蒼き森の物語 5


マイクロトフにとって、それは奇妙な季節の始まりだった。

 

蒼き森に君臨するようになって以来、歪んだ伝説に従って送り込まれた生贄たる人間は数多いた。少年にはああ言ったものの、実際には森の魔物に襲われて落命した人間も多かった。マイクロトフとて始終森中の気配を読んでるわけではないのだ。特に森の入り口などで死んだ人間などは、別の誰かに発見されて噂に拍車をかけたことだろう。
たまたま彼の元へ辿り着いた者がいても、出会うなり曝すのはいずれも恐怖や苦悩、己の悲運を嘆く狂乱といった様相で、まともな会話のひとつも出来たためしがなかった。そういった意味では、カミューはここ数十年来でもっとも勇敢で誇り高い生贄であったわけだ。
彼があの泉まで無事であったのは、ただ己を犠牲にして仲間を救うという強い意志に満ちていて、魔物を刺激する恐怖心や敵意といったものが薄かったからに違いない。
風に教えられ、迎えに出向いた相手は惨めな濡れ鼠の姿で、だがあまりに尊い決意に輝いていた。
彼が口走ったように、何処の世に喜んで喰われにやってくるものがいようか。どうやら孤児らしい自身を育てた大人に報いるため、必死で闇をさ迷った少年には、恩を返すべき大人以上の靱さと気高さ、そして子供らしい素直な感情が同居していた。
興味も覚えたが、同時に胸の奥に警鐘が鳴っていた。マイクロトフにとって少年は、初めて会話に足る相手だったのだ。年齢を感じさせない聡明な琥珀色の瞳、くるくると変わる表情。己が失ったものを悼ませるような命の吐息────
その息吹に引き摺られ、誰にも語る機会のなかった身の上話を聞かせたのは最大の失策だったかもしれない。煌めく瞳の輝きに請われたように言葉を紡いだ自分こそが、何より人に飢えていたのだとあのときには気づかなかったのだ。
魔を宿してから、完全とはいかないまでも他の魔物と意思の疎通が可能となった。けれど、それは決して『会話』などと呼べるものではない。隣に息衝く人間と瞳を合わせながら言葉を交わす、そんな一瞬にどれほど焦がれていたことか。『外』に居た頃とて到底雄弁とは程遠かった我が身を顧みながらマイクロトフは自嘲と嫌悪に塗れていた。
賢しくとも、たかが子供だ。
足のつく泉で溺れ、躊躇うことなく大泣きし、魔物に怯えながらも睡魔に負けて熟睡するような相手に何を求めているのか。
幾度も自問しながら、己に課せられた重い運命を話して聞かせた。
実際のところ、限界だったのかもしれない。
誰かに一緒に嘆いて貰えば、少しは気も晴れるかもしれない────そんな欺瞞に駆られたのかもしれなかった。

 

柔らかな少年の心に爪を立てるような真似をして。
一瞬の慰めを欲した。
自身でさえ、遥か昔の己を振り返れば愚かとしか言えない。騎士団でも稀にみる逸材ともてはやされた剣腕を、正義と人のために活かしたいと思い上がり、血気にはやった結果がこれだ。有り余る時間によって自業自得と苦笑えるようになるまでにはなったものの、未だ慙愧は疼いている。
自分が人喰い山狗を屠ったことを正当としてくれた少年の言葉は、だから何よりも彼をほろりとさせた。決して無駄ではなかったのだ、そう誰かに肯定して貰う瞬間こそ、マイクロトフが長いこと望んでいたものであったのだ。
少年を『外』に送り出し、再び訪れる孤独をマイクロトフは道すがら考え続けた。それは想像以上に寒々しいものになるに違いない。
繋いだ小さな手から伝わる温かさ、そして前夜、懐に抱いて眠らせた少年の規則正しい寝息の優しさ。
知らなければ済んだものを、ひとたび得たものを掌から零さねばならない切なさは計り知れないほどの痛みだった。
マイクロトフは身を切られるような孤独を道連れに生きてきた。
たとえ成長が止まり、老いを知らずとも、紛れもなく『生きて』きたのである。呪われた生に他者を関わらせるつもりなど皆無だったし、カミューに語ったように遠い未来に死をもって解放されることだけが残された道だったのだ。
────あの一瞬までは。

 

