそうになったから……薪を拾ったり……水も汲みに行った」
飲み水にしている湧き水は洞の近くに流れている。マイクロトフは怪訝に思った。
「着替えてくれば良いものを」
そうだね、と自嘲の笑みが零れた。
「……忘れていたよ」
見れば唇まで青ざめている。マイクロトフは四肢を叱咤して半身を起こすと、冷え切った少年の身体を抱き寄せた。刹那、張り詰めていたものが切れたのか、カミューは両腕でしがみつきながら嗚咽を洩らした。
「────怖かった」
「怖くないのではなかったのか?」
自らが発したであろう殺気と暴力の影を思えば当然のことだと口元を歪めたマイクロトフだったが。
「マイクロトフは怖くない。でも……マイクロトフがいなくなるのは怖い」
さながら親と離れまいと喘ぐ子供のように、カミューは男の胸に顔を埋めてかぶりを振った。
「このまま目覚めなかったらどうしようと……」
語尾は掠れて聞こえなくなった。
縋りつく肢体は出会った頃に比べて丸みが失せて、少年期のしなやかさを育んでいた。以前のようにすっぽりと懐に隠れてしまう大きさではなくなっていたけれど、黙っていれば年齢不相応に落ち着いて見える少年と成長していたけれど、こうしていればカミューは未だマイクロトフの庇護を全身で求める子供だった。
苦笑して、冷え切った薄い背を擦ってやっていると胸元からくぐもった声が言った。
「……マイクロトフ……好きなひと、いる……?」
「…………?」
問い掛けの意図を探ろうとしたが、諦めた。遠い過去に想いを馳せる。故郷の街で一度だけ愛を交わした乙女がいた。それは、まだ彼が人として生きていた頃の古い記憶だ。目を伏せて柔らかな薄茶の髪を撫でながら答えてやる。
「過去のことだ。もう……顔も覚えていない」
「……その人のため、早く大人になりたかった……?」
────どうだっただろう。
当時、そんなふうに思っただろうか。
マイクロトフは思案したが、あまりに遠い記憶の扉は錆付いたままだった。
「分からない。ただ……強い男となろうとは心掛けていたかもしれないな。何故そんなことを聞く?」
カミューはほんの僅かに躊躇してから首を振った。それっきり口を噤んでしまった少年に、敢えて問い質そうとはしなかった。カミューは利発な子だ。有り余る時間の中で、その思考がどれほど過敏に働き回っているのかマイクロトフにも想像がつかなかったからである。
「難しいことを考えなくてもいい。人はごく当たり前に成長していく。そう……最近、声が出にくいということはないか?」
カミューは驚いたように顔を上げた。マイクロトフは頷きながら教える。
「それも同じだ。声変わりと言って……次第に大人の男の声になる予兆だ」
「わたしのこと、何でも分かるんだね」
呆然とした調子でカミューは言った。
「少し前から喉が痛くて……たまに声が出なくて。そうしたら今朝、あんな…………」
「だから病だと?」
マイクロトフは笑いを堪えて少年の背中を叩いた。
「すまなかったな、おれは『外』にいた頃からその手のことには疎かった。早めに教えるべきだった……」
カミューの知識は殆どがマイクロトフの教育に基づくものだ。改めて反省しながら詫びた彼に、カミューは弱く首を振って訊いた。
「マイクロトフは……変わらない?」
「変わりようがない。この身に魔を宿している限り」
────魔に支配されなければ、と心で付け加えたが、カミューはそうじゃない、と言って身体を離した。真っ直ぐに見詰める瞳の強さには幼さが消えていた。
「わたしがどんなふうに変わっていっても……ずっと傍に居てくれる?」
ふと、胸を突かれた。
カミューはやがて、止まってしまったマイクロトフの歳に追いつく。
そしてそれからは────
「おまえが望む限り……おれは変わらずに在る」
低く答えた。
このままでいい筈など、ない。
『人』であるカミューは在るべき世界で生涯をまっとうすべきなのだ。認めながら傍から離せずにいるのはマイクロトフ自身の未練の所為だった。
本当にカミューのためを思うなら、無理矢理にでも『外』へ戻すべきである。承服しないなら、魔物に命じて何処かの村へ投げ捨てるという手段だってあるのだ。柔軟な年頃のうちならば、すぐに新しい環境にも慣れるだろう────森での生活に馴染んだように。
カミューはあまりに純粋で清廉だった。曇りない瞳を護るためには魔と隔絶してやる必要がある。どれほど馴染んで暮らそうと、所詮は文明から切り離された生活だ。旅人が落とした布や皮で間に合わせの衣服を繕い、ろくな味付けもない食事を流し込み、朽ちかけた書物を捲って。
整った容貌、なめらかで優美な肢体、教えたものを呑み込む賢さ、際立って敏捷な剣技の冴え。どれを取っても優れた若者としての未来を約束されながら、ただ蒼き森に埋もれていくなど到底許され難いことだ。
この少年の未来のすべてを掌に握っているのが自分である以上、動かねばならないのも自分であることは充分に分かっていることなのに。
そして。
たとえカミューがそれに満足し、共に在ることを選んだとしても。
いつかは必ず────
激情に駆られ、知らずマイクロトフは少年を掻き抱いていた。骨も折れよとばかりにきつく抱き込んだ身体は未だ冷えていた。
「マイクロトフ……?」
やや弾んだ声が怪訝そうに呼ぶ。答えず、いっそうの力を込めた。
「…………痛いよ……」
小さな呟き。
身を預け切った少年の細い顎を捉えたマイクロトフは、突き上げる情念のおもむくまま、薄く開かれた震える唇に唇を押し当てた。
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