蒼き森の物語 6


カミューは想像以上に聡い子供だった。
遠い故郷に暮らしていたときから、こんな世代の人間との付き合いは無きに等しかったマイクロトフだ。たとえ短い生活であっても、すぐに弊害は露になるだろうとの予想は色々な意味で裏切られることになった。
もともと隊商に養われ、旅暮らしによって自然と馴染んで過ごす時間の多かった少年は、マイクロトフが思うよりもずっとすんなりと森の生活に溶け込んだ。
日の出と共に飛び起きて馬の世話をする必要がなくなったのを幸いとばかりに、ぐずぐずと寝床で惰眠を貪る。代わりに夜はやけに元気で、横になるマイクロトフを揺り起こして他愛もない話をせがむ。うろ覚えの寓話などをマイクロトフが必死に記憶の隅から穿り出しているうちに、穏やかな寝息が聞こえてくる────
そんな日が片手を越えたあたりから、マイクロトフは己の目算の狂いを感じ始めた。
昼間、カミューはマイクロトフの服を掴むようにして森の散策に勤しむ。時折ばったりと出会う魔物たちにぎょっとしたように足を止めてマイクロトフの背後に隠れることはあったが、度重なるうちにそれも慣れてしまった。そのうちに、魔物たちはカミューを『王』の傍にいる生き物だと認めたようにちょっかいを出すこともなくなった。かくしてカミューは短い距離ではあるが、一人で出歩けるようになったのである。
危険な兆候だとマイクロトフは危惧した。
子供の順応性を見くびっていた。
カミューは全身で現在の境遇を受け入れようとする器だった。徘徊する魔物に怯えることを忘れ、人から隔絶された世界に急速に馴染みつつある。マイクロトフを見る瞳には一切の恐怖も躊躇いもなく、庇護者を映すそれである。
頼り切った眼差しに射られ、擦り寄る肌の温みを覚えるたびに困惑するばかりだった。
カミューは斯くも容易く外界への未練を断ち切り、自分との暮らしに満足している。季節を忘れたように不可思議に豊富である森の果物や木の実を食べ、マイクロトフの狩る野兎や鳥に目を丸くし、泉で水浴して震え上がってはマイクロトフの起こす炎に温められてにっこりする。
久々に接した『外』の生命が、次第に自らの領分を侵食する────

 

だが、それはあまりに甘美で穏やかな侵攻だった。
可愛らしい少年の満面の笑顔を向けられるたび、孤独が剥がれ落ちる気がした。間近に子供の体温を感じるたびに、凍りついた時間が溶けて流れ出すような錯覚を覚える。
それがどれほど心地良くても、いつか必ず訪れる筈の別離に備え、マイクロトフは決して少年の存在に馴染むまいと自らを戒め続けた。
それでも、いつのまにか微笑み返す自分がいた。
木の実を取りに出たまま戻らない少年を案じて、いそいそと探し回る自分がいる。名を呼ばれるたびに疼くような喜びに酔いもしたし、カミュー、と呼び掛ける己の声が何処か甘く響くのに気付きもした。
少年は、マイクロトフを哀れんだ蒼き森が与えてくれた唯一の慈悲であったかもしれない。カミューが消える日がくるとしても、せめてその一瞬まで恩恵を味わっても罪とはなるまい。
不老の魔物は灯った光を風から守ろうとするかの如く、新たな生活にのめり込んでいった。

 

 

 

 

諍いもあった。
それは殆どがくだらない理由からくるもので、腹を立てるのは決まってカミューの方だった。
あまりに呑気に朝寝を過ごす怠惰に苛立ったマイクロトフが無理矢理起こしたことが原因であるときもあったし、そろそろ小さくなった衣服の代わりに与えた着替えが気に入らないという理由のときもあった。
もっとも、後者はマイクロトフも失笑せずにはいられなかった。何しろ彼が森で拾ってきた衣服は女の子のドレスだったのだから。
憤慨して烈火の如く喚き立てたカミューだったが、替えの服が手に入るまでの数日間、マイクロトフは可愛らしい少女と同居する錯覚を楽しませて貰ったものだった。

ささいな対立の際、大抵カミューは洞を飛び出して森の中に消えた。やがて日暮れと共に心細くなって戻ってくるのが常だったが、一度だけ例外があった。それは子供慣れしていないマイクロトフには困惑する事態だったのだが────
ある日、唐突にカミューが甘え出した。
それまでも人懐こい少年ではあったが、ぴったりとマイクロトフにへばりついて離れようとしなかったのだ。それが突然生じる子供の人恋しさなのだと気付かなかったマイクロトフは、戸惑い、無視を決め込んだ。邪険に振り払われて傷ついたカミューは、いつものように洞から駆け出て、完全に森が闇に包まれても帰らなかった。
子育ての経験などない男には、手に余る機微だった。
闇は魔物の本性を駆り立てる。戻らぬ少年が、獣の爪に裂かれていないかとはじめは案じ、あるいはようやく『外』へ逃げる気になったのかもしれないと思い至ったときには洞を出ていた。
手足のように動く幾体かの魔物を呼び寄せ、四方に飛ばせた。やがて奥深い茂みの一つに仔犬のように身を丸めて泣き寝入っている少年を見つけたときに、マイクロトフは漠然と悟った。

子供が全霊で求めるもの。
────それは慈しみを込めた大人の強く温かな腕であることを。

眠りについたまま背負われたカミューの掌は、しっかりとマイクロトフの袖を握っていた。濡れた頬が湿らせる背中がひどく切なく、胸に沸き起こったのは確かに忘れかけていた哀憐の情だった。