少年が自分の孤独に同調してしまったことはわかった。決してマイクロトフが意図した訳ではないが、世間にはそうした人間も稀にいる。
マイクロトフを孤独に取り残すことを恐れ、少女のように整った面立ちが自責を覚えたように歪むのをどうすることも出来ず。
カミューは魔性の姿を垣間見ても揺らがなかった。そればかりか数十倍も歳を経たマイクロトフを怯ませる力強さで踏み込んできた。
カミューの語った心情は、半分は本当のものだろう。前夜マイクロトフが腹を立てたように、大人に利用されたことを嫌悪する潔癖さも確かにある筈だ。
だが、彼は自らの意志でここへ来た。喰ってくれ、そう叫んで詰め寄る少年には痛ましい決意があったではないか。あれほど強く潔い精神を持ったカミューならば、大人たちの元に戻らずとも幾らでも人生を切り開くことが出来ただろう。
留まることを選んだのは、だから結局はマイクロトフへの同情なのだ。大人びてはいても、汚れていない心が哀れなものを見捨てられないように────カミューはマイクロトフを独り残して逃げることが出来なかっただけなのだ。
マイクロトフは緩慢に運命の流れを受け入れることを決めた。
カミューは幼い。
今は不必要な自責に駆られていても、いずれ己の衝動を顧みる日も来るだろう。魔物に付き合って、若々しい時間を無為に過ごすことの愚かしさに気付く。そのときがきたら、黙って送り出してやれば済むことだ。
何より、マイクロトフには少年の吹き出すような懇願に立ち向かう気力もなかったし、申し出を退けるほど自分に冷酷にもなれなかった。
ほんの短い間でも構わない。間近に人の息遣いを感じたいと願うのは、彼の心が未だ人である悲しい証拠でもあったのだから。

 

 

 

「ねえ、洞の中を片付けようよ! こんなに広いんだもの、半分はオレの部屋にしてもいいでしょう?」
はしゃいだ様子でまとわりつく少年を眩しげに見詰めた男は、すぐに溜め息をついて軽く返した。
「どうせ寝るだけだ。このままでも構わないだろう」
「オレ、自分の部屋ってのを持ってみたかったんだよ」
カミューは朗らかに笑いながら、洞の中をくるりと一周した。内部は樹の肌が剥き出しの壁を為しているが、少年には心地良い住処に見えているようだ。
カミューはふと足を止めた。樹肌の壁に刻まれた無数の傷を食い入るように見詰める視線に気づき、マイクロトフは教えてやった。
「……おれが日を数えた跡だ。太陽が沈むたびに、ひとつずつ剣の先で目を入れた。終いにうんざりして止めたがな」
悲しそうな瞳でマイクロトフを見返した少年は、再び傷に目を向けた。数えるのは即座に諦めたようだ。それほどまでに、刻まれた線は無尽だった。
「生活に必要なものはどうしていたの……?」
洞の中はがらんどうで、枯草で設えられた寝床の他には物がない。少年らしい素直な疑問にマイクロトフは柔らかく答えた。
「そうだな……必要なものなど特にないが、森を散策すると行き倒れた旅人などが転がっていることがある。あるいは自ら進んで入り込んできた自殺志願者とか。そういう死人から調達することもある」
カミューは途端に竦んで瞬いた。
「死んだ人の荷物を取るの?」
「ああ」
それからマイクロトフは自嘲の笑みを洩らした。
「……軽蔑するか?」
カミューはしばらく俯いて考え込んでいたが、やがてゆっくりと首を振った。
「グラスランドでもそういう主義の部族があるって聞いたことがある。『死者には必要ないから、生きている者が使う。そうして役立てることは悪じゃない』って」
「偽善ぽいがな」
マイクロトフは頷いて枯草の上に腰を落とした。
「代わりに亡骸を葬ってやれば、更に自責を感じずに済む」
そのままごろりと横たわると、カミューはおずおずと近寄ってきて傍らにちんまりと膝を抱えて座り込んだ。
「……寝ちゃうの?」
ああ、と短く言った。
「昨夜何度おれを蹴飛ばしたか覚えているか? そのたびに起こされて……寝不足気味だぞ」
するとカミューは頬を染めて狼狽した。言い訳を始めようとするのを軽く遮り、マイクロトフは憮然としたまま目を閉じた。
「仮にも『魔王』と称されるものを足蹴にして……おまえこそ、真の勇者だ」
「マイクロトフ……」
「適当にしていろ。だが、洞の外の広場から先には出るな。不用意にうろつけば、どんな理由で魔物を刺激するか分からんからな」

 

 

言い捨てて眠りに引き込まれるマイクロトフは、固く凍りついた己の心に小さな綻びが生まれ始めていることを未だ知らなかった。
ただ、間近で自分を見詰める瞳の清らかな輝きに、久しぶりに悪夢ならぬ夢が見られるかもしれないとだけ、ぼんやりと思った。

 

 

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ここからしばらく青サイド。
考える青、似合わないったら……。

 

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