蒼き森の物語 7


それは冬枯れて吐く息も濁る朝だった。
マイクロトフの朝はいつでも早い。規則正しい生活を送っていた頃の名残だろうか、目覚めは常にきっちりと訪れた。魔を宿していても、肉体に染み込ませた習慣は揺るがないらしい。
そこで彼は異変に気付いた。寒い季節には殊更にぴったりと張り付いて眠っている筈のカミューがいない。彼に限ってマイクロトフより先に起き出すことは有り得ないのだ────困ったことに。
「カミュー?」
半身を起こして洞の中を眺め回し、見慣れた笑顔がないことに愕然として跳ね起きる。上着を引っ掴んで洞を出て、朝靄の立ち込める中、魔物に向けて鋭く叫んだ。
「探せ!」
心得たように潜んでいた気配が四方に散らばっていく。マイクロトフもまた、思案しながら放射状になった小路を睨み付けた。戦士の嗅覚と彼自身が生まれ持つ動物的な直感は、すぐにひとつの経路を選び取った。
半ば小走りに枝葉を掻き分けて進む彼に、空中を素早く移動する魔物・いずなが並んで正解を告げる。それは二人が出会った泉に向かう道だった。
「カミュー!」
茂みを抜けた彼は、果たして其処に少年を見つけた。驚いたことにこの寒空、カミューは裸で泉に沈んでいる。
「な……何をしている? 早く上がって来い」
「マイクロトフ……」
見れば夜着に使っている衣服が水面に揺れていた。久しぶりに見る少年の怯え切った表情に察するものがあった。やれやれ、と腰に手を当てて首を振るなりマイクロトフは泉の縁に歩み寄って屈み込んだ。
「いいから来い。風邪をひくぞ」

 

────まったく退屈する暇もない。
マイクロトフは溜め息をついて、泣きそうになっている少年に向かって引き攣った笑みを見せた。

 

 

 

 

枯れ木を集めて作った焚き火だけでは芯まで凍えた身体を温めるには足りず、出遭った夜のように青い上着で少年の肌を包む。ほっそりした肩を引き寄せると、珍しい抗いが起きた。そこで懸念は確定した。
「……初めてだったのか?」
優しく問うと、カミューは驚いたようにマイクロトフを見上げた。瞳に縋る色が浮かんでいる。マイクロトフの教えた言葉遣いに慣れ始め、以前よりもずっと大人びて見えていたカミューだったが、そうしているとやはりまだまだ充分に子供だった。
「別におかしなことではない……健康な男子ならば誰にでもあることだ。むしろ遅かったくらいだと思うぞ?」
「病気ではないの?」
マイクロトフは苦笑した。
「『仲間』たちから聞いたことはなかったのか?」
考え込むカミューの頭を撫で、悩んでから続ける。
「カミュー……赤ん坊がどうして出来るか、知っているか?」
やや不思議そうに瞬いた少年はこくりと頷いた。
「……グラスランドで馬の種付けを見たことがある」
そうか、と頷いた。同世代だった頃の自分にも難問だった生命の神秘を、おしべとめしべから講義せずに済んだことに心から安堵する。
「病気などではない。身体が大人になり始めただけだ。いつか、この世でただ一人の乙女との間に子を授かる日のため、おまえの身体は日々成長している。だから……何も心配しなくていい、カミュー」
するとカミューは久方ぶりに大粒の涙を零した。
「だけど…………」
マイクロトフは桜色の唇が小さく呟いたのを聞こえぬ振りで流した。

 

────ここには二人しかいないのに。

 

しばらくしてカミューは弱く切り出した。
「もし、病気だったら……わたしが傍に居るのを嫌がると思ったんだ」
「おれが……か?」
こくりと頷いて全身を縮こまらせた少年に、微かな痛みを覚える。
「前に、病み疲れた乙女が湖に入って病を癒す話をしてくれたことがあったのを思い出した。それで……わたしも治らないかと思って……」
「……あれはお伽噺だぞ? 病人が冷たい水に入って身体に良い訳がないだろう」
普段は妙に大人びているのに、時折おかしな子供っぽさを露呈する。そう思いながら記憶を探って指摘すると、カミューは儚げに笑った。
「でも……他にどうしていいか分からなかったから……」
自分と離れたくない一心で、不安に戦きながら凍れる水に浸っていた少年の心情を思うと同時に、マイクロトフの胸に激しい情念がさざめいた。
ぼんやりと焚き火を見詰める瞳は熱に浮かされたように潤んでいる。琥珀は焔の影を落として常よりも色を増し、透けるような白磁の貌に張り付く濡れた髪がなまめかしい芳香を放っていた。
少年期特有の中性的な身体の線はだぶついた上着に殆ど隠されていたが、後れ毛から滴る水滴がなだらかなうなじを伝うのが見て取れる。
細い首は穢れを知らぬ純白で、炎に淡く色づく様は扇情的とさえ言えるほどだった。

 

────刹那。

 

マイクロトフは身のうちに宿る魔性の台頭を覚えて身を捩った。
喉元にまで迫上がる渇望を認め、驚愕と恐怖に戦く。魔物を棲まわせてより、初めて感じる凄まじい恐れだった。
マイクロトフと同化した魔物はカミューを求めて荒れ狂っていた。柔らかな肌を掴み締め、思うままに引き裂き、燃やし尽くす欲求に。

 

 

「離れろ、カミュー!」
「マイクロトフ?!」
カミューはいつかと同じようにいきなり突き飛ばされて呆然とした。マイクロトフの瞳が真紅に変わっているのを知り、僅かに後退る。
「早くしろ、離れるんだ!!」
「で、でも────」
困り果てたように周囲を見回し、逆にそろそろと手を差し伸べてくる。マイクロトフは激昂した。
「よせ! おれに触れるな、逃げろ……!!!」
身体中が焼け付くように熱かった。必死の願いも虚しくそっと腕に触れたカミューの掌に、全身が戦慄き、痙攣した。
今や彼の目は紅い空洞だった。怯えの重さと同じほど案じている琥珀が目前に揺れている。意志にかかわらず己の手が少年の手首を鷲掴み、力任せに身体の下に引き倒すと同時にマイクロトフは絶叫した。

 

 

やめろ。
やめてくれ、この子は殺さないでくれ。
この子はおれの────

 

オマエノ?

 

────たったひとつの宝なんだ。

 

 

 

 

吹き出した汗が滑り落ちてカミューの頬に滴った。
見開かれた琥珀に、もう怯えはなかった。
「怖くない」
カミューははっきりと言った────微かに声が掠れていたけれども。
「マイクロトフである限り……たとえどんな魔物であろうと、わたしには恐れる理由などない」

 

 

馬鹿なことを。
愕然としたマイクロトフが見下ろした白い貌は、ゆっくりと微笑みを浮かべていった。咲き誇る穢れなき信頼の花の輝きに射抜かれたとき、体内を巡る灼熱の魔性が狂乱の雄叫びを上げた。
マイクロトフの片手は細い喉首に掛かっていたが、力を込める前に弛緩した。魔物の支配が急速に弱まるのを感謝しながら、マイクロトフは薄暗がりの酩酊に囚われていった。

 

────遠くに自分を呼ぶ甘く哀しげな声が響いていた。

 

 

 

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赤が何に魂消ていたのか。
よもや分からぬ方はいらっしゃいませんね?
やっぱ性教育は外せません、調教ものは(←違う)

そういやマー君(魔物)、祝・初台詞。

 

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