 

 

 

 

マイクロトフが未だ希望を捨てずに苦心していた頃、書物の商い人の一行が森に入り込んだことがある。たまたま腕に覚えのあったらしい商人らは、武器をもって森を抜けようとして魔物たちの逆鱗に触れた。
見る影もなく引き裂かれた死体を見つけたマイクロトフは嘆息しながら遺体を埋めたが、荷は微かに彼を喜ばせた。
久々に触れる外界の匂い。洞まで持ち帰るのも面倒で、日々散乱した書物の山へ通ったが、やがて雨風に曝されて土くれに還るまで、古文書から他愛のない物語、様々な種の大量の書物はマイクロトフの無聊を慰める貴重な品だった。
十五まで過ごした『外』での生活、そして書物から得た知識を、彼はカミューに教え込むことに没頭した。日がな遊び暮らすよりも、カミューは勉学に強く惹かれたようで、洞の前の広場は即席の学び舎と変わり、彼は熱心に教えを呑みこんでいった。
マイクロトフが驚いたことには、十の歳までカミューが満足な教育を受けたことがなかったということだ。大人びた言葉を操る少年は、だが読み書きとなると初歩の初歩しか知らなかった。
もともと学ぶことが好きだったらしい彼は、砂が水を吸うように知識を受け入れ噛み砕いた。
その記憶力も凄まじいもので、カミューはマイクロトフが数年をかけて読み解いた知識を瞬く間に自分のものにしていった。
終いには教えることがなくなって、騎士団で授かった知識まで与えるようになった頃、カミューは持参した剣を振るえるほどに成長していた。マイクロトフは迷わず剣を教えることにした。
何処にでもはぐれものはいる。森にはマイクロトフに従わない魔物とて皆無ではない。そうした敵に対峙したとき身を守れるよう、カミューに剣技を仕込んだのである。
こちらの才も、並外れたものを持つカミューであった。
不思議なもので、力を前面に押し立てて振るうマイクロトフの癖とは異なる、しなやかな技の剣がカミューの持ち味となった。まだ出来上がっていない細い肢体はユーライアを自在に操るには至っていないが、マイクロトフの目から見てもカミューは天与の才を有する人間であることは間違いなかった。いずれ才能に肉体が追いつけば、見事な剣士となることだろう。
勉学同様、剣の鍛錬にもひたむきに励む姿。少年のけなげさ、素直さを認めたマイクロトフは幾度も目を細めることになった。不器用で口下手な男は滅多に想いを口にすることはなかったが、ほんの時たま褒めてやるときに見せる少年の笑顔は、やがていとけないばかりではない、艶やかな美しさを佩くようになった。
日々成長する掌の宝を、ただマイクロトフは見守り続けた。

 

 

 

 

 

「オレの言葉? 何か変?」
カミューは可愛らしく小首を傾げた。
二度目の夏が過ぎ、そろそろ風が冷気を運ぶようになった季節のことである。
「……変というわけではないが……その言葉遣いはどうもおまえに似合わないような気がする」

 

年月をかけてカミューが手を入れた洞の中は、最初とは見違えるように人の棲む場となっていた。
何処からか拾ってきた布を被せた草の寝床は一端の寝台に見えたし、板切れを組み合わせて作った台は充分に卓として機能していた。汲んで来た湧き水を炎で沸かして、旅人の荷から得た椀と茶葉を使って穏やかな午後のひとときを過ごす、そんな生活も日常となりつつある。

 

「よくわかんないよ……似合わないってどういうこと?」
真面目に問われてマイクロトフは苦笑した。彼自身、説明するのは難しい。
毎日同じ顔を見ているからあまり意識したことはなかったが、ふと気付けばカミューはたいそう美しい顔立ちをしていた。森を駆け回る姿は敏捷な小鹿のようだが、立ち振る舞いには独特の優雅さがある。物心つかぬうちから荒くれた隊商の元で育ったにしては、カミューは擦れていなかった。今のままでも充分魅力的な少年ではあるけれど、マイクロトフには別の思惑があった。
「騎士団に居た頃、とても優雅で品格ある騎士団長がおられた。言葉遣いは柔らかくて、穏やかで……おまえには、そんなふうなのが似合うのではないかと思う」
ふうん、と少し考えたカミューだが、すぐににっこりした。
「マイクロトフがいいなら、そうする。どうすればいいの?」

 

素直なカミュー。
疑うことも知らず、真っ直ぐに見詰め返す瞳の美しさ。
全身で信頼をうたう、しなやかで伸びやかな細身の肉体。
何処へ出ても非の打ち所のない人間にしてやろう。
封印された魔物の巣で育まれたなどと、この世の誰にも言わせぬよう。
────いつか、おまえが『外』に戻る日のために。

 

「まずは……『オレ』ではなく、『わたし』と言うよう、心掛けろ」
「わたし?」
「そうだ。そして……何でもいいからしゃべってみるがいい」
「そんなこと言ったって」
カミューはくすくすと笑いながら膝を抱えた。仕草は幼かったが、以前とは違う優美な身体の線が訳もなくマイクロトフをぎくりとさせた。
「……どんなことでもいいの?」
「ああ」
動揺を押し殺したマイクロトフの目前で、カミューはゆっくりと唇を開いた。

 

「わたしは……いつまでもマイクロトフと一緒に居るよ」

 

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いよいよ自分好みへの調教開始v
幼い色香に動揺するあたりが青いぞ、青。

次回はちとアップに勇気が要る……。
ま、いっか(自虐的)

 

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